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8-2. 筆頭(2)

「出力低下点の輪郭を見てくれ。これは劣化でも破損でもなく、外部からの干渉による強制的な魔力簒取だ。吸い上げられた先はこの座標――東部領主の別邸。よって、直ちに領主への拘束命令を発行する。そしてこの座標の地下には地脈の偏向装置がある。それを解体すれば結界の出力は自然回復し、浮いた修繕予算は別に回せるというわけだ」


「領主……? でも、そんな大規模な装置、どうやって動かすのよ。燃料が……」


「これだよ」


 クレイスはまだエレナが言及していない二つ目の書類――備蓄庫の監査報告書を示し、手に取った。


「高純度結晶の横流しだ。品目と規模が一致する。領主の別邸を押さえれば、消えた在庫もある程度は戻ってくるはずだ。監査の手間が省けてなによりだね」


 そして彼は、三枚目の命令書をすべての書類の一番上に置き直す。そこには『魔術院・審査官二名の医療区分の変更』が記されていた。


「それと、倒れた審査官たちの診断について、『魔力枯渇』から『地脈共鳴中毒』へ直ちに書き換えさせること。彼らは過労で倒れたんじゃない。地脈の異常に気づいて調査し、その余波を浴びたんだ。治療法を誤れば彼らは廃人になる。すぐに対処させろ」


 クレイスは全ての命令書をエレナに押しやり、椅子の背もたれに体を預けて彼女を見つめた。


「以上だ。執行を」


 エレナは呆気にとられた顔をして、三枚の羊皮紙を見下ろしている。

 すぐに動かないのはおそらく、記された内容が王宮の常識を飛び越える突飛なものだからだろう。有力貴族の即時拘束、魔術院の診断結果の書き換え、予算項目の強制流用。どれ一つとっても、通常なら数日から数週間かけて根回しを行う案件だ。


「……正気なの? 相手は東部の名門よ。それに、医師の診断を魔術的な見地だけで覆すなんて、いくら筆頭でも院の理事会が黙っていないんじゃ」


「理事会の決定を待つ猶予はない。地脈共鳴中毒は時間との勝負だ。手続き上の不備については、私が全責任を負うという添え状を書こう。結界の修繕に莫大な予算を投じるより、原因を断つ方が国庫への負担も少ない。君なら、その合理性を各省庁に説明できるはずだ。頼めるね?」


 彼女を動かすには、命令よりも信頼が効く。クレイスはわずかに目を細め、エレナに対して微笑んで見せた。彼女は口ごもり顔をしかめて、「もう!」と降参したように叫ぶ。

「わかったわよ! その代わりあとで何かあっても私は知らないから!」

 エレナは怒鳴るように一息で言い切ると、書類の束を引っ掴んで足音高く執務室を出て行った。


 一人になった執務室に静寂が落ちる。

 彼は溜息をつくと、くるりと椅子を回して窓の外の空を見上げた。日はまだ高い。あとは拘束部隊の編成認可や、押収品の管理手順などの細々とした事後処理を済ませれば、夕刻には帰れるかもしれなかった。


 魔塔に残してきたシトラの姿が、脳裏に浮かぶ。いってらっしゃいと言った彼女の硬い笑み。

 その、沈んだところを見せまいとする健気な振舞いが痛々しかった。


「……早く帰らないとな」

 彼は胸に手を当てると、祈りを捧げる聖者のように静かに目を伏せた。




 執務室に差し込む日の光が、茜色を帯びる頃。

 エレナが持ち込んだ東部領主の身辺調査書をめくっていたクレイスの手が止まった。

 深い嘆息と共に、調査書が机に積まれる。


『帝国外務大臣と三親等の姻戚関係を認む』


 クレイスはこめかみを押さえ、額に向かって軽く揉んだ。

 明日から始まる主要国会議。その帝国代表団を率いる人物こそが、この外務大臣だ。


「……エレナ。拘束命令の執行は、深夜零時まで待機させてくれ」

「え? 急げって言ったのはクレイスじゃないの。どういうことよ」


「状況が変わった。ただ拘束するだけでは、明日からの会議が大炎上する」


 彼は静かに告げた。

 もし何の手立ても打たず今日中に領主を拘束すれば、明日の朝、会議の席に着く前に大臣に知らされるだろう。『自国の親族が、会議の前日に不当に逮捕された』という事実として。それは王国からの政治的挑発という形で利用されかねない。


 それを防ぐためには、領主の逮捕が『正当な国内法の執行』であり、『帝国への敵対行動ではない』ことを証明するための、公式書簡が必要だ。相手の面子を潰さず、かつ反論を封じる完璧な文章を。


「今夜中に書簡を書き上げなければならなくなった」

「そんなの、外務省の文官に任せれば……」

「無理だ。一語でも選択を誤れば戦争の火種になる。拘束命令を出したのは私なんだ。私の名で、私自身の言葉で書かなければ、相手の信用は得られまい」


 そこからクレイスは一言も発さず、黙々と外交文書を練り上げていった。気づけば、夕日の代わりに魔導燈の明かりが執務室を照らしている。関係書類に目を通す中で、備蓄庫の搬出記録の中に特定人物の名前が頻繁に挙がること、それが姻戚関係の中の人物と繋がっていること、さらには東部領主が提出していた会計帳簿の中に帝国通貨建ての入金記録があり、その時期が魔石の搬出時期と重なっていることをクレイスは拾い出していた。


「……なるほど」

 東部領主の悪事は地脈の偏向に留まらない。

「使えるな」


 クレイスはふたたび外交文書と向き合った。それはもはや弁明書ではなく、明日の主要国会議という舞台のための脚本と化している。しかし、その彼の手を動かしているのは王国への忠誠や職務上の義務といったものではない。ただ一刻も早く帰らねばという、焦慮にも似た鈍い胸の痛みだった。


     ◇


 流し台には、洗われ伏せられた器が置いてある。


 クレイスは最小まで落とされた魔導燈の明かりに薄ぼんやりと浮かぶその白い器を見て、懺悔するように額を覆った。歩み寄ると、鍋もきれいに洗われて元の位置に戻されている。その几帳面さが生来のものなのか、彼女の遠慮から生まれるものなのかはわからなかった。


 日付が変わってしばらく、深夜の魔塔は暖炉だけがぱちぱちと賑やかに喋っている。彼は魔術で維持していたその炎を指先で黙らせると、静寂の中に残る彼女の気配を探るように、ただ無音に耳を澄ませた。客室で眠る彼女の寝息すら聞こえそうなほどの静けさを感じながら、クレイスは長時間の執務で重く固まった体を長椅子に投げ出す。寝息の代わりに聞こえるのは長椅子の軋みと、自分の口から洩れた溜息。


 暗がりの中、長椅子の前の低い卓台の上に一冊の本が置いてある。


 それは昼間、クレイスがシトラに渡した『詠唱魔術概論』だった。しおり代わりに白紙の羊皮紙が挟まっている。彼は身を起こしてその頁を開いた。第四章『現象化の原理』の最後の頁。この章に書かれていることを、クレイスは思い返す。


 世界には『状態』がある。水が冷たいという状態、水が熱いという状態。火を使って水を沸かせば、それは一定の過程を経て冷から熱へ徐々に移る。魔術とは、その状態遷移を瞬時に行うことであり、状態を直接書き換える力のことだ。そこには過程がない。過程を省略しているのではなく、過程が『発生しない』。だからこそ、結果の形を術者が指定しなければならない。


 彼女はこれを読み何を思っただろうか。


(……焦っていないといいのだが)


 クレイスはしおり代わりの羊皮紙を元に戻して本を閉じ、その革表紙を指先で慈しむようにゆっくりと撫でた。冷えた革の感覚はさらりとして、すぐに指先に馴染んで溶ける。この本は彼が魔術の世界に入ったばかりの時に師から与えられたものであったが、読み物としては興味深く読めども、その理論は彼にとって体感を裏付けるものでしかなく、彼女の苦しみを真に理解することはできないと思われた。


お読みいただきありがとうございます。

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