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8-1. 筆頭(1)

 シトラはそれから何度も「わがまま……」と呟いては魔力を霧散させていた。一度でだめなら二度、二度でだめなら三度と、諦めることなく繰り返すも、いっこうに光は灯らない。その、愚直なほどに懸命な姿。彼女を眺めるクレイスの目元は自然と緩み、昼下がりの落ち着いた空気が彼らを穏やかに包んでいた。


 しかし回数を重ねるごとに、シトラの顔から表情が消えていくのを見た時、彼は無性にその試行を止めさせたくなって思わず手を伸ばした。


 シトラ、もういい、と。そう言いかけた口を閉じ、伸ばした手を空中で握りしめ、下ろす。


 初学者ががむしゃらに挑戦することは、決して悪いことではない。反復により魔力の制御が精密になり、失敗を重ねればそれは彼女だけの傾向として身体感覚に結び付く。自分がそばで見ていることで、限界を超える前に制止することもできる。今の彼女は限界には至っていない。


 なのになぜ、止めようとしたのか。


 シトラはひたむきに、灯らない光を灯そうと力を尽くしていた。それを止めるべきか、見守るべきか迷い、彼は眉をひそめてわずかに逡巡する。どちらにせよ、師ではなく、ただのクレイスとして歩み寄ろうとしたとき、魔塔全体に鳴り響く鐘の音がその迷いを元から消し去った。


「……間の悪いことだ」


 自分でも驚くほど苦々しい声に、筆頭としての自嘲の笑みを浮かべる。


 無心で集中していたシトラも、その鐘の音に首を巡らせるようにして驚いていた。

 この鐘は王宮からの緊急招集だ。使い魔による通常招集と違う、突発事態が生じたことを知らせる鐘の音。


「すまない。今日の授業はここまでになりそうだ。代わりに、これをあなたに預けておく」


 クレイスは溜息交じりに魔導書を懐から取り出すと、彼女の手を上向かせ、しっかりと握らせた。


 革張りの表紙に金の箔押しで『詠唱魔術概論』と書かれている。昨夜、書庫を総ざらいして選んだシトラのための一冊だった。座学に触れたことのないシトラが、基礎である詠唱魔術の概念を掴むために最もふさわしいであろう魔導書。


「あなたの求める答えが、この中にあればよいのだが。……重ねて言うが、今日の目的は十二分に達成しているからね。焦ることはないよ」


「うん」

 返ってきた声は沈んでいる。本を抱き込み、小さく頷いて。

「シトラ……」


 この状態の彼女をこのまま魔塔に置き去りにするのはひどく躊躇われた。だが、無情な鐘の音が、クレイスを急かすように再び鳴り響く。


 彼はシトラの両肩に、そっと自身の手を添えた。細い肩の丸みをゆっくりと撫でおろす。自分の手の感覚が、少しでも彼女の憂いを吸い取るように。


「戻りは遅くなるかもしれない。もし夕刻を過ぎるようなら、鍋を温めて先に食べていてくれ。それと、私の帰りを待たずに休むこと。いいね?」


「――わかった」

 少しの間を置き、きっぱりとこちらを見上げたシトラの声は、もう沈んでいなかった。落ち込みを見せないよう、唇を引き結んで口角を上げ、気丈に振舞っている。


 クレイスは眉を下げて頷き、彼女の肩から手を離した。


「本、ありがとう。読んでおくね。いってらっしゃい」

 家で待つ者として送り出す言葉。


 彼は昨日と同じく、その言葉を胸にしまい込み、目を伏せるようにして微笑んだ。


「ああ、行ってくるよ」


     ◇


 演習場の磨かれた石床が揺らぎ、 反転する感覚と共に、白く輝いた斑模様の床に変わった。クレイスの耳に、呆れを含む補佐官の溜息が届く。


 顔を上げると、こちらを見つめるエレナの顔が一瞬にしてたじろいだ。気圧されたように押し黙り、用意していたであろう小言の数々が彼女の喉の奥で消えていくのがわかる。


「状況は」


 短いクレイスの一言に、彼女は、机上に置かれた赤色の封蝋がされた書類を指し示した。

「……東部国境の防壁結界における、出力の急激な低下よ。このままだと数時間で崩壊するわ。軍務省から緊急の修繕部隊派遣と、予算の即時承認要請が来てる」


 彼は音もなく椅子に座り、机上に整然と並べられた三つの書類を見やった。


 一番左が、今告げられた東部の件。残る二つはそれぞれ別件だが、紙束の厚みからして、これらも決して軽い案件でないことが見て取れる。


 エレナはクレイスが席に着いたのを確認すると、一枚の地図を机に手早く広げた。東部国境線を示すその地図には、結界の出力を示す無数の点が所狭しと打たれている。


「第三区域の魔力供給率が昼前から急落してるわ。現在、定格の八割弱。このまま低下が続けば、日没には自壊する計算よ」


 早口にまくしたて、エレナは手元の書類を指ではじき高い音を響かせた。


「修繕部隊の緊急派遣要請は第三騎士団から魔術班を割くとして、その移動と触媒の予算の件、すぐに承認して。一刻を争うの」


 クレイスは、彼女の切迫した声の内容を処理しながら、眼前の地図へと視線を走らせた。


 出力低下部分が赤い点で示されている。その領域は確かに広い。しかし、彼の碧眼はその広さではなく輪郭を捉えていた。結界の劣化であれば構造上の脆弱点から蜘蛛の巣状に亀裂が走る。だがこれは、まるで川の水が低きに流れるように、一方向に向かって収束していた。その形状と、東部の地脈支流がクレイスの脳内で重なる。


「急落前、一ヶ月間の数字と一年前の数字との差異は?」


 唐突に問われ、エレナが慌てて書類をめくる音がした。

「……微妙な差異はあるわ。一年前より、百前後の低下。でも誤差の範囲と呼べるものよ」


 クレイスは確信した。


 ――劣化でも破損でもない。これは人為的な『偏向』だ。


 地脈をこれほどの規模で歪めるには、通常の触媒では不可能だ。昨日今日の出来事ではない。


 彼の視線が、机上の地図の下から覗く残り二つの報告書の表紙を、無造作に舐める。


『王宮備蓄庫・定期監査報告書――高純度魔力結晶の在庫不一致について』

『魔術院報告――地脈図学審査官二名の原因不明による魔力枯渇症』


 クレイスは一呼吸の後、ただ黙って羽ペンを手に取った。


「……クレイス? 聞いてるの? 緊急派遣は一刻を争うって……」

 訝しげな言葉が掻き消えるように止まり、息を呑む音がした。

 それに構わず、彼は白紙の羊皮紙に流れるような筆致で全く別の命令書を書き上げていく。

「えっ、ちょっと」


 不可解と困惑の声。エレナが用意した軍務省への承認書を脇に押しやり、クレイスは三枚目の羊皮紙を書き上げるところだった。


「緊急派遣の承認をしてって話したでしょう?」

 エレナは理解できないというように苛立った抗議を投げつける。


「却下だ、エレナ。修繕部隊を送る必要はない」


 クレイスは書き上げたばかりの羊皮紙に、筆頭宮廷魔術士の印璽を迷いなく叩き押した。執務机に重い音と振動が響く。


「は……? 何言ってるの? 結界が消えるのよ!?」


「結界は壊れていない。吸われているだけだ」


 インクの乾ききっていない一枚目の命令書をエレナのほうへ滑らせ、彼は淡々と告げた。


お読みいただきありがとうございます。

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