5. 原石
シトラの唇がその名を紡いだ瞬間、クレイスの胸に波紋のような震えが広がった。先ほどまで己の意思すら表そうとしなかった生き物が、その外殻を脱ぎ、ほんの少しだけ中身をのぞかせ、こちらに手を伸ばしたのだ。
初めて呼ばれた名を、彼はとても大事に口の中で転がした。
「うん。……とても、いいね」
苦笑するシトラの手を上下から挟むようにして、クレイスは包み込む。
「ありがとう」
彼よりも小さな柔らかい手は、温かく、孵化したてのか細い生命のようにクレイスの手の中で息づいていた。その熱を慈しむように、慎重に魔力を流していく。
決して届かなかったシトラの体の奥、一番深い部分の隅々にまで、クレイスの魔力が浸透する。最後の結節点が、まるで錠を回すように開いた時、シトラの頬にほんのりとした血色が戻った。それを認めて、彼はひそかに息を吐く。
クレイスはシトラの手を静かに解放した。
「ひとまず、応急処置は完了した。それと、これは魔術契約を繋いだわけではないから、安心してほしい。あなたの自由や尊厳は保たれている」
立ち上がり、彼は大窓と反対側に位置する簡素な台所へと向かった。湯を沸かし茶葉を用意しながら、クレイスはシトラに声をかける。
「ようやくあなたに、茶を出せるな。驚きの連続で疲れただろう? 何しろ、私が商会へ査察に行ってから――」
茶葉の缶にスプーンを差し込む手が止まった。
「しまった」
クレイスの脳裏に、数刻前の出来事が鮮明によみがえる。
『ただの視察さ。そう長居するつもりもない』そう言ったのはどこの誰だ。自分だ。
やむを得ない突発的事象が起こったとはいえ、自分は調査対象の核心部分を『連れ帰る』という、想定外の荒療治を行ってしまった。今頃、王宮の執務室では首席補佐官が床に穴が開くほど靴音を鳴らして歩き回っているかもしれない。
深く嘆息しながら、クレイスは予定よりも少ない一人前の量の茶葉を茶器に入れ、沸いた湯を注いだ。盆に載せ、長椅子の前の低い卓にそれを置くと、彼は心底申し訳ない気持ちを抱えながら、シトラに向かって詫びる。
「シトラ、すまない。私の家に連れてきておきながら、非常に心苦しいのだが……私はこれから、王宮に戻らなくてはならないんだ」
王宮と聞いたシトラは、納得したように数度頷いた。理解の速さが痛ましい。本来ならゆっくりと茶を喫しあい、様々な話ができただろうに。出会ったばかりの男の家に一人留め置かれるのは快いことではないだろう。
だがそれでも、クレイスは王宮に戻らなければならなかった。
「魔塔の結界の中にいれば、滅多なことでもない限り回路も安定するだろう。あなたは孵ったばかりの雛鳥だ。その身が安定するまでは、一人で外に出ないほうがいい。夕刻には必ず戻るから、ひとまず私の帰りを待っていてくれないか。ここにある本は何を読んでも構わないし、自由に過ごしてくれ。あとは……」
彼が慎重に、しかし言葉を尽くして伝えるのを見て、シトラは羽毛のように笑った。
「そんなに心配しなくて大丈夫だよ。大人しく待ってるから」
控えめに伏せられた黒い睫毛が揺れ、目元に影が落ちる。
軽やかな言葉は先ほど施行した魔塔法に則ったものなのだろうが、彼女を一人残していくクレイスにとってそれは、足を留める錨にも似た重みを持っていた。
「ああ……頼んだよ。できるだけ早く帰る」
彼は長椅子から離れ、転移のためにと一度呼吸する。そんなことをしなくとも転移することは当然できたが、そうすることがためらわれるのを、クレイスは理解していた。
「わかった。気をつけてね」
言った直後に、シトラは自分の言葉に驚いたように、口元に手を当て、気まずそうに会釈した。
クレイスは、自身に掛けられたその言葉の異質な清新さに、しばし言葉を忘れて立ち尽くす。
王国の至宝たる筆頭に対し、誰もが「ご武運を」と勝利を前提に送り出すか、「吉報をお待ちいたします」と結果を求めるのが常だ。筆頭が傷つく可能性、筆頭が失敗する可能性など、誰も予測すらしたことがない。
しかし、彼女は言った。「気をつけてね」と。
「…………ふ、」
くすぐったいような吐息が喉の奥から漏れ、唇を掠めた。
それを目にし、シトラはますます気まずそうに肩を竦める。
「いや、気にしないでくれ。おかしくて笑ったわけじゃないんだ。ただ……『私の身』を案じられることなど、初めてのような気がしてね。少し照れただけさ」
クレイスは胸の中に彼女の言葉をしまい込む仕草をすると、指を伸ばしてゆるりと円を描いた。
「では、行ってくるよ。……いい子で待っていて」
◇
いい子で。
シトラは彼が揺らめくように消えた空間を見つめている。
まるで幼子に言うような、あやす口調で紡がれた言葉が、その耳の周りを飛び回っていた。
「いい子で……ね」
自分で口にするとことさら恥ずかしさが増した。もしかしたらこれは、彼が仕掛けた仕返しなのかもしれない。
前世、日本に生まれて三十半ばまでの人生を送り、こちらの世界に生まれ落ちて二十四年だ。両方足したら還暦になるというのに、いい子扱いされることがどこか可笑しく、なぜか痛い。
――古い記憶が掘り起こされようとしている痛みだ。
シトラは、しばらく自分がぼんやりしていたことに気が付いた。茶器を手に取ると、カップに紅茶をゆっくりと注ぐ。一口含むと、抽出しすぎたタンニンの渋みが舌にまとわりついた。
「痛い、痛い」
その独り言は、シトラにとってはおまじないだった。前世の『黒歴史』であったり、もしくはもっと根源的な、直視してはいけない記憶が顔をのぞかせようとしたときに、気をそらすための短い言葉。
シトラは渋い紅茶を飲み干すと、立ち上がり、痛い痛いと言いながらずっと気になっていた大窓に歩み寄った。窓の外には見渡す限りの青と白、ゆるやかに波打つ雲の海。魔塔の最上部が雲の上まで届くのは知識として知っていたが、こうして実際目の当たりにするとその規模の雄大さに肌が粟立った。
天を衝く魔塔。国の護りの根幹。その魔塔の主である魔術士クレイスを、人は、歴史書に記されるであろう偉大な人物として崇め、畏れている。だが先ほどの彼は、シトラの発した『気をつけてね』という言葉に笑う、一人の青年だった。
シトラのその言葉は油断から零れ落ちたものだったが、彼が気に入っていたようなので弁明することはできなかった。
知識として、あるいは対人作法として、前世で口にしていた何気ない言葉。これまで意識的に使っていたその言葉を、シトラはつい、彼に向かって言ってしまった。理由はわからない。言ってからすぐに、その意味のなさには気が付いた。
筆頭宮廷魔術士に対し、いくらなんでも『気をつけてね』はないだろう。むしろ災いが尻尾を巻いて逃げ出すのではないか。
だが彼は呆れなかった。どころか、穏やかにそれを受け止めた。
『私の身を案じられることなど、初めてのような気がしてね』という彼の言葉は、身の程知らずな、共感めいた感情をシトラに芽生えさせる。シトラは敢えてその感情を遠ざけた。触れてしまえば距離をとることが難しいと思われた。
窓の向こうの雲海はたゆたい、局所的に形を変えるも、海は海のまま在り続ける。
シトラはそっと窓硝子に指の腹を押し当てた。冷えた硝子の硬質な手触りが、中と外の温度差をはっきりと伝えていた。
◇
「――遅い!」
クレイスが転移し終わるや否や、鋭い怒声が鼓膜を打った。
執務机の前で腕を組み、エレナは苛立ちを隠すことなく眉を吊り上げて彼を睨んでいる。
「これのどこが『長居するつもりはない』なわけ? あと半刻遅れていたら、騎士団を動かすべきかカシアンに相談するところだったわよ」
エレナはクレイスの全身を、頭からつま先まで視線で往復し、変わりがないことを確かめて不満げに息を吐いた。
「貴方はこの国の『至宝』なの。万が一変な罠や呪いにかかりでもして、魔力が損なわれたら取り返しがつかないのよ。今朝も言ったけど、あなたはこの世界で唯一の存在だっていう自覚をもっと――」
クレイスは、小言を撃ち続けるエレナに向かって片手を上げた。
補佐官としてエレナはいつでも正しい。学生時代からクレイスを追うように実力を磨いてきた彼女は、首席補佐官に就いてからは常に彼を案じ続けてきた。
だがそれはあくまで筆頭宮廷魔術士に向ける言葉であり、クレイス個人に向けられるものではない。彼女の瞳はいつだって『至宝』の輝きに向けられている。もし自分が魔力を失えば、彼女は真っ先に失望し、その隣から去っていくだろう。
それは悪いことではない。少なくとも、当たり前のことだと感じていた。今朝までは。
クレイスは上げた片手を下ろし、胸を押さえた。
「心配をかけてすまなかったね。だが、成果はあったよ」
言葉を遮られ、不服そうな補佐官の横をすり抜けて、クレイスは執務机の椅子に座る。そしてすぐさま羽ペンを取り出すと、机の上に広げられていた羊皮紙にさっと目を通し認可の署名を書き入れ始めた。
「潔白の仕組みは解明した。原因となっていた特異点は、私が回収済みだ。それと主要国会議の会場視察はこの後行う。代わりに明日は一日休暇を取る」
「休暇ですって? また勝手な……」
「明後日から連日会議なんだ、それくらい構わないだろう。あと、あの商会の組合資産保有認可原簿を出してくれ」
机の上に、原簿がやや手荒く載せられる。
その原簿に素早く視線を走らせ、『目的の記載』がないことを確認してクレイスは頷いた。
「商会への調査は続行。彼らが保有していた未届違法資材の保全権は、筆頭宮廷魔術士である私個人に移管する。手続きはこちらでしておこう」
資材、という言葉に苦みを感じながら、彼は事務的に告げた。
「資材? 貴方がそんなものに興味を持つなんて珍しいわね。何なの? 危険な魔導具でもあった?」
エレナが怪訝そうな声で問いかけた。クレイスは、努めて硬い声を保ちながら、慎重に言葉を選ぶ。
「そうだね……似たようなものだよ。危うく脆いが、世界を照らす光にもなり得る。私の手で守らねばならない『原石』だ」
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