7-2. 光(2)
促され、シトラは杖を握りしめた。
彼から渡された白樹の杖は、驚くほどしっとりと手に馴染む。肌の一部が溶けあうような感覚が、杖先を体の一部と思わせるほどだった。
クレイスが自分を見つめる気配がした。
その視線をたどらなくても、シトラには彼の瞳がどんな色を帯びているかがわかる。催促でも、強制でもない。静かな期待。
シトラは、その期待に応えたかった。
あの、水槽のような息苦しい檻から逃げ出す術もなかった自分をあっという間に連れ出し、こうして衣食住を与え、誠実に接してくれている彼。それどころか身を守る術まで無期限で学べという。このうちのひとつひとつが全て、これまで望むべくもない果報だった。
この人に報いたい。なんとしても報わねばならない。
眉間に皺が寄り、引き寄せた腕に力が入る。
しかし、現実的に考えれば、数年かけて学ぶ魔術を、今まで魔術に触れたこともない自分がそう簡単にできるとは思えず、シトラは緊張をほぐすように溜息をついた。
だめで元々だ。やるしかない。
杖を軽く構え、唇から呼気を細く吐くように、身の内で巡る力を杖先に向かわせる。胸の内側にある源泉から湧きだす力が、腕を通り、手のひらから指へと、熱をともなって一つの道となる。引かれるようにして滑らかに魔力が杖にのった時、シトラは慎重に呪文を唱えた。
「『光よ。我が意に応じ、ここに灯れ』」
魔力が杖先から空気に溶けていく。大きな波が寄せるように、体の中から魔力がうねりとなって杖先に押し寄せ、次々に散っていく。
やがて一つの波が終わり、ふっと、煙が消えるように魔力の流れが途切れた。
杖の先は光らなかった。
シトラの胸の中に、重く、苦いものが広がる。
だめで元々とは思ったが、本当に何も起こらないとは。
失望しているということ自体、期待していたことの表れだ。いったい、自分をなんだと思っていたのだろう。全属性が回路を刻まれ、特別な存在になったのだと思い上がっていたのかもしれない。
クレイスの顔を見ることができず、シトラは黙って、魔力が消えた杖の先を睨んでいた。
「うん、魔力の放出はできている」
沈黙を破り降ってきたその声に落胆の色はない。シトラは止めていた息を吐き、杖を下ろした。額に汗が滲んでいる。
「私の予測では、魔力が詰まるか、逆に溢れるかのどちらかだったが、実に制御が効いているよ。第一優先事項は達成したと言えよう。だが、光は灯らなかった」
彼は淡々と事実を告げていた。褒めもせず、貶しもしない。慰めもしなければ、失望もしない。
「もう一度やってくれるかな、原因を探りたい。失礼するよ」
彼はシトラに一歩歩み寄ると、杖を持っているほうの腕にそっと指先を当てた。
「回路の流れを診せてくれ」
シトラは唇を噛むようにして頷いた。
ふたたび呪文を唱える。やはり、光は灯らない。杖の先から、魔力が溶けて消え、なくなってしまう。
「……なるほどな」
クレイスは困ったように眉を下げて微笑んだ。
「あなたの魔力は全属性であるがゆえに、純粋で無色だ。特定の属性へ傾くということを無意識下で躊躇しているのかもしれない。それなら、方法を変えようか」
彼は顎先に指をあて、眉を上げてこちらに視線を寄こした。
「光そのものを意識してみよう。あなたにとって光とは何か? あなたの中の光の定義をそのまま、魔力にのせるんだ。どうかな、できるだろうか」
シトラは彼の言葉に目を剥いた。顔が引きつる。
光とは何か。
その壮大な問いに、シトラは頭を抱えたくなった。
光とは、光っているものだ。
でもおそらく、そんな定義では成功しない。クレイスは言っていたじゃないか。人が頭に思い浮かべるものは曖昧で、それゆえに霧散しやすいと。光っているもの、なんて、曖昧選手権で優勝してもおかしくないほど、形がない。
「光、ひかり、ヒカリ……」
口の中で繰り返すと、ふと、前世の記憶の断片がよみがえった。光は波でもあり、粒でもある。
(そうか、物理で考えてみれば……)
前世で得た科学知識を総動員させ、考える。
クレイスが言う光とはなんだろう。熱放射の光なのか、電磁波なのか、光子なのか。
――頭痛がする。
光とは、古典物理では電磁波だ。ろうそくの炎が光として見えるのは、炭素の粒が燃えて光っているからだ。でもそのイメージで手の上に炎を出すのはこの場合間違っているだろう。クレイスは炎ではなく『光』そのものを出していたのだから。
だとしたらなんだろうか。
シトラは杖を持ったまま、右手の指で下唇を摘んだ。思考に耽る時の癖だった。
丸い光そのものが見えるということは、周りに殻のようなものがあってその殻が光っているのか、もしくは霧や煙のような粒子が球状に集まってそれが発光しているのだろう。さっき見た限りでは殻ではない。では、なんらかの粒子が集まっているのか? どこから何が出る? 光る理由は?
「うぅーん……」
無意識に唸っていることに、シトラは気が付かない。
その小さな唸り声に、クレイスは耐えかねたように肩を揺らして笑った。
「うん?」
笑われたことに気づき顔を上げると、彼の指先がシトラの眉間をおかしそうに指し示した。
「意地悪な問いだったかな。まるで哲学者のような顔をしている」
シトラは示された眉間を、左手の指先でぐりぐりと乱暴に撫でる。
「ここで言う定義はね、自分を納得させられるものならなんでもいいんだ。嘘でも構わない。正解ではなく、あなたが思うものでいいんだよ。例えば、何かが擦れあって熱が生まれて光ると思ってもいいし、小さな星や太陽を思い浮かべてもいい」
言いながら、クレイスは指先に光を灯した。彼の心象はどんなものなのか聞きたかったが、おそらく言葉で表せるものではないのだろう。表せるなら真っ先に例として教えてくれているはずだ。
「自分を納得させる……?」
擦れあって熱が生まれ光るというのは、相当高温にする必要がある。火傷はしないのか。太陽を思い浮かべるということは、つまり核融合を起こすのだろうか。
シトラは下唇を摘まみながらぶつぶつと呟いた。
熱放射なら燃焼させるか。燃焼の三要素は? 何を燃やす? 反応させるための最初の熱は?
「……待った。待つんだ、シトラ」
クレイスはその呟きに慌てたように、杖の先を押さえて制した。
「あなたの光の定義は、私が想定しているよりはるかに過激だね? その、『カクユウゴウ』や『ネツホウシャ』が何を指すのかはわからないが……まさか、小さな太陽そのものを核から作ろうとしているのか? そんなことをすれば、光るどころかこの杖ごとあなたの手が蒸発してしまうよ」
苦笑しながら、彼は杖をそっと離し、空中に指先で円を描いた。光の軌跡が輪を作る。
「詠唱魔術の心象というものは、もっと『雑』でいいんだ。熱や摩擦でなくたっていい。光る性質のもの……たとえば蛍や夜光虫のように、熱を出さない光を思い浮かべては? 熱を出さない、輝くだけの冷たくて優しい光を」
「えっ、冷たい光……つまり、分子や電子を励起させるってこと……? ど、どうやって……? 電流……?」
クレイスが面食らったように目を見張り、シトラは気まずくなって顔をそらす。
魔術の心象は『雑』でいい、つまりブラックボックスで構わないということだ。それはわかる。しかしそれでは、光という概念があまりに掴み取れず、思い浮かべることもできない。
「とりあえず……やってみる」
蛍だ。蛍でいい。
たしか蛍は体内で酵素を使って物質を酸化させ、分子を励起状態にしていたはずだ。前世、なぜ光るのか気になって調べた知識を今こそ使うのだ。
シトラは杖を構え、呪文を唱えた。蛍の発光の仕組みを思い浮かべる。
(ああ、でも、酸化に必要な酵素も基質もない……)
心の中で呟いた途端、ほんのわずか、針の先よりも小さく生まれかけていた光が、すん……と消えた。
その様子を見守っていたクレイスが、弾かれたように笑いだす。
「っ、くく……」
唇の前を拳で押さえ、耐えようとしても耐えられないといった風情で身を屈めながら、彼は遠慮もなく笑っていた。
「だめだ、シトラ。あなたは賢すぎる」
クレイスは目じりの笑い涙を指先で拭うと、目を細めてシトラの肩を軽くたたいた。
「あなたは魔術に対して整合性を求めすぎているね。さっきあなたは『材料がない』と考えただろう」
「どうしてわかるの?」
「見ていればわかるさ。だから世界が『それなら光れない』と納得して光が消えてしまったんだ。いいか? 魔術というのは、『過程』を無視して『結果』だけを世界に押し付ける、とても傲慢な力なんだよ」
「でも、実際に材料がないと、光れないんじゃない?」
その疑問は、前世で生きた記憶がある以上、切っては切り離せない実感だった。
クレイスは、うん、と頷きながら、杖を持つシトラの手を片手で包む。
「材料はここにあるだろう。あなたの『魔力』だよ。その魔力は全てを代用する。代償は既にあなたの体から支払われているんだ。だから、あとはただあなたが命じるだけでいい」
彼の手のひらはほんのりと冷えていた。焦りの熱が彼の手に吸われ、心が穏やかに凪いでいく。
「シトラ。もっとわがままになってごらん。あなたが光れと言えば、小石だって空だって光る。それが魔術士というものだ」
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