第十九章 静かなる余波
佐川村を発ってから、一ヶ月が経過した。帝都東京は初夏の陽気に包まれ、銀座煉瓦街を行き交う人々の服装も軽やかになっていた。帝国大学の執務室に戻ったハインリヒ・ナウマン博士は、机の上に広げられた二通の文書を見つめていた。
一通は、文部省へ提出する公式な「四国地方地質調査報告書」の草稿である。そこには、佐川村周辺の石灰岩層の標準的な観察記録、いくつかの化石サンプルのスケッチ、そして「竜王穴」が落盤の危険があり学術調査に適さないという、事実とは異なる結論が、冷静な学者の文体で綴られていた。
もう一通は、ドイツ語で記された私的な日記のページである。そこには、地底湖の青白い光、三本指の足跡、祭祀場の壁画、そして「神々の座」のオベリスクが崩壊する様子が、生々しい筆致で描写されていた。
「博士」
ドアをノックして入ってきたのは、杉浦耕作だった。彼は一ヶ月前の苦行を経て、どこか少年らしさが消え、落ち着いた眼差しをしている。しかし、時折、何かにはっとしたように視線が泳ぐのは、あの体験の後遺症だろう。
「あの…報告書の清書が終わりました。ご確認ください」
杉浦が差し出した文書を受け取り、目を通す。それは、彼が草稿に基づき、見事に整えたものだった。非の打ち所がない。しかし、その完璧なまでの「正常さ」が、かえって余の胸を締め付ける。
「…よくやった、耕作君。これで提出しよう」
余はそう言い、認印を押した。虚しさが胸をよぎる。
「博士…あのことを、本当に誰にも話さないのですか? 小藤先生にも?」
杉浦は躊躇いながら尋ねた。
「話すべきではない」余は断固として答えた。「この話は、我々が狂人として嘲笑されるか、あるいは…より危険な勢力の標的にされるかの、どちらかで終わるだろう。学問の進歩のためには、時として沈黙も必要だ」
その時、執務室のドアが激しく叩かれた。現れたのは、大学の事務官で、興奮した様子だった。
「ナウマン先生!お客様です! 外務省からの…そして、もうお一人は…ロシア公使馆の書記官と名乗っておられます!」
余と杉浦は顔を見合わせた。来るべき時は、思ったよりも早く訪れたのだ。
応接室には、紋付羽織袴の日本の外務省官員と、背が高く、冷たい灰色の瞳をしたロシア人書記官が待っていた。ロシア人は流暢な日本語で切り出した。
「ナウマン博士。我々は、あなたが先月、土佐国で行われた地質調査について、お尋ねしたいことがあります。我が国の民間人研究員、ボリス・イワノフ及びセルゲイ・ペトロフが現地で行方不明となりました。何か心当たりはありませんか?」
その問いかけは、丁寧でありながら、強烈な圧力を含んでいた。外務省官員は困惑した表情で黙っている。
余は平静を装って答えた。
「そのような名前の人物に会った覚えはない。我々の調査は純粋に学術的なもので、地元の協力者の案内のもと、ごく限られた区域を調査しただけだ」
「…そうですか」ロシア人書記官の口元が微かに歪んだ。「しかし、地元の噂では、博士たちの調査後、洞窟が崩落したとも聞きます。何か…異常なものを目撃されたのでは?」
その言葉に、杉浦の息遣いが荒くなったのを感じる。余は机の下で拳を握りしめた。
「自然の洞窟は、時に突然の崩落を起こすものだ。我々は幸運にも、難を逃れたに過ぎない」
ロシア人書記官は余を見据え、やがて不敵な笑みを浮かべた。
「…分かりました。しかし、何か新しい発見があれば、どうぞご一報を。我が国も、極東の地質学に、大いなる関心を持っておりますので」
彼らが去った後、応接室には重苦しい沈黙が残った。外務省官員は「ご苦労様でした」とだけ言って、俯きながら退出していった。
「博士…あのロシア人は、何か知っているようです」杉浦が声を震わせた。
「ああ、確信犯だ。イワノフたちの行動を承知の上で、我々を探りに来たのだ。油断はできない」
その夜、余は宿舎で一人、酒杯を傾けていた。すると、使用人が一枚の紙切れを届けた。差出人不明の、便せん一片だった。そこには、達筆な文で、こう記されていた。
「風知らぬ 樹の下暗く 神やどる ただ黙して 過ぐるべし」
(かぜしらぬ このしたくらく かみやどる ただもだして すぐるべし)
――風も通わぬ樹の下は暗く、神が宿っている。ただ黙って、その場を通り過ぎるがよい――
これは警告だ。そして、この筆跡は…確かに、佐川町の古老、山本晴介のものに違いない。彼は、我々が無事に東京に戻り、しかも外部から圧力がかかっていることを、どうやって知ったのか? 町には、依然として晴介爺さんの目と耳が届いているのだろうか。
あるいは…。
余はコートのポケットから、「青き石」の小片を取り出した。東京に戻ってからも、ごく微かだが、時折温かさを感じることがあった。それは気のせいか? それとも、この石が、遠く離れた「仲間」や、あの土地と、何らかの繋がりを保っているのだろうか。
ふと、窓の外で物音がした。見やると、夜の闇の中に、一瞬だけ青白く光る小さな虫のようなものが飛び去っていくのが見えた。はたして、それはホタルなのか? それとも…。
余は酒杯を置き、私的な日記を開いた。ペンを走らせる。
「我々の調査は終わった。しかし、『彼ら』との関わりは、決して終わってはいない。この石は、単なる鉱物標本ではない。それは、もう一つの世界への、静かなる導管なのかもしれない――」
東京の喧騒が窓の外から聞こえる。しかし、余の耳には、今もって、地底の大河のせせらぎと、青き影たちの低い詠唱が、かすかに聞こえているような気がしてならない。
静かなる余波は、確実に、我々の日常に浸透し始めていた。そして、第二の波が、いつ襲い来るかは、誰にも予測できなかった。




