0. プロローグ
――『瑕疵無し』。
長い指がその短い文言をなぞり、吸い付くようにして動きを止めた。クレイスは一呼吸の後に調査書の束を執務机に音もなく積むと、その薄い唇の端をわずかばかり引き上げる。
「なるほど」
控えめに落ちた声音は、落ち着いて低い。
「よくできた『挑戦状』だね」
クレイスは語尾だけで微笑み、首席補佐官に向かって視線を投げた。その双眸は晴れた冬の湖面を思わせる碧、声音とは裏腹に鋭い。
しなやかな手つきで、彼は次の書類を促す。補佐官のエレナから渡された羊皮紙に目をやり、クレイスは刹那、その目を細めた。
「もうここは何度調査しても結果は同じよ。『本件につき精査の結果、王国法に照らし何らの瑕疵も認められず、当該業者の運営は正当なるものと判ずる』。才腕の調査員が揃いも揃って結論を出したわ。もうこれ以上は時間の――」
「いや、そうでもない」
悠然と立ち上がり、彼は髪をさらりと揺らして執務室の窓辺に佇んだ。
「物が動く。金が動く。しかもこれだけの額で。埃が立たないわけがないんだ」
クレイスの眼下には、赤茶色の屋根瓦が連なる王都がすり鉢状に広がっていた。雑多な、しかし活気あふれる街並みは、その賑わいの裏に影を生む。
「午後の予定は?」
彼は訊きながら王都の街並みを撫でるように眺め、一点で目を留めた。
「明後日からの主要国会議に備えて、会場視察の最終確認。夜は財務大臣との会食ね」
「そうか。視察は明日に回してくれ。デリス卿には後で私から詫びを入れよう」
「どういうこと?」
ローブの裾を翻しながら、クレイスは振り向いた。
「私が行く」
「は……?」
その言葉に、眼鏡の奥のエレナの目が見開かれる。
「何を言ってるの? たかが一商会の疑惑に、『王国の至宝』が動くなんて前代未聞よ。筆頭閣下がのこのこ出向いて、何かあったらどうするつもり? 貴方の代わりになる魔術士なんていないのよ」
大層な二つ名をぶつける補佐官に、クレイスは軽く苦笑して見せた。
「補佐官として、君は正しい。だが、この整いすぎた盤面が私を呼んでいるんだよ。すまないね」
呆気にとられた顔をしたエレナの唇が、わなわなと震える。
「なに、ただの視察さ。そう長居するつもりもない。留守は任せたよ、補佐官殿」
ちょっと散歩に、というような口ぶりで言いながら、彼は右手の人差し指でくるりと円を描いた。多数の光る円環が一瞬にして浮かび上がる。
「……ちょっと! 待ちなさいよ!」
制止の声が響く中、クレイスの足元がほのかに光り、ついでその姿が陽炎のように揺らぐ。彼はエレナを一瞥もせず、もう一度、遠くを見るように窓の外に目を向けてその姿を消した。
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