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ナウマン博士の地底紀行  作者: 塗戸 雄司
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第二章 佐川村の紳士録

人力車は、仁淀川に架かる古びた石橋を渡り、佐川村の中心部へと入っていった。村は盆地の底にあり、周囲を緑深い山々が守るように囲んでいる。夜の帳が降りていたが、家々の窓から漏れる明かりと、数少ないガス燈が、町の輪郭を浮かび上がらせていた。酒蔵らしき白壁の建物がいくつも連なり、どこからかほのかな麹の香りが漂ってくる。確かに「土佐の小京都」と呼ばれるにふさわしい、落ち着いた風情を備えた町である。


車夫の指示に従い、村のほぼ中央に位置する一軒の大きな屋敷の前で、我々はようやく降り立った。頑丈な杉材でできた長屋門には、吉村家の家紋である「丸に剣片喰」が掲げられている。門をくぐると、広い土間があり、使用人らしき者たちが慌ただしく動き回っていた。彼らは我々を見るなり、ぴたりと動きを止め、深々と頭を下げた。


「ようこそお越しくださいました、ナウマン先生、そしてお連れの方。ご到着が遅くなるとの報せを受けて、心待ちにしておりました」


奥から現れたのは、がっしりとした体躯の男であった。年齢は五十歳前後か。締まった顔つきに、きりりとした口元、そして鋭く物事を見据えるような眼差しが印象的だ。絹の袴に羽織という正装で、その一つ一つの動作に、この地の実力者としての自信と威厁がにじみ出ている。間違いなく、手紙の差出人である吉村惣左衛門その人である。


「わざわざ遠いところをお越しいただき、誠に恐縮でございます。さぞかしお疲れでしょう。どうぞ、こちらへ」


惣左衛門に案内され、広い座敷へ通される。畳の香りが心地よい、格式のある部屋である。すぐに女性たちが抹茶と和三盆を用いたと思われる菓子を運んでくる。もてなしの心遣いは申し分ない。


「早速ではございますが、先生。あの岩石の標本はいかがでしたでしょうか」

惣左衛門は、さも当然のように本題に入ってきた。実業家らしい、無駄のない話しぶりだ。


「実に興味深い物であった。特に、磁性を帯びた黒い鉱物は、我が国ドイツでも見たことのない特性を示しておる。貴殿の手紙にあった『怪現象』と、何らかの関連があるかもしれん」

余はそう答えると、コートのポケットからあの石の小片を取り出して見せた。


惣左衛門の目が、微かに、しかし確かに輝いた。

「おお…それはそれは。実は先生、わたくし、かねてよりこの佐川の地に、未だ知られざる鉱脈が眠っているのではないかと睨んでおりまして…」


彼の口調が熱を帯びる。

「酒造りも良い。しかし、この新しい時代、町を豊かにするのは、地の底に眠る『宝』ではないかと。もし先生のご調査で、有用な鉱物の存在が明らかになれば、この土地の未来も開けるというものです」


彼の言葉は理に適っている。しかし、その眼の奥に一瞬よぎった、強欲とも言える鋭い光を、余は見逃さなかった。彼の関心は、純粋な学術的探求ではなく、あくまでも「資源」と「開発」にあるようだ。


「調査は明日から早速始めるとしよう。まずは、洞窟の入り口とその周辺の地質からだ。案内人を一人雇いたいと考えておるが…」


「お安き御用でございます。町で一番の山案内を、明日の朝までに手配いたしますゆえ、ご安心くださいませ」

惣左衛門は深々と頭を下げた。


その夜、吉村家の離れ座敷に案内された我々は、ようやく旅の疲れを癒すことができた。杉浦はすぐに眠りに落ちたが、余は窓辺に立ち、闇に浮かぶ町の灯りをぼんやりと眺めていた。


ふと、町外れの方角――「竜王穴」があるとされる山塊の方向を、不意に見やる。すると、そこだけが、ほのかな、しかし紛れもない青白い靄のようなものに包まれているように見えたではないか。はたして気のせいか。それとも、あの「怪光」の名残か。


その時、である。下の庭で、物音がした。忍び足のような、こそりという音である。影のようなものが、素早く塀の外へと消えていった。余の目を疑った。明らかに、我々の動向を探る何者か――あるいは誰かの気配であった。


この静かな山里の町は、決して平穏などではなかった。学問的探求、地元の開発野心、そして不気味な怪現象。さらに、我々を監視する謎の影。いくつもの思惑が、この「竜王穴」を巡って、静かに、しかし確かに渦巻き始めている。


余は、再びポケットの中の石に触れた。冷たいその感触が、今夜ばかりは、何やら不気味な予感へと変わるのを感じずにはいられなかった。明日、どんな「山案内」が現れるのか。そして、洞窟は我々に何を見せるのか。



【注記:ナウマン博士の誤認について】


· 博士はこの時、佐川町を「土佐の小京都」であると認識しているが、これは誤りである。実際に「土佐の小京都」と称されるのは、高知県の中村市(現・四万十市)である。佐川町は「土佐の薩摩」とも称される酒造りの町であり、博士は文献上の記憶を誤っていたか、あるいは地元の者から聞き誤ったものと考えられる。この誤認は、外国人学者である博士の、当時の日本の地域情報に対する不完全な理解を示す資料的価値がある。

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