第一章 蒸気船と人力車
明治二十二年四月十五日。余と助手の杉浦耕作は、新橋停車場に降り立った。プラットフォームは、紋付羽織袴の紳士から、洋装の官吏、はたまた行商の老婆まで、実に様々な人々が行き交う、まさに新旧入り混じる日本の縮図であった。石炭を焚く汽車の汽笛が高らかに響き、文明開化の息吹がひしひしと感じられる。
「いやはや、博士。いつ見てもこの喧噪には驚かされますな」
杉浦が、少し興奮した口調で言う。彼は帝国大学の制服とも言うべき詰め襟の学生服をきちんと着こなし、将来を嘱望される俊英らしい端正な面差しをしている。しかし、その眼は好奇心に輝き、まだ二十歳の青年らしい無邪気さを覗かせていた。
「ふむ、確かに活気にあふれた光景だ。しかし、耕作君。我々の旅の目的地は、この喧噪からはほど遠い。静謐な山あいの町だ。そのことを肝に銘じておくがよい」
やがて、横浜行きの汽車に揺られること約三十分。横浜港では、近海航路用の小さな蒸気船「土佐丸」が我々を待っていた。船体は黒く、太い煙突からはもくもくと黒煙が上がっている。この船で一路、四国・高知の浦戸港を目指すのである。
船上での数日間は、比較的平穏であった。しかし、横浜港を出てすぐに、船は太平洋の荒波に揉まれ始めた。瀬戸内海の穏やかな航路とは異なり、ここは黒潮が流れる外洋である。船は大きく揺れ、杉浦はしばしば船酔いと格闘することとなった。
「博士、海の色が…東京湾とはまったく違いますな」
顔色を悪くしながらも、杉浦は舷側から変わりゆく風景を観察していた。
「あれが黒潮の影響だ。この深い藍色は、大洋の証だよ」
遠くには、伊豆半島や紀伊半島の山々がうっすらと連なり、その険しい地形と複雑に入り組んだリアス式海岸が、この地の激しい地殻変動の歴史を物語っている。地質学者である余の眼には、それはまさに生きている地球の断面図のように映った。
「耕作君、見よ。あの険しい海岸線は、隆起と沈降を繰り返した大地の営みの痕跡だ。土佐で我々が見ようとしているものも、そうした長大な地史の一片に過ぎぬかもしれん」
そう解説しながら、余は思う。土佐の洞窟で見つかったという磁性鉱物も、もしかしたら、こうした大地の壮大な営みの、ほんの一片の証拠なのかもしれぬ、と。
三日目の夕刻、土佐丸はようやく浦戸港に接岸した。港は小さく、周囲を緑濃い山々が囲んでいる。東京の喧噪とは打って変わり、潮の香りと共に、のどかながらもどこか荒々しい土佐の気風が感じられた。
ここからが、本当の旅路の始まりである。港で待ち受けていたのは、二人乗りの頑丈な人力車と、屈強な車夫たちであった。
「先生、高知から佐川までは、まだかなりの道のりがございます。山道も険しゅうございますゆえ、お覚悟を」
一人の車夫が、土佐弁の強い口調でそう言った。
「構わん。せっかくの機会だ。この土地の様子を存分に観察させてもらおう」
人力車は、高知の城下町を抜け、次第に山あいの道へと差し掛かっていく。道は未舗装で、車輪が刻む軋む音と、車夫の息遣いだけが響く。右手には清流・仁淀川が碧く輝き、左手には杉林が深く茂っている。新緑の萌える山肌は、地質学的に興味深い露岩を見せてくれる。
「博士、見てください! あの崖面の層理は…」
「おお、明らかな褶曲が見えるな。この地帯が如何に激しい地殻変動を受けたかがよく分かる」
杉浦と地質談義に花を咲かせるうちに、日は次第に傾き始めた。山肌を染める夕焼けは、やがて深い藍色へと変わり、一つまた一つと星が瞬き始める。辺りは漆黒の闇に包まれ、車夫が手にした提灯の明かりだけが、細い山道をぼんやりと照らし出す。眼下には、月光を浴びて淡く光る仁淀川の流れが静かに続いていた。
その時である。遠くない山中から、不気味なまでに長く続く、狼のような唸り声が聞こえてきたような気がした。車夫たちはぴたりと足を止め、互いに顔を見合わせる。
「なんですかな?」余が問う。
「……山の声にございます。気になさいますな」
車夫は短く答えると、再び黙々と車を進め始めた。しかし、その背中には明らかな緊張が走っていた。
ようやく人力車が小さな盆地を見下ろす高台に差し掛かった時、車夫の一人が鞭を指さした。
「ほれ、佐川の村でございます」
闇の中に、無数の家々の明かりが、まるで地に落ちた星々のように、ぽつりぽつりと輝いていた。その中心に、さほど大きくはないながらも、威厳をもって構える一軒の屋敷が見える。どうやら、我々の目的地である吉村惣左衛門の屋敷は、この村の中心に位置するらしい。
余はコートのポケットの中にある、あの磁性鉱物の小片に触れた。冷たい石の感触が、この静かな山里に潜む未知への、静かなる興奮を改めて呼び覚ますのであった。
我々の地底への旅は、この暗がりの中の町から、いよいよ始まろうとしている。




