第十二章 ロシア人スパイの最期
弥太郎に導かれ、我々は佐川町外れの鬱蒼とした杉林の中へと分け入った。朝も早く、霧が深く立ち込める中、鳥のさえずりさえも聞こえない不気味な静寂が支配していた。やがて、地元の若者らしき数人が、青ざめた顔で固まっている地点に到着した。彼らは猟師か、あるいは吉村の手下だろうか。その中央の地面に、ボリス・イワノフらしき男の遺体が横たわっていた。
その死体は、弥太郎の言葉通り、ただ事ならざる光景であった。
男はうつ伏せに倒れており、一見すると外傷は少なかった。しかし、その体全体が、信じられないほどに“平ら”になっているのだ。まるで巨大なプレス機で、垂直方向から文字通り“圧縮”されたかのようであった。背骨や肋骨は明らかに粉砕され、体内の構造物が外力で均一に潰されたような状態で、しかしながら皮膚には目立った裂傷や刺し傷はない。それは、物理的に説明のつかない、不気味なまでの“完璧な圧死”の状態であった。
「マイン・ゴット…」余は思わず呟き、目を背けた。地質学者として鉱山事故の惨状は幾つか見てきたが、これはそれらとは次元の違う、純粋に“生物的”とは思えない死に様だった。
「…あ、あれは…?」杉浦が震える指さす。遺体の周囲の湿った土壌には、明らかな三本指の足跡が、くっきりと無数に刻まれていた。しかも、それは遺体を同心円状に取り囲むようにして付いていた。さらに、その足跡からは、あの忌まわしい青白い粘液が、べっとりと土を汚している。
そして、最も不可解なのは、男の右手が力強く握りしめられ、その中から青く光る微小な結晶の破片が微かに覗いていたことだ。それは、余のポケットの中の石と同一のものに違いない。彼は死の瞬間、何かを掴み、あるいは掴まされていたのだ。
「…跡形もなく消し去られたもう一人の仲間とは、違うわい」
弥太郎が暗澹とした面持ちで呟く。「こいつは…見せしめじゃ。警告じゃ。『これ以上、深追いするな』とな…」
吉村惣左衛門は、その後から駆けつけ、この光景を呆然と見つめた。彼の顔からは、野心や打算といったものは完全に消え失せ、純粋な恐怖と戦慄だけが刻まれていた。
「こ、これは…魔物の所業じゃ…!イワノフが…こんなことに…!」
「魔物か、それとも…“神”の怒りか」
余は静かに言った。「彼らは、我々が石器時代から“青き石”を貪ってきたことに、終止符を打とうとしているのかもしれん。そして、この男は、その最新の被害者に過ぎないのだ」
その時、一人の若者が怯えた声で報告した。
「で、でも親方…奇妙なんです。この辺り一帯の磁気が、めちゃくちゃに狂っとるんですわ。コンパスがぐるぐる回って、まともに方角も分かりません」
余は自身のポケットコンパスを取り出した。確かに、針は激しく振れ、全く北を示そうとしない。イワノフの遺体を中心として、強烈な磁気異常が発生しているのだ。それは、彼が握りしめていた青い結晶が原因なのか、あるいは、彼を“処理”した“何か”が残した痕跡なのか。
「…皆、引き上げい」
惣左衛門が虚脱したように言った。彼の声は力を失っていた。「もう…終いじゃ。この件は、水に流す。イワノフの件も、獣に襲われた事故として片付ける。もう…関わるな」
彼はそう言い残すと、よろよろとその場を去っていった。かつての威勢の良さは微塵もなかった。
現場に残された我々は、重苦しい沈黙に包まれた。
「博士…」杉浦が囁くように尋ねた。「あれを…科学的に説明することは、できるんですか?」
余はゆっくりと首を振った。
「現時点では…できない。圧死の状態と、磁気異常、そしてあの生物的な痕跡…。これらの要素を同時に説明できる既知の現象は、私の知る限り存在しない」
「…わしらは、もうとっくに、引き返せんところまで来ちょるんじゃ」
弥太郎が空を見上げながら呟いた。「あの穴は、もうわしらのことを“敵”と決めつけちょる。地上にいても、安全ではおられん」
彼の言葉は、最早誇張でも何でもなかった。我々は、不可解な力の標的となった。調査を続けることも、やめることも、 同等に危険を伴う局面に立たされている。
余はコートのポケットの中の“青き石”に触れた。その冷たい感触が、最早、学術的興奮の源ではなく、呪わしい災いの根源のように感じられた。
我々は、最早、単なる観測者などではいられなかった。この恐ろしい現象の、渦中に巻き込まれた当事者なのである。そして、次の犠牲者が誰になるのか、誰にも予測できなかった。




