第十八章 崩壊
青き影が示した壁面の割れ目は、我々にとってまさに命の綱であった。その狭い裂け目に飛び込むやいなや、背後で天地を揺るがす轟音が炸裂した。「神々の座」のオベリスクが完全に崩壊し、それに伴って洞窟全体が自壊を始めたのだ。
「急げ! 遅れるな!」
弥太郎の絶叫が、岩石の軋みと崩れ落ちる音にかき消されそうになる。我々は暗闇の中、ただ前方へ、ひたすらに駆けた。ランプはとっくに失われ、頼れるのは弥太郎のカンヌキ刀が岩壁に叩きつける火花と、後方から迫り来る崩落の轟音だけだった。
「博士! こっちです!」
杉浦の声がわずかに導く。彼は若い感覚を頼りに、かすかな空気の流れを感じ取っているようだ。頭上からは小石や岩屑が雨と降り注ぎ、時に大きな岩塊が足元を割いて落ちてくる。死がすぐ背後で息を吹きかけている。
「ここじゃ! 上がり口じゃ!」
弥太郎が叫んだ。前方の暗がりに、わずかな外光が差し込む縦穴が見えた。それは「裏竜王穴」の入り口よりもさらに細く、危険そうな登攀が待ち受けている。しかし、それが唯一の脱出路だ。
弥太郎が素早くロープを結びつけ、我先に登り始める。
「博士、先に登ってくだされ!わしが最後尾を守る!」
余は躊躇したが、今は議論している場合ではない。杉浦を促し、冷たく濡れた岩壁を必死によじ登った。筋肉は悲鳴を上げ、肺は灼熱のように疼く。下方では、崩落の波がすぐそこまで迫っている。
ようやく頂上に手が届いた時、恐ろしい音がした。弥太郎が登攀中の岩盤ごと、大きく崩れ落ちたのである。
「弥太郎さん!」
「構うな! 先に行け!」
弥太郎の声は、崩れ落ちる岩石の音に混じって聞こえた。彼は落下しながらも、何とか別の岩棚にしがみついたようだが、我々からは見えなくなってしまった。
「博士! もう待ってはいられません!」
杉浦が余の腕を引っ張る。縦穴そのものが崩壊し始めている。
歯を食いしばり、余と杉浦は最後の力を振り絞って地上へと這い出た。その直後、背後で大音響と共に「裏竜王穴」の入口が完全に塞がれた。
辺りは深夜の森であった。冷たい空気が肺を刺す。頭上には満天の星が輝いていた。我々はその場にへたり込み、激しい息を切らした。全身は泥と汗と血にまみれ、骨の髄まで疲労しきっている。
「弥太郎さんは…」杉浦が涙声で呟く。
「…あの男なら、生きている」
余はそう言い聞かせるように答えた。確信はなかった。しかし、あの屈強な山男が、あのような形で命を落とすとは信じたくなかった。
ふと、足元の震動が完全に止んでいることに気がついた。地鳴りも、怪光も、すべてが終わったようだ。「神々の座」の崩壊が、全ての現象の源を断ったのだろう。
やがて東の空が白み始めた。我々は傷だらけの体を引きずりながら、なんとか佐川の町へと戻った。町は何事もなかったかのように静かだった。しかし、町外れの山塊の輪郭が、わずかだが変わっているように見えた。大規模な地盤沈下が起きたのか、あの「竜王穴」群は永遠に地中に封じられたのだ。
吉村惣左衛門は、我々の無事を聞いて安堵の表情を浮かべたが、洞窟の崩壊と弥太郎の行方不明の報せには、深い悲しみと後悔の色を浮かべた。
「もう…終いじゃ。全てが元の静けさに戻るのじゃろうて…」
彼はそれ以上、何も尋ねなかった。真相を恐れているようだった。
数日後、余と杉浦は傷を癒し、疲労をいやす間もなく、佐川の地を後にした。東京への帰路、車中で余は一言も口を聞かなかった。頭の中は、あの青き光と轟音、そして青き影たちの無表情な「詠唱」で一杯だった。
窓外の移り行く景色は、あまりにも日常的で、地底での体験が悪夢のようにさえ感じられた。しかし、コートのポケットの中の「青き石」の小片の冷たい感触だけが、全てが現実であったことを物語っていた。
我々は何を見たのか。あれは、地質学的異常現象のなせるわざなのか、それとも、我々の理解を超えた「何か」との遭遇だったのか。
公にすべき報告書には、どのように記せば良いのか。おそらく、真実を記すことはできない。余は窓の外の景色を見つめながら、永遠に語られることのない、もう一つの報告書を、胸の内で書き綴り始めたのである。
そして、弥太郎の無事だけを、ただひたすらに願った。
(第一部 完)




