「星新一」風ショートショート第二弾
ケイ氏は、自分の人生の大部分が「無駄な時間」でできていると感じていた。
毎日決まった時間に起き、すし詰めの満員電車に揺られ、会社では机に積み上がった退屈な書類をただ右から左へと片付ける。上司の小言をやり過ごし、同僚との中身のない雑談に愛想笑いを浮かべる。
(ああ、なんてつまらない毎日だ。早く週末にならないものか。いや、いっそ、あと三十年ほど一瞬で過ぎ去って、たっぷり蓄えができた退職後の生活へワープできたらいいのに……)
携帯端末の画面で、一向に進まない時計の針を眺めながら、彼はいつもそんなことばかりを考えていた。人生の「楽しい瞬間」だけを切り取って、残りの面倒な時間はすべて消えてしまえばいい、と。
そんなある日の仕事帰り、ケイ氏はいつもと違う静かな路地にある、〈亀〉という名のバーに迷い込んだ。
カウンターの隅に、白髪で白い髭をフサフサに蓄えた、上品な好々爺が座っていた。老人は不思議なほど穏やかな笑みを浮かべ、手元にある緑色の光沢を放つ小さな箱を弄っていた。
目が合うと、老人は鈴の鳴るような声で話しかけてきた。
「おや、若い方。ずいぶんと退屈そうな顔をしていますね。もしや、早く時間が過ぎればいい、などと考えておいでですか?」
見透かされたケイ氏が苦笑いしながら「ええ、人生の半分は、体感する価値のないゴミのような時間ですからね」と答えると、老人は「ほう、それは素晴らしい」と目を輝かせ、手元の四角い小箱を差し出した。
「ならば、これを差し上げましょう。代金などいりません。これはあなたの意識を未来へスキップさせる装置です。スキップ中、あなたの肉体はオートプレイモードになり、普段通りに周囲と合わせて動きます。つまり、あなたがゴミだと吐き捨てた時間を、一切体感せずに済むのです」
ケイ氏は半信半疑のまま、老人からその小箱をタダで受け取った。
翌朝、いつものようにうんざりするほど不快な満員電車に揺られたとき、ケイ氏はポケットの中の小箱を思い出し、ダイヤルを「30分後」に合わせ、ボタンを押した。
カチリ。
その瞬間、ケイ氏は得も言われぬ心地よさに包まれた。それはまるで、光の届かない深い海の底で、静かにゆりかごに揺られているような、あるいは母親の胎内に戻ったかのような、究極の安楽さだった。
「おや……」
気がつくと、ケイ氏は会社の最寄り駅の改札を出たところに立っていた。不快な熱気も、他人の放つ悪臭の記憶もどこにもない。それどころか、心も体もすっきりとリフレッシュされている。時計を見れば、確かに30分が経過していた。
「これは本物だ!」
すっかり味を占めたケイ氏は、会社のデスクにつくと、ダイヤルを「午後5時」に合わせて再びボタンを押し込んだ。カチリ。またしてもあの天国のようなまどろみが彼を包み込み、次に目を開けたときには、一瞬の退屈も味わうことなく、完璧に処理された書類の山を前に定時退社を迎えていた。
それからのケイ氏は、この小箱の虜になった。
面倒な上司の説教、気が進まない親戚との付き合い、雨の日の憂鬱な移動時間。それらすべてを、あの心地よい眠りと引き換えにスキップした。彼の人生からはあらゆる「不快」が消え去り、都合の良い結果だけが残った。
ある日、ケイ氏は親戚の法事に出席することになった。
退屈極まりない読経の最中、あと少しで終わるというところで、彼はズボンのポケットの中で手探りで装置を操作した。
「よし、残り30分だけスキップしよう」
彼は手探りでダイヤルを回し、ボタンを押し込んだ。
カチリ。
いつも通りの深く心地よい眠りが彼を包み込んだ。しかし、今回は妙だった。美しい音楽が遠くで鳴っているような感覚が、いつまでも、いつまでも続いた。
やがて目が覚めたとき、ケイ氏は激しく咳き込んだ。部屋の中が、見たこともない真っ白な煙で満ちていたからだ。手元の小箱の隙間から、シューシューと勢いよく白い煙が噴き出し、どこか懐かしい甘い香りが部屋に充満している。
慌てて窓を開け、煙が薄れるにつれ、彼は自分の身体に強烈な違和感を覚えた。身体中が鉛のように重く、節々が激しく痛む。目の前にあるのは親戚の家ではなく、見覚えのない、埃っぽい自分の部屋だった。
洗面所に駆け込み、鏡を見て、彼は悲鳴を上げようとしたが、口から出たのは枯れた掠れ声だった。
鏡の中にいたのは、髪がすっかり白くなり、顔中に深いシワを刻んだ、紛れもない老人の姿だった。
「な、なんだこれは……。私の顔が……」
自分の皮膚はカサカサに乾き、シミが浮き出ている。端末のカレンダーを確認して、彼は絶句した。自分が記憶している日付から、いつの間にか30年もの歳月が流れていたのだ。
小箱を確認すると、ダイヤルの横にある小さな切り替えスイッチが、何かの拍子に「分」から「年」のほうに切り替わっていた。彼は30分のつもりで、「30年間」を一度にスキップしてしまったのだ。
さらに、震える手で銀行口座を確認すると、そこには平社員のケイ氏が生涯かけても稼げないほどの、見たこともない莫大な大金が振り込まれていた。
「私は30年間もスキップして、まともに働きもしていない。あの老人は、これをタダでくれたはずなのに、なぜこんな大金が……?」
わけが分からなくなったケイ氏は、装置の裏に書かれていた連絡先を思い出し、あの好々爺を、約束の公園へと呼び出した。
公園のベンチに座っていたのは、あの時と変わらぬ、白髪で白い髭がフサフサの老人だった。ケイ氏が変わり果てた老人になった姿を見ても、彼は驚く風でもなく、ただ穏やかに微笑んだ。
「やあ、久しぶりだね。ずいぶんと長く、素晴らしい夢を見ていたようだね」
ケイ氏は、掠れた声で男に詰め寄った。
「夢だと!? 私は誤操作のせいで、30年もの時間を失った! なぜ私はこんな老人になったんだ! そしてこの大金は、一体どこから!」
老人は、フサフサの髭を愛おしげに撫でながら、静かに語り始めた。
「落ち着きなさい、ケイ氏。あの小箱、実はね、あなたがスキップした『つまらない時間』を、肉体の『寿命』として買い取るシステムになっているんだよ。不老不死を求める大富豪たちが、莫大なお金を払って、あなたの若さと時間を買い取っていたんだ。その代金が、自動的にあなたの口座に振り込まれるようになっていたのさ」
「じゅ、寿命……?」
「そう。あなたが『海の底のような心地よさ』を感じていたあの時間は、あなたの命が少しずつ、他人の身体へ移されていく過程だったんだ。その大金は、あなたの命の代償さ。本来なら、ちょこちょこと細かく売るはずだったんだが……。まさか一気に30年分もまとめて売却するとは、君もなかなかの命知らずだねえ」
ケイ氏は、自分が何十億円もの大金と引き換えに、自ら命を切り売りしていたことを知った。そういえば思い出す。あのバーで自分は、「いっそあと三十年ほど一瞬で過ぎ去って、退職後の生活へワープできたらいい」と願ったのだった。
「あなたは大富豪になった。一切の苦労をすることなく、面倒なことも味わわず、ただ心地よい夢を見ていただけ。おめでとう。あなたは、自分の望み通り、完璧な『幸せな老後』を手に入れたのだよ」
老人は、そう言うとベンチから立ち上がった。
「ただね……一度開けてしまったものは、二度と元には戻せない。それが、この箱のルールさ。あなたが『スキップ』した時間は、もうあなたのものじゃないんだ」
老人は、夕暮れの公園の奥へと、音もなく消えていった。
ケイ氏は、ポケットの中の莫大な大金が入った通帳と、もう二度と「カチリ」と鳴ることのない、空っぽになった小さな箱を見つめながら、枯れた身体で、一人ベンチに取り残された。
彼の目の前には、ただ、冷たい夜が近づいていた。




