第九章 古代の祭祀場
湖を渡るイカダは、古びてはいたが、意外なほど頑丈だった。弥太郎の巧みな操舵により、我々は発光する湖面をすり抜けるようにして対岸へと向かった。湖底の青白い光は、我々の不安げな表情を幽かに照らし出す。水面下には、無数の影が蠢いているように見え、その都度、冷や汗が背中を伝った。あの巨大甲殻類の仲間か、あるいは全く別の生物か。いずれにせよ、イカダの上は無防備極まりない。
ようやく対岸に辿り着くと、弥太郎の言う通り、確かに小さな洞窟の入口が口を開けていた。我々がイカダを岸に引き上げるやいなや、湖心からの不気味な唸り声は再び強まり、湖面の光の明滅が激しさを増した。最早、引き返すことはできない。
「急げ。ここはまだ安全ではない」
弥太郎の声に促され、我々は新たな洞口へと駆け込んだ。
この洞窟は、これまでとは明らかに趣が異なっていた。壁面はある程度の平滑さを保ち、ところどころに人工的に磨かれたような痕跡が見られる。そして、進むにつれ、我々は無数の土器の破片を踏んでいることに気がついた。それらは明らかに古代のもので、縄文式土器から弥生式土器へと移行する過渡期の特徴を備えている。
「博士、これは…!」
杉浦がランプを壁面に向けた。そこには、赤い顔料で描かれた呪術的な壁画が現れていた。
壁画の主題は、圧倒的だった。そこに描かれていたのは、三本指の細長いヒューマノイドの群れが、洞窟の中心部で、青く輝く鉱石(まさに余のポケットにあるものだ!)を球体に加工し、崇め奉る図であった。そして、その周囲で、古代の人間らしき人々が跪き、祈りを捧げているのである。さらに恐ろしいのは、壁画の一角に描かれた生贄の儀式の場面であった。人間らしき人物が縛られ、その眼前で、青い球体を貪るヒューマノイドの姿が――。
「これは…縄文、あるいは弥生の頃の…古代祭祀場の跡だ」
余は声を震わせた。学術的に極めて貴重な発見であると同時に、晴介爺さんの話の信憑性を恐ろしいまでに裏付ける光景だった。「彼らは…この地底の住人を、『神』として祀っていたのか?それとも、何かを恐れ、なだめるための生贄を捧げていたのか?」
そして、壁画の中心に描かれた「青き石」の球体。それは、余の採集した鉱物そのものだった。古代の人々は、この石の持つ強い磁性や微かな発光に、超自然的な力を感じたのだろうか。
余は震える手でリュックからフィールドノートと鉛筆を取り出した。ランプの灯りを頼りに、壁面の奇怪な壁画と、散乱する人骨の配置を、できる限り正確に走り書きした。手は震え、紙の上には恐怖が滲んだ。この記録が世上に公になることは決してないだろう。しかし、この恐るべき発見を記録せずには、学者としての本能が許さなかった。
「…時間がない」
弥太郎の低く焦った声が響いた。「ここは長くいる場所じゃない。…彼らが、すぐに気づく」
「ほんの少しだ、弥太郎さん。これはあまりにも重大な発見なのだ」
余は応じながらも、鉛筆を走らせる手を速めた。スケッチは粗削りだが、壁画の主題――三本指の生物と青き石、生贄の儀式――は確かに記録された。
ふと、杉浦が足元の土器の破片の山をかき分け、悲痛な叫び声を上げた。
「博士!こ、これは…!」
そこには、無数の人骨が散乱していた。しかも、その状態がおかしい。幾体かは明らかに儀式的に配置されており、また別の幾体かは、暴力的な外傷を受けた状態で折り重なっている。そして、最も不気味なのは、幾つかの頭蓋骨に、三本の指で握られたような圧迫痕らしき変形が認められたことだ。
この場所は、単なる祭祀場ではなかった。これは古代の戦場か、あるいは惨劇の跡地なのだ。
「…ここは、『神』と人間の境界じゃったんじゃ」
弥太郎が、重苦しい空気を破って呟いた。彼は無言で、壁面の一角を指さした。そこには、他の壁画とは少し様式の異なる、江戸期らしき服装の人物が、恐怖の表情で這いずるようにして洞窟から逃げ出す図が描かれていた。そして、その人物の背後には、青く光る無数の手が伸びている。
「わしの先祖が、この場所で見たものじゃ…」弥太郎の声には、これまでにない感情の襞が宿っていた。「だから、家では決して、この穴の奥に深入りするなと…『青き石』に貪りつかれるなと…言い伝えられてきたんじゃ」
全てが繋がった。吉村の手紙、晴介爺さんの警告、弥太郎の頑なな態度――。全ては、この地底に実在する、理解を超えた「何か」を指し示していた。
その瞬間、我々が来た道の方向から、銃声らしき鈍い音が一発、反響して聞こえてきた。続いて、叫び声と、何かが水に落ちる音。追跡してきた者たちか? 彼らもまた、あの湖の怪物か、あるいはそれ以上の「何か」に襲われたのだろうか。
「…奴らも、とうとう代償を払うたか」
弥太郎は冷酷なほど静かに言った。
我々は、最早進むしかなかった。この祭祀場の先に、さらに深部へと続く道が続いている。それは、古代の人々が「神」と呼び、畏怖したものの、真の住処へと通じているに違いない。
余はスケッチを終えたノートをしっかりと閉じ、コートの内ポケットにしまい込んだ。 我々は、歴史の闇に葬られるはずだった、恐るべき真実の扉を、今まさに開けようとしている。




