第十三章 第二の入り口
吉村惣左衛門が恐怖から手を引いた今、我々の調査は公式には終了した。少なくとも表向きは。しかし、余の胸中は複雑だった。学者としての良心が疼いた。あの地底に横たわる学術的に貴重な発見、そして何より、イワノフの不可解な死の真相を解明せずして、この地を去ることなどできようか。しかし、危険は現実的であり、杉浦の身を案じてもいた。
その夜、離れ座敷で沈黙した晚餐を取っていると、密かに弥太郎が訪ねてきた。彼は周囲を確認すると、声を潜めて言った。
「…先生、もうひとつ、行く手があるかもしれん」
余と杉浦は顔を見合わせた。
「もうひとつ?」
「はい…『裏竜王穴』いうての。修験道の行者だけが知る、古い古い入り口じゃ。あの『胎内口』よりもさらに険しく、魔物の棲家にまっすぐに繋がっちゅういう、禁じられた道じゃが…」
彼の目には、諦めきれない何かが燃えていた。それは単なる案内人としての義務感を超え、彼自身の、この土地と洞窟への深い執着のように見えた。
「…わしの家に伝わる『写し図』は、この『裏竜王穴』への道筋と、その先の危険な区域を示したものじゃ。先祖は、そこを封じるために、図を残したんじゃろう」
「なぜ今、それを?」余が尋ねた。
「…あのロシア人の死は、終わりじゃない。始まりじゃ」弥太郎の声は硬かった。「奴ら(ロシア側)は、もう一人の男が消息を絶った以上、必ず手を替え品を替え、やって来る。そして、吉村さんは…恐怖に屈した今、いつ彼らと手を結ぶか分からん。今のうちに、わしらで“けり”をつけねばならんんじゃ」
彼は我々を見据えた。
「先生は学者じゃ。真実を知りたいのじゃろう?わしは…この土地の守り手じゃ。穢されたものを浄めねばならん。お前さん(杉浦)は…若い。恐怖に直面しても、己の道を見極めねばならん時が来たんじゃ」
その言葉は、三人それぞれの胸に深く刺さった。確かに、このまま幕引きすることは、どの立場から見ても不完全極まりない。
「…危険は承知だな、弥太郎さん」
「承知の上じゃ」
「博士、私も行きます!」杉浦の声は依然震えていたが、その目には少しの覚悟が宿っていた。「あの地底で見たもの…あれを無かったことにはできません!」
こうして、我々は非公式に、そして最後の調査隊を結成することを決意した。目的は、真実の解明と、場合によっては「彼ら」との…あるいは「それ」との決着である。
弥太郎の家は、町外れの小高い丘の中腹にひっそりと建つ古い家だった。そこで彼は、桐の箱に厳重に保管された一卷の古い羊皮紙を取り出した。そこに描かれたのは、複雑極まりない地下道の図と、所々に記された警告の印、そして扇状に広がる青い輝きを描いた区域であった。それが「神々の座」――全ての元凶の場所だと直感した。
翌未明、我々は極限まで軽装備し、密かに吉村家を抜け出した。目指すは、町からさらに山深く分け入った、人跡未踏の渓谷である。
「裏竜王穴」への道程は、「胎内口」よりもはるかに過酷だった。獣道すらなく、弥太郎のカンヌキ刀で藪を漕ぎながら、断崖を伝わって進む。何度かは滑落しそうになり、その度に冷や汗をかいた。
そしてようやく、その入り口を見つけた。それは滝つぼの裏側にひっそりと口を開ける、風化した鳥居の跡に守られたような縦穴だった。鳥居の柱には、「根之国」と「黄泉戸」という古語が刻まれている。まさに、死者の国への入口である。
「…ここが、『裏竜王穴』じゃ」
弥太郎の声も緊張していた。「ここから先は、修験の道でも、最も選ばれた者だけが許された“禊”の場じゃった。戻りたいなら、今が最後じゃ」
余は一瞬躊躇した。しかし、振り返れば、ロシアの暗躍や、イワノフの無残な死体、そして洞窟の最深部で待つという真実が脳裏をよぎる。
「…行くぞ」
弥太郎が頷き、最新の装備ではなく、塩と御札を懐から取り出し、洞口に撒いた。それは科学者である余の知性を嘲笑うかのような古式ゆかしい儀式だったが、今の我々には、それが必要に思えた。
いよいよ、最後の下降が始まる。この入り口は「胎内口」よりもさらに狭隘で、冷気と共に、腐敗と芳香が入り混じったような、不可解な臭気が立ち上ってくる。
降り立った最初の小空間で、我々は息をのんだ。そこには、無数の「願い角」(祈願の証として納められた鹿の角) や、 刀剣 、 銅鐸 の破片が、時代を超えて堆積していた。古代から中世、そして近世に至るまで、途切れることなく、人々がこの「口」に「何か」を捧げ続けてきた証だった。
そして、それら奉納物のほぼ全てが、握り潰され、捻じ曲げられ、あるいは意味不明な形に変形させられていた。拒絶の歴史。それは、“彼ら”が、千年以上の時をかけて、人間の接触をひたすら拒み、時には狂暴に排除してきたことを物語っている。
我々は、最早、単なる探検家ですらなかった。長きに渡る拒絶の歴史に、無理やり割り込もうとする、不遜な侵略者なのである。
弥太郎が重苦しい空気を破った。
「…気をつけろ。ここから先が、本当の『魔物の棲家』じゃ。わしの図にすら、詳しくは描かれん領域じゃ…」
ランプの光が、深い闇へ吸い込まれていく。我々の、最後の地底旅行が、今、始まろうとしている。




