6-1. 提案(1)
空は茜色から紫紺へと移りゆき、室内に薄闇を落としている。
(こんなに、のんびりしたのはいつぶりだろう)
シトラは窓際から一歩も動かず、夕焼けに胸を痛めながら、姿を変える空と雲海をただ見つめていた。
これまで自分に課せられてきたのは、きつい肉体労働ではない。虐待もされず、食料も衣服も与えられた。しかし、常に他者の言動の裏を読み、それに対する最適解を出せと命じられる日々は、確実にシトラの心を割り続ける。わずかな休息の時間に頭を無にすることで、シトラは毎日刻まれるひびに紙を張り付け、ごまかしてきた。
だから、唐突に訪れたこの安息の時を、どう過ごしていいかわからない。
風の音もしない静寂。
呼吸を止めたら胸の下で小さく鳴る鼓動の音がしそうなほどに、静かだ。
その静けさが、空気を震わせるような気配で破られる。背後でそっと衣擦れの音がした。
「遅くなった。待たせたね」
振り向くと、クレイスが軽く息を吐きながら額に手を当てていた。夕闇で表情は見えない。
「ずいぶんと日が傾いてしまった。退屈させていただろうか」
彼はそう言いながら、指を振っていくつかの魔導燈を一度につける。暗くなった室内が温かな光で満たされ、どこか申し訳なさ気に眉を下げた彼の顔が照らされた。
「おかえり、クレイス」
シトラは窓から離れ、所在なさげに彼の横に立った。
「全然、退屈じゃなかったよ。こういう時間過ごすこと、あまりなかったから」
そうか、なり、よかった、なりの言葉が返ってくることを想像して、シトラはクレイスの言葉を待った。しかし、返事はない。
顔を上げると、彼は首を回すようにこちらを見下ろして、その長い睫毛を一度震わせるようにまたたき、ふいと顔をそむけた。
「……ああ。ただいま」
クレイスは、魔導燈の明かりに目を細めながら、長椅子に歩み寄り純白の長衣をさらりと脱いで背もたれに掛けた。高襟の簡素な装いになった彼は、そのまま台所へ向かって食料棚を覗き込み、はたと動きを止める。
「厨房で何か分けてもらうべきだったか」
小さな独り言に導かれ、シトラは彼に続いて台所へと歩み寄った。カウンター越しに眺めていると、彼はいくつかの食材を手にとってシトラに背を向け、苦笑交じりに告げる。
「見ての通り、私はずっと一人で暮らしていたからね。客人に出せるような食材が、ここには何もないんだ。……困ったな」
背を見せたまま、彼は食料棚を指した。見れば確かに棚はがら空きで、申し訳程度の保存食がいくつか並ぶだけだった。
「パンと、簡単なスープ、それにチーズくらいしか用意できない。伯爵家の出であるあなたに満足してもらえるような食事は出せないが、許してもらえるかな」
クレイスは言いながら、根菜の皮を剥き、手早く刻み始める。その手つきは迷いがなく慣れていて、心地よい拍のような音が室内に響き渡った。
(……筆頭宮廷魔術士が、料理?)
シトラの中でその拍は打撃音にも似て、脳を強く揺さぶり、『クレイス』という人間の定義を劇的に再構築させた。これまで彼について聞いたものと言えば、小国を一夜にして滅ぼせるだの、王国の安危をその一身に体現するだの、どこまでが真実かわからないような規模が大きすぎる噂しか耳にしてこなかった。昼間に垣間見た青年らしいはにかみに加え、この手慣れた料理姿を目にすれば、その噂は、彼の一面を殊更大きく取り上げたものにすぎないのだと気づかされる。
「伯爵家って言っても、私を売るくらい困窮してたし。チーズもつくなんて嬉しいな」
野菜を刻む音が一瞬止む。クレイスが別の野菜を手に取り、ぱりぱりと軽い音をさせて皮を剥いた。
「チーズひとつで喜んでもらえるならありがたい。だが、今後はもう少し気の利いた食材を用意すると約束しよう」
あくまで律儀に返す彼に、シトラは居心地の悪さを感じて、カウンターに乗り出すようにして声をかけた。
「何か私にできること、ある?」
クレイスはその問いかけにすぐに答えず、刻んだ野菜を鍋に入れ、木べらで丹念に炒め始める。
「率直に言えば、ない。むしろ、『何もしないこと』があなたのすべきことだと、私は思う」
商会の時とは正反対の朴訥な口調が、鍋の中で野菜が炒められる音と手を取り合っていた。
「あなたに小さな仕事を割り振ることは簡単だが……私はね、あなたに、ただ休んでいてほしいんだ。魔力回路が通ったばかりの体ということもあるし、何より、こうして誰かに料理を振舞うことを、私自身が楽しんでいるんだよ。もしどうしても何かをしたいのなら、お願いしよう。だが、もしよければ、そこでそのまま話していてくれないか」
じゅわっと水を注ぎ入れる音がする。
居心地の悪さを抱えたまま、シトラはカウンターに体を預けるようにして、台所から見える居室を見回した。大書架の奥に続く廊下のほか、広々とした室内には扉がいくつかついていて、上へと続く階段もあり、塔という外見にそぐわない空間を感じさせる。魔術で拡張されているのかもしれない。その広さの割に、この塔にはまるで人の気配がなかった。
「この塔……クレイス以外に住んでいる人はいないんだね。執事さんや使いの人もいない。全部一人でしているの? 魔術で?」
クレイスは香草を折り、鍋に入れた。鍋肌がふつふつと煮える気配とともに、爽やかな香りが立ち上る。
「使用人はおいていないんだ。他人がいるとどうしても、音や気配が気になってね。掃除や洗濯は魔術で済ませてしまうことが多いが、料理は別かな。これが結構、いい気分転換になるんだよ。細かな作業は心が落ち着くしね」
「それなら……」
シトラは言いかけて口を噤んだ。
自分がいると迷惑なのでは。邪魔なのでは。そんなことを直接言って、はいそうですと認める人間はいないだろう。それは単に否定されたい、許されたいだけの言葉にしかならない。
口に出してもいいのだ。普通の会話なら。普通の人なら。受容し合うことを許される関係なら。ただこの場で彼相手に自分が言うのは、ふさわしくない。
「……スープもきっと、美味しくできるね」
彼はその言葉に、だといいのだが、と頷いた。
◇
クレイスは配膳すらシトラに任せず、その上、食卓の椅子を引いてそこに座るよう自然な所作で促した。
慣れない扱いに戸惑いながら、シトラは心の中で食前の祈りを捧げる。
前世で染み付いた『いただきます』は、今でも自然と自分の中に息づいている。それは、シトラという魂の核が、この世界だけでなく、前世も含めて育まれたものだという証にも似ていた。
スプーンを器に沈め、口に運ぶと、野菜の甘みが溶け込んだスープが、温かさとともにじわりと広がっていく。滋味深く素朴な味に、シトラの手が止まった。
胸が詰まる。
商会で出されていた食事は、備品の機能を維持するための整備でしかなかった。生家ですら、父と兄から向けられる冷ややかな空気が味付けの代わりだった。
湯気の立つスープを、シトラは一口ずつ大切に味わう。飲み干してしまえば、この時間が終わってしまう。この時間が終わってしまえば、また次を期待してしまう。
「私は、いつまでここにいるんだろう。魔力回路はもう、落ち着いたんだよね。今日はもう暗いから、明日の朝になるのかな? 王宮での取り調べとか、商会への関与の説明とか、あるだろうし……」
言い終わる前に、小さく、スプーンと器が触れ合う硬質な音がして、シトラは言葉を切った。
クレイスが、わずかに眉を寄せてこちらを見つめている。
「商会への関与か。……あなたがあの商会で何をしていたか、聞かせてもらえるかな」
「ええと……魔石や他の商品の売買交渉の台本と、調査員の対応の台本を書いてた」
「売買交渉と、調査員対応か。あの応接室の外ではしていないね?」
「うん。食事と寝るとき以外はずっと応接室にいたから」
そうか、とクレイスは息を吐いた。
「取り調べの必要はない。あなたは罪を犯してはいないんだ。理由は三つ。一つ、あなたはあの商会が何を行っていたか知らされていない。二つ、あの場所においてあなたに自由意思はなかった。三つ、あなたがしていたことは正当な売買交渉でしかない。調査員の対応に関しては評価が分かれる可能性もあるが、二つ目の理由によって、その行為にあなたの意思が関わっていないこと、指示に反した際に予見できるあなた自身への損害を考えれば、その行為を罪とは呼べないよ」
言葉の中身の硬さとは裏腹に、彼は目元を緩ませてシトラに伝える。
「だからそんなに焦って出ていこうとしないでくれ」
たった一言で、自分のしようとしたことを的確に言い当てられ、シトラの頬が熱くなった。
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