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ナウマン博士の地底紀行  作者: 塗戸 雄司
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第二十章 届かぬ声

ロシア公使館の書記官の訪問から数日後、帝国大学構内の空気は、以前とは明らかに異なっていた。些細な行き違いや、見知らぬ人物からの好奇の視線を、必要以上に敏感に感じ取ってしまう。我々は、常に監視されているというプレッシャーと、あの地底の真実を胸に秘めねばならないという孤独に苛まれていた。


そんな中、一人の人物がナウマン博士を訪ねてきた。小藤文次郎助教授――博士が親しくし、佐川へのきっかけとなった岩石標本を送った同僚である。彼は温厚な人柄で知られ、博士のよき理解者であった。


「ナウマン君、どうやら随分と重い荷物を背負って帰って来たようだな」

小藤助教授は、差し出された緑茶の湯気を見つめながら、そっと切り出した。


「…何のことですか?」

余は平静を装った。


「公式報告書は拝見した。立派な地質調査報告だ。しかしね…」彼はこっそりと一枚のスケッチブックの切れ端を取り出した。それは、杉浦耕作のものであり、祭祀場の壁画の三本指の生物が走り書きされたページだった。どうやら彼が、無意識のうちに写し取ってしまい、大学の机に置き忘れたらしい。


「若い耕作君には、荷が重すぎたのではないか? 君も、随分と憔悴しているように見える」

小藤助教授の眼差しは、非難ではなく、深い憂慮に満ちていた。


余は覚悟を決めた。小藤助教授ならば、信頼できる。しかし、全てを話せば彼をも危険に晒す。余は言葉を選びながら、ごく一部だけを伝えた。

「…小藤さん、あなたの推測は正しい。我々は、報告書に記せないものを…この日本列島の地層が育んだ、計り知れない古い秘密を目にしてしまった。それは、公にするにはあまりにも危険であり、あまりにも…非科学的な側面を持っている」


小藤助教授は深く頷いた。

「ふむ…。我々地質学者は、往々にして、岩石の語る“長大な時間”にばかり目を奪われる。しかし、その時間の中には、人類の歴史など軽々と超える、別の生命の記憶が刻まれていることも、あり得るのだろう。…君の判断は正しい。時には、発見を地中に眠らせておくことも、賢明な選択だ」


彼はスケッチの切れ端をライターで炙り、灰皿で静かに燃やした。

「この件は、私の記憶からも消そう。ただし、一つだけ忠告しておく。“フォッサマグナ”の西端は、思いの外、複雑で深い。君の提唱するこの巨大地溝帯の謎は、まだまだ解明されていない部分が大きい。あの土地の異変も、その延長線上にあるのかもしれん」


彼はそう言い残し、温かい笑顔を見せて立ち去った。彼の訪問は、我々にとって大きな救いとなった。少なくとも、この広い世界に、我々の重荷を理解する者が一人いるという事実が。


その夜、杉浦が博士の宿舎を訪ねた。彼の手には、一冊の分厚いノートがあった。

「博士、お許しください。私は…あの体験を、記憶が薄れないうちに書き留めていました。誰に見せるつもりもありません。ただ、自分自身のために…」


それは、『土佐地底行記』と題された、彼個人の詳細な記録であった。恐怖の表情だけでなく、地質学的観察、生物学的好奇心、そして古代祭祀場への文明的考察まで、青年の純粋な驚嘆と混乱が赤裸々に綴られていた。


「博士は公表できないとおっしゃる。私もそのお気持ちは分かります。しかし、このまま闇に葬り去られるには…あまりにもったいない。いつか、時が来たら…」


余はそのノートを受け取り、ページをめくった。そこには、余自身が感じた興奮と戦慄が、より純粋な形で記されていた。

「…保管しておこう」余は静かに言った。「この記録が日の目を見る日が来るかは分からない。しかし、お前のこの情熱と真摯さは、決して無駄にはなるまい」


その時、である。窓ガラスを小石が叩く音がした。外を見やると、誰もいない。ただ、庭の笹の葉が、さっと揺れただけである。


不審に思って窓を開けると、足元に石で押さえられた一枚の手紙が落ちていた。封筒には何も書かれていない。開くと、中からは、一粒の“青き石”の小片と、乱雑な筆跡で書かれたメモが出てきた。


メモには、こう記されていた。


「龍は眠る されど目は開く 旅の記 箱根の山の 胎内に秘めて」


(りゅうはねむる されどめはひらく たびのき はこねのやまの たいないにひめて)


――龍(=土の神)は眠ったが、その目は開いている。旅の記録は、箱根の山の胎内(地下深く)に、秘めておけ――


(注記:差出人は、フォッサマグナのほぼ中央に位置する火山地帯・箱根を指定した。これは単なる隠匿ではなく、フォッサマグナという巨大地溝帯のエネルギーが集中する「脈動点」としての箱根に、佐川で起きた現象と同根の、あるいはそれ以上に大きな「何か」が潜んでいる可能性を暗示している。ナウマン博士自身が地質学者としてこの地の重要性を認識しているからこそ、このメッセージは重みを持つ。)


翌日、余は杉浦を連れて、東京を離れた。目的地は言うまでもなく、箱根の山なのである。表向きの理由は、「フォッサマグナ中央部における地熱活動と地質構造の調査」である。


静かなる余波は、確かに第二の波へと変わりつつあった。それは、新たな謎へと我々を導く、静かなる導きの声のようにも思えた。そして、その舞台は、日本列島の形成の謎を解く鍵を握る、フォッサマグナの真っただ中へと移ろうとしていた。


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