第十章 帰路の怪
古代祭祀場の不気味な空気は、我々の皮膚にまとわりつくように重かった。散乱する人骨、奇怪な壁画、そして追跡者たちの最後らしき物音——。この地底の謎は、最早学術的興味の領域をはるかに超え、生存を賭けた探索へと変質していた。
「博士、これ以上進むのは…あまりに危険です」杉浦の顔は蒼白で、声は明らかに疲労と恐怖で震えていた。「一度、地上に戻り、装備を整え、計画を練り直すべきではありませんか?」
余は一瞬躊躇した。学者としての好奇心は、この先に何があるのか、その核心を知りたいと強く訴えかける。しかし、助手の生命への責任、そして何より、この場の圧倒的な不気味さが、撤退を選択させる。
「…そうだな、耕作君。君の言う通りだ」
余は重々しくうなずいた。「ここまでの調査結果は既に膨大だ。一旦戻り、記録を整理し、吉村や当局とも相談せねばなるまい」
弥太郎は一言も発さなかったが、ほっとしたように微かに息をついた。彼もまた、この先への恐怖を感じ取っているのだろう。彼は我々を導き、祭祀場を後にした。
帰路は、来た時とは全く異なる、息苦しいまでの緊張に包まれた。ランプの燃料は減り、光は弱々しく揺らめく。その都度、壁面の影が蠢き、三本指の化け物が襲いかかってくるかのような錯覚に襲われる。
そして、最初の異変は、我々が「化石の回廊」へ差し掛かった時に起こった。
弥太郎が突然、足を止め、地面を睨みつけた。
「…おかしい」
彼が指さす先の粘土質の地面には、無数の「三本指の足跡」が依然として刻まれていた。しかし、だ。それらとは明らかにサイズも形も異なる、我々のものとも、追跡者たちのものとも違う、第三のグループの足跡が、新しいものとして、はっきりと重なっているのだ。それは我々が祭祀場にいる間に、この通路を通り抜けたことを示していた。
「…奴らだけじゃなかったのか?」余は呟いた。
「…違う」弥太郎の声は硬い。「これは…もっと古くから、ここにいる連中の足跡じゃ…」
その言葉の意味を測りかねていると、今度は杉浦が鋭く息を呑んだ。
「博士…音がしません」
彼の言う通りだ。頭上から、ずっと気になっていた追跡者たちの気配——物音やらざわめきやら——が、完全に消えている。湖で聞いた悲鳴と水音が、彼らの最後だったのだろうか。
不気味な静寂が洞窟を支配する。ただ、水滴が落ちる音と、我々自身の鼓動の音だけが強調されて聞こえる。
「とにかく、急ごう」
余が声をかける。不吉な予感が、脊椎を這い上がる。
「胎内口」の急な攀爬を始めた時、弥太郎が最も危険な警告を発した。
「…誰かが、わしの結び目をいじっとる」
見上げると、彼が丁寧に結んだロープの結び目が、わざと緩められたり、違う結び方に書き換えられたりしている箇所が複数見つかったのだ。これは明らかなサボタージュである。登攀中にこのロープに体重を預ければ、確実に転落死していた。
「あの野郎…!」弥太郎の声に、初めて怒りの色が宿った。
我々はロープを確認し、修正しながら、息を切らしてよじ登った。背後からは、常に「見られている」という感覚が付きまとう。振り返れば、深い闇の中に、ぽつりぽつりと青白い光点が浮かんでいるようにすら感じられた。
ようやく「胎内口」の出口に辿り着き、冷たい外気を肺いっぱいに吸い込んだ時、我々は皆、その場にへたり込んだ。夜空には星々が輝き、地上の世界は何事もなかったかのように静かだった。
しかし、安堵は一瞬で消えた。我々が降り立った地点のすぐ傍らに、新たな「置き換え」が行われていたのである。今回は、弥太郎が持っていた予備の食料が盗まれ、その代わりに、祭祀場で見た土器の破片と、生々しい獣の毛が置かれていた。
これは最早、警告などではない。挑発である。あるいは、儀式的な意味すら感じさせる。
「…奴らは、わしらのことを、まだ許さんぞ」
弥太郎が暗澹とした面持ちで呟く。「地上にまで、ついて来よったんじゃ」
我々は無言で吉村家へと急いだ。得られたはずの科学的データは、得体の知れない恐怖と謎の深まりによって、完全に色褪せてしまっていた。
離れ座敷のドアを開け、ほっと一息ついたのもつかの間、余はすぐに違和感に気がついた。
机の上に置いておいた、余のメインノート(本記録用)と、計測器具のケースが、明らかに誰かに弄られた跡があったのだ。
ノートは乱雑にページをめくられたまま投げ出され、『青き石』の初期の測定データが記されたページの一角が、濡れたような、あるいは粘液のような痕跡で汚され、数値が滲んで読めなくなっていた。計測器のケースは開けられ、磁力計の針が意図的に折り曲げられていた!
誰かが、我々が不在の間に侵入し、調査の根幹をなす「計測データ」と「計測手段」そのものを、不可解な方法で破壊したのである。まるで、科学的検証そのものを無力化するかのように。
この地で起こっていることは、単なる地質現象や未発見生物の問題を超えている。それは、明確な意思と知性を持った「何か」が、我々の調査を監視し、操作し、そしてその核心を隠蔽しようとしている——。
我々の地底旅行は、最早、未知との遭遇などではなく、不可解で危険な存在との、不気味な諜略戦の様相を呈し始めていた。そして、その戦場は、地底から、我々が宿るこの屋敷のすぐ傍まで、確実に迫っているのだった。




