第八章 地底湖と発光藻
化石の回廊の不気味な静寂を後にし、我々はさらに下降を続けた。通路は次第に湿気を帯び、冷たい水の気配が濃厚になる。遠くでせせらぎのような音が響いていた。弥太郎のランプが照らす先に、ついに、漆黒の闇ではなく、かすかに青白く霞む光が広がる空間が見えてきた。
「地底湖じゃ」
弥太郎が短く告げた。
その言葉通り、眼前には信じられない光景が広がっていた。そこは文字通り地下湖であり、その規模は到底一望できず、ランプの光は遙か彼方の岸壁すら捉えられない。しかし、それ以上に我々の目を奪ったのは、湖そのものが発している妖しい美しさだった。
湖底一面が、無数の青白く光る微生物に覆われているのだ。それはまるで、地上の天の川が地底に落下したかのようであった。光は呼吸のようにゆらめき、時に強く、時に弱く輝く。その輝きは水面上にも反映され、洞窟全体が幻想的な青白い靄に包まれている。ここが、「怪光」の源の一つであることは疑いようもなかった。
「なんて…美しい」杉浦が息をのんだ。
「…そして、恐ろしい」余は続けた。この光景は、確かに神秘的で美しい。しかし、同時に、生物的、地質学的常識を超えた何かが存在するという、本能的で根源的な畏怖を掻き立てずにはおかない。
余は湖岸に近づき、水筒ですくって水を確認した。驚くべきことに、水は信じられないほど澄んでいた。発光する微生物は、どうやら酸素を大量に消費する種類ではなく、むしろ水を浄化する性質を持つのかもしれない。
「調査する価値がある」余は呟き、サンプル瓶を取り出そうとした。
その時である。
湖面が不自然に揺れた。さざ波が一点から広がり、何か巨大なものがゆっくりと浮上してくる気配があった。
「博士、後ろだ!」
杉浦の叫びと同時に、水しぶきが上がった。湖岸の影から、巨大なザリガニとも三葉虫を彷彿とさせる異形の甲殻類が、その巨大なはさみを振りかざして襲いかかってきたのだ!その体長は優に一メートルを超え、甲羅には苔のような発光微生物がまとわりつき、不気味な青白い輝きを放っている。
「くそっ!」
弥太郎が素早く我々を後ろに引きずり込む。巨大なはさみが、今さっきまで我々が立っていた場所を空切る。
「撃て! 博士!」
弥太郎の叫びに、余は咄嗟に携行していたモーゼル銃を構えた。これは猟友会の知人から譲り受けたもので、熊対策として持ってきていたのだ。震える手で照準を合わせ、引き金を引く。
轟音が洞窟内に反響する。弾丸は見事に命中し、怪物は悲鳴のような甲高い音を上げて湖中に後退した。青白い体液のようなものが湖面に広がる。
一瞬の沈黙。そして、我々は息を呑んだ。銃声の反響が消え去った後、湖底の光が一斉に、激しく明滅し始めたのだ。まるで、一つの生命体が怒り狂っているかのように。光の波が、湖全体を伝っていく。
「…騒ぎを大きくしすぎた」
弥太郎が悔しげに呟く。「こいつの叫びが、仲間を呼ぶ…いや、何か別のものを呼び起こしたかもしれん…」
彼の言葉が終わらないうちに、遥か彼方の湖心から、低く、長く続く唸りのような音が響いてきた。それは銃声とは比較にならない、地の底そのものが軋むような、生物の声とは思えない不気味な重低音だった。
そして更に、我々を絶望させることが起こった。頭上から、我々を追って降りてきたはずの赤いランプの明かりが再び現れ、ざわめくような複数の人影が、こちらを見下ろしているのが分かった。彼らは我々の窮地を、高見の見物を決め込んでいるようだ。
前門の虎、後門の狼。いや、正確には、上有りの追跡者、前有りの怪物、そして周囲には不可解な光である。
「博士、どうしましょう!?」杉浦の声はパニックに陥りかけている。
弥太郎は歯噛みした。
「…逃げる道は一つじゃ。湖を渡れ。向こう岸に小さな洞窟がある。あそこへ繋がっておるはずじゃ」
彼は岸辺に繋がれていた、明らかに人工的な小さなイカダを指さした。それは古代の祭祀に使われたのか、はたまた…。
湖は静かではない。あの怪物の仲間か、あるいはもっと別の何かが、光る深淵で待ち構えている。背後には追跡者がつけている。
地底湖の青白い光が、我々の運命を残酷に照らし出していた。




