4-1. 初めての(1)
その空間を見るシトラの目は、しばらくまたたきを忘れていた。
目の前には、三階分はあろうかという吹き抜けをそのまま切り取ったかのような大窓。黒く細い桟が縦横に走っていて、その向こうに抜けるような青い空と雲海が見える。両壁は高い天井まで届く一面の本棚、手提げの角灯が淡く光りながら幾つも宙に浮かんでいた。
「ここが私の家だ。気分はどうかな、目は回っていないか?」
クレイスはシトラの肩から手を降ろし、体をやや遠ざける。手は繋いだまま、まるで野生の小鳥を脅かさないような慎重さで問いかけた。
「急なことで驚かせてしまったね。先ほども言ったとおり、落ち着くまで手を離すことができないんだ。すまないが、もう少しだけ我慢してくれ」
ふたたび詫びるクレイスの声。シトラは空間転移の、全身が裏返るような感覚の残滓に酔いながら、その言葉にわずかに目を見張った。こちらを見下ろすクレイスの顔は、眉尻が下がり、苦笑にも似た曖昧な色を滲ませている。
この男は――この国の魔術の頂点に君臨する筆頭宮廷魔術士だ。魑魅魍魎が跋扈する王宮において、いくらでも政敵を黙らせてきたことだろう。その彼が、商会の従業員ですらない、ただの人的資材としての自分に、なぜここまで礼節を保つのか。
この命を助けようとしているのなら、むしろ『大人しくしていろ』と威圧してもおかしくない場面だ。それなのに。
「構い……ません」
かすかな動揺が、シトラの声を震わせる。
うん、と彼は短く頷くと、繋いだ手を引くようにして、暖炉の前の長椅子の近くにシトラを誘導した。
「無理はしなくていいんだよ。初めての転移は、平衡感覚を水の底に置き忘れたような浮遊感が残るからね。さあ、ゆっくり座って」
促されて座るシトラの横に、十分な間隔を空けてクレイスもまた腰を下ろした。彼は長衣の裾を直しながら冷えた暖炉に視線を送る。一呼吸の後に、沈黙していた炉が燃え上がり、熱と光が溢れだした。
「本当なら、茶の一杯でも供したいところだが」
クレイスは繋いだ手を軽く振ってみせた。冷えていた手はすっかり温まっている。
「そういえば、まだ名乗っていなかったね。私の名はクレイス。この国の筆頭宮廷魔術士を務めている。あなたの名前を、うかがってもいいだろうか」
あくまでも丁寧なクレイスの物腰に、シトラは思わず彼の顔を見た。
そして、ゆっくりと息を吸って、上体をそっと傾げる。
「……存じております、閣下」
頭をゆっくりと上げ、シトラもまた、礼節を尽くすように、彼への敬意を滲ませた微笑みを浮かべた。
「私は、ユーネルディア伯爵家長女、シトラと申します」
自分を売った家の名など口にしたくもなかったが、彼が公的な役職を述べている以上、こちらもまた、素性を明かすのが筋というものだろう。
「……そうか、ユーネルディアの」
クレイスは最後まで言わず、途中で言葉を濁してわずかに目を伏せた。おそらくは、没落した家の、しかも成人してなお隠された娘への配慮。
「シトラ。……響きの良い、美しい名だね」
噛みしめるように名を呼び、彼は柔らかく微笑みを返した。
「だが、わからないな。伯爵家のご令嬢であるあなたが、なぜあのような商会で……それも、物言わぬ器物のような扱いを受けることになったのか」
クレイスは、ひどく痛ましげにその言葉を紡いだ。彼の親指が、シトラの指の背を労わるようにさする。彼の指が動くたび、シトラの中に穏やかな魔力が流れ込み、抉じ開けられた扉の先の通り道を、癒すように撫でていった。
「言いたくなければ、言わなくていいんだ。これは、これからあなたを預かる身として、ただ事情を知っておきたいという……私のわがままだからね」
保護する者の事情を聞く、という当然の行為すら、彼は自分のわがままとしてシトラに差し出していた。その態度に、シトラは深く深く、息を吐く。
――信じられないことではあるが、彼は、この上なく誠実だ。
誠実な人間相手に、偽りの言葉を述べ、あるいは口を閉ざす行為を、シトラは絶対に認めない。
「……私には、生まれつき魔力回路が備わっておりません」
シトラの声は、悲しみも諦めもなく、単に事実を述べているだけの事務的なものだった。
「この国の貴族として、回路の存在しない者は一族の恥でございましょう。さらには、閣下も先ほどご存知になった通り、私は他者の言動を認知し演算するという特性を持っております。それゆえ生家では、言ってもいないことを読み取る、と大層気味悪がられておりました」
苦い思い出がよみがえり、シトラは一度言葉を切った。
「成長してからは、他家との交流や商談の場などに同席し、相手の思考や行動原理を分析する備品として扱われました。ただ、膨らむ借金が返しきれず、備品である私が、先の商会に金子のかわりに引き取られた。……それだけの話です」
話し終わると、また、広い居室に静寂が満ちた。暖炉の薪が細かく爆ぜる音が耳に心地よく、先ほどよみがえった過去の記憶も、時の彼方に押し戻してくれるかのようだ。
「シトラ。あなたは、備品ではない」
はっきりとした声で、クレイスは言った。
「あなたの力も、そうだ。誰にも『気味が悪い』などとは言わせない。その力は、人が見落とすほどの微細な機微を読み解く、優れた『知性』だよ。……だが、それを身を守るために使い続けるのは、さぞ骨が折れただろう」
シトラは、初めて聞く音楽の旋律を確かめるように、その言葉をひとつひとつなぞった。
誠実な彼の言葉に、嘘はない。だからこれは、彼が心から感じていることなのだ。
「それと、あなたは『回路が備わっていない』と言ったね。確かに、これまではそう見えていたのだろう。だが」
クレイスは真摯なまなざしで、シトラを見つめた。
「あの商会で私があなたに触れた時、私は、あなたが持つ羽ペンとセルヴァン氏の眼鏡を繋ぐ魔力を断とうと、あなたを介して羽ペンに魔力を流したんだ。ところが、そこで予想外のことが起きた。私の魔力があなたに流れ込み、共鳴した。あなたという器が、自らを満たす魔力を見つけ、余すことなく吸い込もうとした」
魔術士として、魔術に携わる者として、彼は誠意をもって説明している。
「その結果、あなたの回路が通った。なぜか? それはあなたが、適性を持っていたからだ。私と同じ、全属性の」
ふ、とクレイスはどこか嬉しそうに息を吐いた。
「驚いたよ。全属性は歴史上、私を含め数えるほどしか存在しない特異点だ。しかし、だからこそ、私の魔力が過剰に馴染んでしまった。あなたという原石を見つけ出し、魔力が歓喜してしまったのだろう」
シトラは、自分の体に起こっている出来事のすべてを語るクレイスを、ただじっと見つめていた。申し訳なさそうに、あるいは気恥ずかしそうに、自嘲と戸惑い、喜びを持って語る彼は、単なる一人の、年相応の青年らしく見える。
「では、この奔流は……回路が開いたということなのですか? 備わっていなかったのではなく?」
その通りだ、とクレイスは頷いた。
「備わっていないという言い方は、最近の学説によると正確ではない。正しくは、誰にでも回路の基は存在する。ただ、それが自然に開いているか開じているかの違いでしかないんだ。その差は、血統に寄る影響もあれば、生まれてから魔力にどれだけ晒されたかなど、多数の環境的要因が関わるとされている。閉じた回路を無いものと表現するのは、体感としてはそうなのだろう。どんなに魔力を通しても回路が閉じたままの者もいれば、回路が通っても魔力量はわずかな者もいる。逆に、生まれつき回路が開いていて、周囲に影響を及ぼすほどの魔力を持つ者もいる。まだその違いについては解明されていないが、あなたの場合は……」
彼は、シトラの理解が置き去りになっていないかを確かめるように、わずかな間を空けた。
「……例えるなら、今まで巨石がせき止めていた源泉に、私の魔力という水が急激に流れ込んで、その石ごと一気に押し流したんだ。本来なら、幼少期から長い時をかけて徐々に開いていくものなのだが……。あなたの場合は、私が無理やり、回路を刻んでしまったからね」
それはシトラにとっては感謝こそすれ責めるものではないものなのに、クレイスの声音には自責の響きが混ざっている。
「あなたがずっと持っていなかったと感じていたものは、見えなかっただけだ。そして今、あなたの回路は目覚めようとしている。これは、あなたが無能などではなかったという、何よりの証だよ」
その一言に、シトラは、胸の中に生じかけていた熱がすっと引くのを感じた。
『無能』ではない。なぜなら、『回路は備わっていて、目覚めた』のだから。
その言葉が慰めとして紡がれたのは理解している。しかし、シトラの心には、それは刃のような痛みを伴って届いた。
自分はこれまで生きてきて、他者に無能と言われようと、決して自身を無能と思ったことはない。一度もない。
魔力回路はないが、それだけだ、と。
なのに、彼のように誠意のある人を持ってしても、『魔力の有無』で人間の価値が変わるのは真理なのだ、というこの世界の常識が、これまでのシトラの生きざまをまるで全否定するようで、顔が歪みそうになるほどに苦しかった。
「……ありがとうございます、閣下」
シトラは柔らかく頭を下げたが、その体は強張っていた。繋いだ手の指先が、意思に反して微かに硬直する。
クレイスは何も言わない。
一呼吸、二呼吸。反応はない。
伝わってしまった、とシトラは思った。
自分の感情制御が未熟なせいで、彼に、不快な思いをさせたかもしれない。
謝るべきだろうか。言葉を重ねるべきか。親切な彼に何を差し出せば、この空気を和らげられるだろう。
当惑し、逡巡するシトラの頭上から、静かな溜息が降ってくる。
「……すまない。顔を上げてくれないか」
乞われ、シトラはゆっくりと姿勢を戻した。
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