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ナウマン博士の地底紀行  作者: 塗戸 雄司
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第三章 古老の言葉

翌朝、目を覚ますと、佐川の町は濃い霧に包まれていた。山あいの町ゆえの現象か、それとも、これもまたこの土地の神秘の一端なのか。霧の向こうからは、小鳥のさえずりと共に、どこからか聞き覚えのある酒造りの作業音——麹蓋を叩く軽やかなリズムが響いてくる。


吉村家の朝食は質素ながらも滋養に富み、よく気の利いたものだった。食事を終え、座敷に戻ると、惣左衛門がすでに待っていた。


「先生、本日ご案内申し上げるは、町一番の古老、山本晴介と申す者でございます。竜王穴の言い伝えに至るまで、この土地の歴史に精通しております」


彼の言葉に従い、我々は吉村家を後にした。霧が少しずつ晴れゆく中、町の裏手にある小高い丘の上へと続く細い道を辿る。やがて、杉苔むした屋根の、ひっそりとした小さな家が現れた。その庭先では、一人の老翁が縁側に腰を下ろし、長い煙管をくゆらせながら、ぼんやりと眼下に広がる町と、霧深い山々を見下ろしていた。年齢は七十半ばは優に過ぎているだろう。深い皺が刻まれた顔は、長い歳月とこの土地の風土に鍛え上げられた強靭さを感じさせた。これが山本晴介である。


「晴介爺さん、東京の大学から、ナウマン先生というえらい学者先生がお越しだ。竜王穴のことを詳しくお聞きしたいそうじゃ」

惣左衛門が声をかける。


晴介爺さんはゆっくりとこちらを向いた。その瞳は曇っておらず、かえって研ぎ澄まされた鷹のような鋭さを宿している。彼は黙って我々をじっと見据え、やがて微かにうなずいた。


「竜王穴か…」


老人の声は、枯れ木の軋むような、しかしながら良く通る低音であった。彼は煙管をトンと叩いて灰を落とすと、ゆっくりと語り始めた。


「わしの子どもの頃じゃったかの…そこの酒蔵の蔵人どもが、夏の涼しさを求めて、穴の入り口近くまで酒甕を運び込んでおった。だがな、どんなに欲深い奴でも、決して奥深くへは足を踏み入れんかった。『入り口は人の世、奥は神域』…そういうきつい言い伝えがあったからの」


彼の言葉は、ゆったりとした土佐弁の節回しで、まるで古の歌を謡うかのようだ。


「じゃが、そろそろ六十年ばぁ前になるかの…一人の若造が、その禁を破った。金になる石があるのでは、という欲に駆られての。で、二度と戻っては来んかった。三日後に探検隊が入ったら、入り口から百歩とも入らぬ地点で、崩れた岩盤の下じきになっておったそうな。顔は…恐怖で引き裂かれたように歪んでおったという」


杉浦が思わず息を呑む。余は黙って耳を傾けた。


「そいつはな、死に際に、わずかながら言葉を残したそうじゃ。『光った…青い光が…動いた…』とな」


青い光——余と惣左衛門は、わずかに顔を見合わせた。手紙に書かれた怪現象と符合する。


「爺さん、あの『光』の正体は何なんですか?」杉浦が恐る恐る尋ねる。


晴介爺さんは、深く窪んだ目を細め、遠くの山塊を見つめた。

「ふむ…地の底には、な、この山そのものができる前から、ずっとおるものがある。わしらはそいつを、『土のつちがみ』と呼びよる。山を形作り、川を堰き止め、時に牙をむく。あの光はな、神の息づかいか、あるいは…そのうろこの輝きじゃろうて」


彼の言葉は明らかに非科学的だ。しかし、そこに込められた畏怖の念は、本物である。これは千年、二千年という単位でこの土地と共に生きてきた人々の、自然に対する根本的な感覚なのだ。


「じゃがの…」爺さんの声がさらに低くなる。「近年の現象は、少しばかり様子が違う。光は強うなり、地鳴りは頻繁になる。まるで…神が癇癪かんしゃくを起こしよるか、あるいは、目覚めよるかのようにの」


「目覚めると、何が起こるのですか?」余が問う。


「分からん」爺さんはきっぱりと言った。「山が崩れ、新しい谷ができるかもしれん。あるいは、もっとわからんことじゃろう。わしらの祖父母でさえ、経験したことのないことじゃ。ひとつだけ言えるのは、な…」


爺さんは煙管で、そっと我々を順に指した。

「…神の眠りを浅くするような真似は、決してせんことじゃ。そいつは、きっと『青き石』を貪るからの」


青き石——。まさに、余のポケットの中の、あの磁性を帯びた鉱物ではないか。


その時、晴介爺さんは突然、話を止めた。そして、我々の背後——道の続く藪陰を、鋭く睨みつけた。何かが、サッと動く気配がした。


「……誰かおったな」

爺さんが呟く。


惣左衛門が振り返り、厳しい表情で周囲を見渡すが、もはや人影はない。

「獣でしょう、爺さん。心配いらん」


しかし、爺さんは首を振った。

「獣の気配じゃない。…人の、じゃが、よそ者の気配じゃ」


その言葉が、昨夜、吉村家の庭で感じた不気味な気配と重なって、余の背筋に冷たいものが走った。我々は、純粋な学術調査に来たはずだ。しかし、この調査は、地元の古老が畏れる「神」の領域に触れようとしており、さらに、我々の動向を密かに探る「よそ者」の存在がある。


屋敷へ戻る道すがら、余の頭からは爺さんの言葉が離れなかった。

「土の神」、「青き石」、「目覚め」。


これらは、科学的説明がつく地質現象の比喩に過ぎないのか。それとも、近代科学がまだ解明できていない、この土地にしか存在しない何かなのか。


調査を始める前に、まずはこの土地の「気質」を、もっと深く理解する必要があることを、余は強く感じた。そして、それは単なる地層の調査以上の、はるかに深い闘いとなるかもしれぬ、という予感が、ひしひしと迫ってくるのであった。

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