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9-1. 離れていても(1)

 翌日の午前中、シトラは演習場の石壁に背中を預けて座り込み、読み終わった詠唱魔術概論を膝に乗せて、静かに今朝の出来事を反芻していた。

 クレイスは開口一番に帰宅が遅くなったことを詫び、今日から六日間に渡る会議のために家を留守にする説明をしながら、シトラの朝食を用意していた。


『今日からしばらく、王宮に泊まり込むことになる。少し……厄介な問題が起きてね。筆頭として詰めていなければならないんだ』


 彼はひどく申し訳なさそうに眉を下げ、自分を一人魔塔に残すことを案じつつ、合間を見て戻ること、食事は用意してあることを伝えてくれた。


 そんなに気にしなくてもと思ったが、彼の立場に立てば、出会ったばかりの人間を自宅に連れてきたにも関わらず、長い間一人で待機させることは心苦しいのだろう。シトラはむしろ、制限もなく一人で過ごせるのは贅沢なことだ、と説明したかったが、それはかえって彼の心配を煽るような気がして、やめた。


 代わりにシトラは、詠唱魔術概論を四章まで読んだこと、これから最後まで読むこと、クレイスがいない間自分なりに光を灯せるよう試してみることを話した。彼がいない間も自分にはやることがあり、一人で待たせることを気に病まなくてもいいのだと伝えたかった。


 朝の言葉通り、シトラは詠唱魔術概論を読了し、理論の内容は大体把握している。第四章の『現象化の原理』、それから第六章『術者の確信』を読んだときの衝撃は、今でもこの体に残っているような気がした。


『術者は世界に対し、己の意志を真実として提示しなければならない。魔術の行使とは、術者の内的真実を外的現実に変換する行為である』


 クレイスが昨日『わがままになってごらん』と言った理由が、これだった。


 自分はずっと『光を作るための手順』を探していた。何を燃やすか、何を励起させるか、何と何を反応させるか。それは、ある地点から別の地点まで一歩ずつ歩いて辿り着こうとする行為だ。


 魔術はそうではない。出発点と到着点しかない。途中の道は存在せず『今ここに光がない』という状態から『今ここに光がある』という状態へ、一足飛びに世界を書き換える。歩く必要がないのに、自分は道を探していた。道がないから『行けない』と判断して、魔力が霧散した。


 必要だったのは道ではなく、到着点の絵だけ。『ここに光がある』という完成図を、揺らぎなく世界に差し出すこと。


 ――それがこんなにも難しい。


 シトラは下唇を摘まみ、眉をひそめた。


 物理法則のみならず、かつて日本で得た知識や経験がこれまでシトラを生かしていたと言っても過言ではない。己を支えていた根幹が、今では牙を剥いている。


(まさか、前世の知識がここにきて邪魔になるなんて思わなかった……)


 溜息をついて本を慎重に置き、ゆっくりと立ち上がる。

 ふと、クレイスの顔が浮かんだ。昨夜いつ帰宅したかもわからないほど遅くまで王宮にいて、今朝もまた、シトラの朝食を用意するだけして慌ただしく出仕するその姿は、彼の立場の重さを事実として想起させるに十分だった。その彼が昨日は、自分のためだけに時間を割いて魔術を教えてくれていた。


 落とした溜息を拾い上げるようにして、シトラは息を吸う。

(邪魔とか言ってられない。やるしかない)

 シトラは虚空を睨みながら呟くと、白樹の杖を静かに構えた。


     ◇


 午後の陽光が、磨き上げられた紅木の卓上を照らし、そこに置かれた一枚の薄い報告書に影を落としている。


 王宮の特別会議室は奇妙な沈黙に包まれていた。クレイスの向かいに座る高年の男は口を開かず、その身を深く椅子に預けている。その沈黙をクレイスは敢えて破らず、ただ同じように静かに座って、帝国の外務大臣である彼の反応を待っていた。


「……相変わらず、小賢しいことをする」

 男は小さく鼻を鳴らした。


「お褒めにあずかり、光栄です」

 クレイスは穏やかな微笑みを浮かべて見せ、卓上の報告書に手を伸ばした。指先で、音もなく相手側へ滑らせる。


 午前中の全体会議で、クレイスは自国の不祥事を明らかにし、各国への影響を詳らかにしながら謝罪して、誰もが納得する解決策を提示した。他国からの追及を一身に受け止め、誠実に対応するその姿は、王国そのものの信頼を体現するように映っただろう。


 しかし、この老大臣だけは知っている。


 今朝届けられたはずの書簡を読み、あの場で、クレイスが『何を言わなかったか』を。


 クレイスは長い睫毛を伏せるようにして報告書を見つめた。

「我が国の不始末により、近隣諸国の皆様にご不安を与えたことは誠に遺憾です。……幸い、流出した結晶の経路については特定できておりますが、これを公表し、更なる混乱を招くことは本意ではありませんので」


 報告書には、横流しされた高純度結晶の行方と、それを受け取った人物――老大臣の親族にあたる貴族の名が、証拠と共に記されている。


「不祥事は、我が国の領主一人の責任として処理いたしました。他国の、ましてや友邦の要人のお名前が連なる必要はない。そう判断いたしましたが……私の独断は、正しかったでしょうか?」


 問いかけの形をとりながら、クレイスは微かに首を傾ける。

 老大臣は苦々しげに息を吐きだした。

「ふん、卿のやり口はくどくて好かん。……が、このたびの貴国の『配慮』には、感謝するとしよう」


「恐縮です。つきましては」

 クレイスは老大臣の降伏宣言を表情変えることなく受け流し、脇の小卓に用意していた別の書類――次期魔術協定に関する草案を開いた。


「今後の再発防止のためにも、我が国にはより強固な管理体制が求められます。そのためには、現在割り当てられている地脈流量につき、幾許かの上積みが不可欠かと」


 本来であれば紛糾必至の強気な要求を、まるで蝋燭を一本もらうような口ぶりで告げる。


 老大臣は眉一つ動かさず、頷いた。

 彼の中では、『帝国の威信』と『身内の醜聞』という重い錘が天秤の片皿に乗っている。おそらくは、安い買い物だという計算が既に成り立っているのだろう。


 クレイスは老大臣の声なき同意に対し、優雅な礼をしてみせた。


     ◇


 魔塔の夕焼けは長い。

 雲海ごと淡く照らしゆく太陽は、地上よりものんびりとした時を楽しみながら沈もうとしていた。


 雲を眼下に見晴かす魔塔、それは古き時代の魔術士の遺産であり、王国の安寧の象徴でもある。各時代、最も優れた魔術士の居城として、あるいはその者を留め置く楔として、魔塔は常にこの地を見守っている。


 シトラは読み返して三周目となる魔導書の白い紙面が橙に染まっていることに気づき、ふと顔を上げた。

 窓の外は光が織りなす朱や薄紅を雲陰が掠め、紫、藍の夜の兆しが見え隠れし始めている。その美しい光景に、シトラの胸がきゅっと縮んだ。


 ――夕暮れはいつだって綺麗だ。けど、痛い。


 長い針で刺されるような感覚に、シトラは眉根を寄せた。


 十四年前、初めて前世の記憶を思い出したあの時の夕焼けは、今よりもずっと赤かった。


 魔力回路もない欠陥品として扱われてきた十年間。父も兄も、自分を産んだせいで身罷った母を忘れられず、その捌け口となるしかなかった自分に突然降ってきた、日本での月日。

 十歳の少女はその日を境に大人になり、他者の言動を演算することで『備品』として重宝され、唯一その価値を保ってきた。


 しかしその価値は今、乾いた土塊のように、触れるそばから崩れている。

 演習場で何度呪文を繰り返しても、光は顕現しなかった。理論書を読み返しても、結論は変わらない。


 術者の確信がないというのは、つまり、自分を信じられないということだ。

 無から有を生み出すようなことをできるわけがない――そう、自分が思っている。だから、光が生まれない。


 シトラは魔導書を置き、杖を手に取って長椅子から立ち上がった。ひとつずつ、魔導燈のつまみを丁寧に回して灯し、そのまま扉に歩み寄る。


 彼がいつ帰ってくるかはわからないが、それまでにせめて何かひとつでも形にしておきたい。


 演習場に向かう途中、体に力が入っているのを感じて、シトラは大きく息を吸い、吐いた。知らない間に忍び寄る夜の冷気が、その吐息の熱をすぐさま冷まし、抱き込むように広がっていく。演習場についてからシトラは声が掠れるほどに呪文を唱え続け、窓から見える夜空が明けて白くなってもなお、諦めずに杖を構えた。やがて日が高くなり魔力の欠乏を感じてようやく、シトラは腕を下ろしたが、居室に戻った彼女は長椅子に座り込むと、四週目となる魔導書の表紙を開いて一文字一文字を確かめるように読みふけった。


お読みいただきありがとうございます。

楽しんでいただけたら嬉しいです。

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