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9-2. 離れていても(2)

     ◇


 粘つくように重い体が、意識を引っ張り上げる。


 四肢を縮こまらせるようにして眠っていたシトラは、すっぽりと頬まで毛布が掛けられていることに気づき、その意味を悟って瞼をなんとかこじ開けた。


 室内は暗く、大窓の向こうにはどこまでも深い星空が広がっている。


 まだ眠っていたい、と悲鳴を上げる体を叱咤して、シトラは長椅子から起き上がった。


 濃灰色の毛布がずり落ち、中からもう一枚、宵闇色の膝掛けが、シトラの身を包むように現れる。

 クレイスが掛けてくれたのだろう。


 しかし、室内に人の気配は感じられなかった。


「やっちゃったな……」

 思わず洩れた独り言は硬い。

 長椅子で魔導書を読んでいたところまでは覚えている。昼食を食べなければと思いつつ、第六章をもう一度読んでから、と後回しにして――そこから、記憶がない。


 毛布と膝掛けを丁寧にたたみ直し、シトラは暗くなった部屋に明かりを灯す。最後の魔導燈のつまみを回した時、ふと、柔らかく丸い匂いが漂っていることに気がついた。


 見れば食卓の真ん中に、両手鍋が置いてある。その脇に一枚の紙片。

 シトラはその紙片を手に取り、目を落とす。


『保温魔術をかけてある。あなたの口に合うといいのだが』

『無理はしないように。 クレイス』


 最初に感じたのは、戸惑いだった。

 困惑、ためらい、そして次々に浮かぶ疑問。しかしその疑問は形になる前に溶けて消える。


 シトラは紙片を食卓に、ひどくゆっくりとした手つきで置くと、人差し指で紙の端をそっとなぞった。言葉にならない疑問の輪郭を指先が探している。


 しばらくぼんやりと立ち尽くしてから、シトラは気が付いたように鍋に手を伸ばした。鍋の蓋を開けると、立ち上がる湯気の向こうに白いシチューが見えた。

 用意されていた器に盛りつけ、席に着く。


 スプーンを器に沈めると、シチューの白いとろみがスプーンを抱き込んで、またほわりと湯気が立った。シトラは黙ってシチューを口に運ぶ。ミルクの味。甘くて、温かい。


 誰もいない、何も聞こえない部屋で、シトラはひっそりとシチューを飲み込んだ。

 かつての――前世の、幼い記憶が蘇る。


 ランドセルを背負い始めたばかりの頃の、帰っても誰もいない家。静まり返ったキッチンで一人、鍋に湯を沸かし、蕎麦を茹で、菜箸で麺を引き上げようとしてうまくできずに、火傷をした。水で冷やすことも知らず、火傷の痛みに泣きながら、昼ご飯を済ませた記憶。

 夜、空腹に耐えながら親の帰宅を待っていた時間。

 発熱し、心細く不安な気持ちで孤独に眠るしかなかった日々。


 あの時に、ほしくてほしくてたまらなかったものが、なぜ今ここにあるのか、わからなかった。


「……ふふ」


 笑おうとして、シトラはその声が震えていることに気がついた。

 慌てて、二口目のシチューをぱくりと食べる。根菜を噛んで膨らんだ頬の外側を涙が伝い、シトラは左手の指先でそれを拭った。


     ◇


 もう、彼女は目覚めているだろうか。

 王宮の回廊で夜空を見上げながら、折衝の合間、わずかに生まれた空白の時間に、クレイスは一人魔塔で眠るシトラのことを思い返していた。


 昼下がり、食材を抱えて一時帰宅した際、長椅子で窮屈そうに眠るシトラの姿を見た時の衝撃が、いまだ目の奥に残っている。

 開かれたままの魔導書。第六章の術者の確信、それを掴もうとするような手のひら。

 休んでいてほしい、焦ることはないと伝えても、彼女はそれを自分に許さない。おそらく、許し方を知らないのだろう。だからこそクレイスは、そんなシトラを咎める気には到底なれなかった。


 せめて体だけでもと、温まりそうなシチューを作り、それを手間なく食べられるよう保温魔術をかけてきた。


 彼女はきちんと食べているだろうか。

 シチューは口にあっただろうか。

 あるいはまだ眠っているとして、毛布を蹴飛ばして寝冷えしていないだろうか。


 湧きあがる心配に、クレイスは思わず魔塔の居室を『視よう』とし――自嘲気味に口元を歪める。

 彼女は大人だ。食事をしたか、寝冷えをしていないか確認するなど、まるで口煩い親ではないか。それに、一人でいる空間を魔術で覗き見る行為は、筆頭宮廷魔術士としてあるまじき無粋な振る舞いに他ならない。


 だが。

 視まい、と思うたびに心配が胸の奥から生え、断ち切ってもなお次々と現れた。


 師として確認すべきなのではないか。

 自宅を視るのは帰宅することと変わらない。

 そもそも慣れない場所に一人残しているのだから安全確保は義務である。


「……放っておくわけにもいかないからな。今回だけだ」


 ひと気のない回廊で、誰に言うでもなくクレイスは呟いた。

 彼はそっと瞼を閉じ、視界の焦点を遠く離れた魔塔へと合わせる。

 空間の座標を繋ぎ、視界のみを共有する『遠見』の魔術。

 本来なら、偵察や災害現場の確認に用いる高度な術を、ほんの数秒だけ、彼女の安否の確認のために彼は行使した。


 瞼の裏に、魔塔の居室が浮かび上がる。魔導燈の温かな光、食卓で、湯気の立つシチューを食べるシトラの姿。


(……よかった。食べてくれている)

 クレイスは肺の空気をすべて出し切るような溜息をつき、遠見の魔術を解こうとした――その時。


(――……え?)


 呼吸が止まった。


 視界の中のシトラが、スプーンを口に運んだまま、動かなくなった。

 魔導燈に照らされた彼女の頬を、雫が――目から出たと思しき液体が、伝い落ちる。


 クレイスの頭が白く染まった。

 視界の情報が処理されない。


 ややあって、ようやく、彼女が涙を流しているのだという結論に思い至る。


(泣いて……いるのか? なぜ?)

 シトラがシチューを食べながら涙を拭う様を、クレイスは激しい動悸を感じながら視ることしかできない。


 体が痛むのか?

 魔術が行使できないことがつらいのか?

 それとも、シチューが口に合わないのか?


(……わからない)


 今すぐ魔塔に飛んで帰り、その涙の意味を問いたかった。この手で目元を拭い、憂いを解決し、泣かないでくれと言いたかった。だが、それはできない。あの涙は自分が知るべきではないものだ。彼女が、たった一人で流していた涙なのだから。


 クレイスは遠見の魔術を切った。


 瞼を開け、視界が元の回廊に戻っても、シトラの涙が焼き付いたように離れない。

 回廊の冷ややかな壁に背を預け、クレイスは重い疑問に額を押さえた。


 温かい食事があり、安全な寝床があり、外敵の脅威もない。論理的に考えれば、泣く理由が見当たらない。体調が悪いようにも見えなかった。だとしたら、心か。


「あ、いた。探したわよ、クレイス」

 規則正しい硬質な足音が響き、書類の束を抱えたエレナが回廊の角を曲がって現れた。

「次の協議までもう時間ないわ。こんなところで何をぼうっとしてるの?」


「……エレナ」

 呆れたように言い放つエレナに視線を向けず、クレイスは顎先に手を当てて口を開く。

 その声は、折衝を行う時と変わらぬ真剣さで、張り詰めた響きを帯びていた。


「――食事というものは、一人ですると寂しいものか?」


 クレイスの視界の端で、エレナが足を滑らせ書類を取り落とす。


 彼女が慌ててそれを拾い、そしてわざわざクレイスの前に立つと、彼の顔を覗き込んで心底不可解そうに眉をひそめた。

「……何ですって?」


「『食事というものは、一人だと寂しいのか』と、訊いた」


 再度問い直すと、エレナは顔を引きつらせて一歩後ずさった。

「何を言い出すのよ、突然。働きすぎて熱でも出たんじゃない?」


 彼は顎に手を当て、苦笑してみせる。自分の中に仮説がないわけではない。どうすべきかも理解している。ただ、筆頭としてあらねばという強固な理性が、その仮説の答えを直視するのを避けていた。


「いや、純粋な疑問だ。私にとっては、大勢との晩餐会ほど疲労を感じる時間はないのだが……一般的には、違うのかと思ってね」


 エレナは呆れたように肩を竦めた。

「貴方と一緒にしないでちょうだい。そりゃ、普通はそうよ。美味しいものを食べて『美味しいね』って言い合える相手がいないと、やっぱり味気ないし、寂しいものじゃない?」


「そうか……」

 クレイスは数日前、シトラと一緒に夕食をとった時のことを思い出す。簡素なスープとパンだったが、彼女は『チーズがつくなんて嬉しい』と微笑んでいた。


 だが今夜、彼女は一人きりでシチューを食べながら泣いている。


(……うん)


 クレイスの中で、仮説が確信へ、確信が決断へと結びつく。普通はそうだという後押しが、彼の迷いを断ち切った。

 彼女を泣かせたのは、料理の質でも、環境でもない。『一人』という状況そのものだと。


「ありがとう。参考になったよ」

 彼は壁から背を離し、重々しく頷いた。


「明日からは……夕刻には必ず戻らねばならないな」


「え? 戻るってどこへ? 明日の夜は祝賀会の予定が入って……聞いているの? ちょっと!」

 クレイスは次の協議会場へと足早に向かう。彼の頭は既に、明日の予定をいかに圧縮するかという問題を解き始めていた。会議と折衝を最速で終わらせるための段取りが高速で駆け巡り、それと同時に明日の夕食を何にしようかという思いがクレイスの頭をいっぱいに占めていた。


お読みいただきありがとうございます。

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