第六章 地底世界への入り口
明朝四時、約束の時刻に吉村家の門を出ると、冷え切った外気が肌を刺した。空にはまだ星々が微かに瞬いており、山々のシルエットは墨を流したように黒い。門前には、すでに弥太郎が待ち構えていた。彼の背には、我々の装備の大半を収めた巨大なリュックサックと、長い巻いたロープが括り付けられている。その姿は、まさに山そのものの如く、静謐で威厳に満ちていた。
「行くぞ」
弥太郎はそれだけ言うと、黙って町外れへと歩き出した。我々はその後を追う。町は深い眠りの中にあり、足音だけが冷たい石畳に反響する。
彼が向かったのは、町の者たちが通常「竜王穴」として口にする、酒蔵に近い人工的な入り口ではなかった。町の外れからさらに山道を三十分ほど登った場所にある、鬱蒼とした杉林の崖面にぽっかりと口を開けた、自然の縦穴である。入り口は蔦や蔦に覆われ、注意深く見なければ気づかないほどだった。
「ここが『胎内口』じゃ」
弥太郎が短く説明した。「表の口は観光客用じゃ。本当の穴は、ここから始まる」
彼は慎重に入り口周辺の雑草を鎌で払い、中を覗き込んだ。内部は漆黒の闇で、底知れぬ深淵が口を開けているようだ。冷たい、湿った空気が、ゆっくりと地上へと這い出してくる。
「ロープを固定する。お前たちは、わしの後に続け。足場は慎重に確かめろ。一歩間違えれば、それまでじゃ」
弥太郎の指示は冷徹だが、そこには紛れもないプロフェッショナルとしての責任感が感じられた。彼は岩に鋼鉄製のピトンを打ち込み、我々が持ってきた最新式のナイロン製ロープ(当時の最新技術として物語上で描写)を結わえ付ける。その動作は無駄がなく、完璧に計算されていた。
準備が整い、いよいよ下降開始である。弥太郎を先頭に、次いで余、最後尾を杉浦という順序だ。カーバイドランプに火を灯し、その明かりを頼りに、冷たく滑りやすい岩壁を伝って降りていく。ランプの光が揺らめき、巨大な鍾乳石や石筍の不気味な影を壁面に映し出す。水滴が落下する音が、洞窟内で不気味に反響する。
「驚くべき生成物だ…」
余は思わず呟いた。「この鍾乳石の形成には、数万年単位の歳月がかかっている。まさに自然が刻んだタイムカプセルと言えよう」
「…静かに」
前方から弥太郎の低い声が響いた。「音は、余計なものを招く」
彼の言葉の意味を測りかねていると、突然、杉浦が声を押し殺して叫んだ。
「博士!後ろです!」
振り返ると、我々が降りてきたばかりの暗闇の中に、複数のランプの明かりがゆらめいているではないか。しかも、我々のものとは明らかに違う、鈍く赤みがかった明かりだ。誰かが我々の後を追っているのだ。ロシア人か、それとも吉村の手下か。
「急げ」
弥太郎の声に緊迫感が宿る。彼は下降速度を速めた。我々も必死に続く。心臓が鼓動を高鳴らせる。それは傾斜の険しさからのものだけではない。追われるという恐怖と、未知への興奮が入り混じった、言い知れぬ高揚感である。
ようやく傾斜が緩やかになり、比較的平坦な地面に降り立った。ここは洞窟の最初の大空間、「化石の回廊」へのアントーチャンバー(前室)のような場所だ。我々は息を整え、後ろを振り返った。頭上では、あの不気味な赤い明かりが、まだゆっくりと下降を続けている。
「奴らは…我々を追っているのですか?」杉浦が息を弾ませながら尋ねた。
「…目的は同じじゃろう。だが、やり方は違う」
弥太郎はそう呟くと、地面を照らした。そこには、杉浦が担当していた装備の一部――最新式のブランソン社製の地質調査用具セット(頑丈なハンマー、鑿、ルーペ、サンプル袋)と、予備のカーバイドガス缶が数本、無造作に放り出されていた。それらは我々が降り立ったばかりの場所の、少し離れた影に置かれていたのだ。
「…な、これは!」
杉浦が声を上げる。自分のリュックから確かにしまったはずの貴重な調査用具が、いつの間にか盗まれ、ここに棄てられている。そして、その盗まれた品のすぐ傍らに、不可解な物体が置かれていた。それは巨大なドリュパス(大蟇)の死骸であった。しかし、その皮膚は通常の蟇とは明らかに異なり、不気味なまでに青白く、ところどころから微かな蛍光を発しているように見えた。
弥太郎は無言でその死骸を蹴り飛ばし、暗闇に消え去らせた。彼の顔には、怒りというより、諦めに似た険しい表情が浮かんでいる。
「…わしの目を盗んで、こっそりと置き換えおったんじゃ。…油断した」
彼は盗まれた用具を杉浦に拾うよう促し、自分が持ってきた予備の、しかし粗末なハンマーを差し出した。「…奴らは、お前たちの良い道具を狙っとる。これから先、装備には細心の注意を払え。リュックは決して離すな。」
「…これが『土の神』の申し子か…」余は呟いた。
「さっさと行くぞ」
弥太郎は我々を促す。「ここで足を止めるのは危険じゃ」
彼は再び歩き出した。我々は複雑な思いを抱えながら、その後に続く。盗まれた備品、追跡者、不可解な生物の死骸――洞窟に足を踏み入れてまだ一時間も経っていないというのに、我々の探検は既に、予想外の凶悪な様相を帯び始めていた。
そして、前方の闇の向こうから、ゆるやかな空間が広がる気配が感じられた。我々は、ついに「化石の回廊」――この地底旅行の最初の本格的謎の空間へと足を踏み入れようとしていた。




