新しいシリーズです。中濱万次を始めめました。
放談第15話:~帰ってきた万次郎(その5)~
目次
⋆⋆⋆⋆⋆長崎奉行所の万次郎(Sirのレポート) ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆少ない長崎奉行所の記録⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆書籍を長崎で没収された ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆「アドベンチャー号」のその後 ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆土佐藩からの物々しい迎え ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆厳重警護のなか万次郎たち土佐へ ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆吉田東洋による取調べ ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆万次郎母と再会 ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆涙、涙、涙 の再会⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆伝蔵、五右衛門のその後 ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆万次郎武士になる ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆小龍「漂巽紀略」を書く ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆ペリー艦隊来航まであと半年 ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆万次郎シリーズのおしまい ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆次は咸臨丸シリーズでお会いします ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆(注) ⋆⋆⋆⋆⋆
⋆⋆⋆⋆⋆ 筆者後書き ⋆⋆⋆⋆⋆
放談第15話:~帰ってきた万次郎(その5)~
~日本のジョン万次郎~
放談者: Sir*** :AI ChatGPT
MrO**:大畑 直晴 昭和20年生 80歳 宮城県在住
今回は第15話は 先回の続きで最終回だね。
Sir***万次郎は薩摩藩の取り調べが終わり、いよいよ幕府直轄の長崎奉行所長崎に行くことになった。
MrO**島津斉彬公は心配の余り万次郎に、“必ずやお国のために役立つ人材であるがゆえに決して粗末に取り扱われぬように”の「送り状」を持たせ弁護紙を伴って長崎奉行所へ送ったね。
Sir***どうなるか、心配半分、期待半分といったところだ。
⋆⋆⋆⋆⋆長崎奉行所の万次郎(Sirのレポート) ⋆⋆⋆⋆⋆
Sir***わしのレポートの番だね。肩が凝りそうだ。
MrO**長崎でも取り調べは続くんですか。
Sir***幕命だからどうすることもできず、仕方がなかったね。これまでの事情聴取や取り調べよりは、はるかに厳しいものだった。どんな理由であれ外国に行ったこと、外国から入国したことが咎められ。
MrO**万次郎はキリシタンを疑われキリシタンでないことを証明するために踏み絵をさせられた。聖書は持ってこなかった。こんなこともあろうかとホイットフィールド船長宅置いて来たんだ。先見の明があったね。
MrO**アメリカのスパイやら、キリシタンやらの嫌疑で万次郎もあきれ顔でしょう。
⋆⋆⋆⋆⋆少ない長崎奉行所の記録⋆⋆⋆⋆⋆
Sir***何があったのかは分からないが長崎奉行所の取り調べの記録は意外に少ないんだ。ほとんどないと言ってもよいくらいだね。斉彬公の送り状が功を奏したのか。それとも、・・・・・・。
MrO**記録はあったが、のちに万次郎が幕府にとって欠かせない人物になったことから、取り調べの不手際の発覚を恐れて処分したとか。推測だがね。
Sir***ともあれ、長期にわたる取り調べでようやく無罪放免になった。実に9か月ぶりの自由の身となった。長崎奉行の牧志摩守は江戸幕府老中首座の阿部正弘(注8)福山藩主伊勢守に次の様に報告している。
「伝蔵、五右衛門、万次郎を取り調べたが、宗教などの疑義、法制上の禁止書類などは、一切なかった。万次郎が儀、利発にして覇気あり、お国のために役立つ人材なり」と、島津斉彬公の送り状をそのままの文面だった
MrO**長崎奉行牧志摩守が3人を取り調べた結果を幕府に報告するのに、島津斉彬の「送り状」をそのまま付記するなんて芸がなさすぎると思いませんか。
Sir***薩摩藩主斉彬公の知遇と長崎奉行の牧志摩守の冷遇は対照的だった。万次郎は牧志摩守には手に負えなかったに違いない。
MrO**ところで漂流を経験した万次郎にとって取り調べは物の数ではなかったが地団太踏んで残念がったことがありますね。
⋆⋆⋆⋆⋆書籍を長崎で没収された ⋆⋆⋆⋆⋆
Sir***持ち帰った書籍を長崎で没収されたことだね。無罪放免になっても書籍を没収されたのでは、何のための無罪放免かが分からない。
MrO**まったくその通りですね。万次郎の落胆が目に見えるようです。諸嫌疑が晴れたのだから書籍も返してくれてよさそうなものですがね。
Sir***その通りだが、役人は書物の内容を理解をできなかったと思うね。西洋かぶれの思想書ではないことが分かるまでかなりの期間没収されたままだった。
MrO**結局どうなりました。
Sir***書籍類は土佐藩へ引き渡したものと、長崎奉行所で保管したものがあった。後に江戸幕府の代官であり兵術家の江川太郎左衛門が長崎から取り寄せて万次郎に翻訳させている。この間1年以上かかった。
⋆⋆⋆⋆⋆「アドベンチャー号」のその後 ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO** 万次郎を乗せてきた「アドベンチャー号」、その後どうなったんでしょう。土佐に引き渡されたわけでもないようですが。
Sir*** それがね、残念ながら長崎に着いたあとの消息は杳として知れないのさ。記録にもほとんど現れない。可能性としては──(1)分解して技術調査に供した、(2)焼却処分された(3)希望する部署への払下げた──などが考えられるけど、どれも憶測の域を出ないね。
MrO** 消息不明というのも、なんだか象徴的ですね。長崎奉行所が沸きすぎた噂話の鎮静化を図って、ひっそり処分したのかもしれない。可能性(1)・(2)・(3)では、口の軽い幕末っ子たちの噂話のネタになってしまう。奉行所も扱いに困って、ついに匙を投げて──「ボートなどなかったこと」にしたかのも。
Sir***これは長崎奉行所の取り調べの記録がないのと対をなしているようだが、後年の歴史家に期待したいね。
MrO** 体裁を取り繕って、頬被り。見なかったことにして、闇に葬ったわけ?。騒がず、騒がせず、奉行所らしい処置という気もしますね。
Sir***これも今となっては“藪の中”だね。
⋆⋆⋆⋆⋆土佐藩からの物々しい迎え ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**無罪放免の万次郎に土佐からの迎えはあったのでしょうか
Sir***土佐への帰還は土佐藩が迎えの一行を派遣している。大目付吉田東洋(注9)をはじめ、藩士堀部大四郎以下13名、医師2名、顔確認役として宇佐の名主1名、計16名の派遣団だった。
MrO**ずいぶん物々しい派遣団ですね。もとを正せば3人とも一介の漁民ではないですか。
Sir***手厚すぎるとでも思うのかね。わしはそうは思わんよ。この頃は既に日本全国に万次郎たちの噂は知れ渡っている。外国の事情をや科学の知識を知りたがっている藩は幾らでもいた。手薄な警護で他藩にでも万次郎たちを盗られたら取り返しのつかないことになる。
MrO**これは当時の雰囲気ですか。油断も隙もないですね。
Sir***佐賀藩の藩主鍋島直正(閑叟)(注10)公は研究機関を創設し、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関などで島津斉彬公と科学技術の覇を競っていたから、アメリカ帰りの万次郎を喉から手が出るほど欲しがっていた違いない。
⋆⋆⋆⋆⋆厳重警護のなか万次郎たち土佐へ ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**すると土佐藩ではこれらの動きを十分知った上での警護対応でしたね。
Sir***加えて土佐藩としては、幕府が今後どんな情報統制をかけてくるか、読み切れなかった。万次郎を幕臣に”引き抜く”と言い出されては一大事だからね。だからこそ──いまのうちに“囲い込んでおけ”という判断だったのさ。
MrO**薩摩藩や佐賀藩が先進の科学技術を取り入れて軍備を整え、殖産興業に邁進するなか、土佐藩は次第に遅れを意識していた。
Sir***万次郎の囲い込みは、その遅れを挽回し、むしろ一歩先んじる“掉尾の一打”としようとした──そんな狙いがあったのでは?とでも言うのかね。
MrO**そうじゃぁありませんか。
Sir***ずばり、そうだと思うよ。薩摩と土佐の競い合いはすでに始まっていた。これを閑叟は苦々しく思い “わが藩にも漂流してアメリカに行く者はおらんのか”──そう言いたくてたまらなかったかもしれないね。
MrO**それって、冗談にですよね。
Sir***フフ~ン、冗談半分、本音半分といったところかな。いやいや、冗談4分、本音6分かも知れんぞ。
MrO**Sirその言葉口外無用ですよ。佐賀藩の者が聞けば漂流志願者続出ですよ。
Sir***藩主山内容堂公はすべて吉田東洋に任せてしまった。容堂は英明で進歩的な考えの人物として名高く、藩政の改革を進めていた。吉田東洋の起用もその一環さ。容堂はあいつなら間違いはあるまいと、白羽の矢を立てたのだろう。
⋆⋆⋆⋆⋆吉田東洋による取調べ ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**よく言えば東洋への信任、悪く言えば丸投げですよね。万次郎はここでも取り調べを受けるのですか。
Sir***土佐藩大目付吉田東洋による取調べは形だけで、万次郎たちを待ち受けていたのはむしろ賓客としての待遇だった。万次郎もう取り調べには辟易していたが根が真面目なだけに嫌な顔もせず万次郎は積極的に応じ持論を話していたな。
MrO**万次郎の苦言「西洋先進国は船が発達し、航路が開かれ、交易によって相互に繁栄しております。今や、航海術を覚え、諸外国との交易によって国を富ませていく時代なのです。現状のままではいずれは外国の植民地になってしまうでしょう」の叫びが聞こえるようです。
MrO**万次郎は斉彬との約束、「帰国の理由を質されても “母恋しさで帰国したの一念”を貫き通せ」の約束を破ったことになりますね。
Sir***奉行所の調べはすべて済んで、吉田東洋の事情聴収には、思いの丈を存分に話せると思ったのであろう。斉彬との約束はすべて果たせたとしてもよいのではないかね。
MrO**万次郎は弁舌も長けていたのでしょうからね。
Sir***それはよく分からない。日本に帰って2年余り、日本語を十分駆使できるとまではいかないだろう。英語の方が得意だった。
MrO**いろいろあったが、これですべてから解放されようやく、中の浜の母と会うことが可能となった。琉球上陸から数えること約2年が経っていた。
⋆⋆⋆⋆⋆万次郎母と再会 ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**私もホットしました。万次郎は飛んで母の元へ帰りましたね。
Sir***ところがまだ一足飛びとはいかないな。
MrO**そんなことないでしょう。自由の身になっていつでも中の浜に行けるじゃないですか。
Sir***伝蔵と五右衛門がいるのでまず3人で伝蔵と五右衛門の故郷土佐宇佐浦に行きそこで別れて万次郎は1人中の浜に向かった。土佐宇佐浦から中の浜までは西へ百キロほど離れていた。万次郎は百キロの山道を徒歩で中の浜に着いた。4日間歩きどうしだった。
MrO**私は百キロ歩けませんよ、無理です。
Sir***君の話じゃない、万次郎の話だ。中の浜に来て次に万次郎が選んだ行動は、はやる心をおさえて村の庄屋へ帰郷の挨拶だった。
MrO**なんとまあ、まどろっこしいじゃありませんか。杓子定規にも程がある。律儀を絵にかいたような男ですね。ここが万次郎の食えぬところだね。
Sir***おそらく万次郎はこの地に骨を埋める覚悟で帰ったと思うから村のルールに従ったのだろう。“郷に入っては郷に従え”というじゃないか。
MrO**庄屋は村の第一人者だからこれも仕方がないな。
Sir***でも庄屋も人の子だ、⺟の“汐”はじめ親戚、兄弟一同、それに大勢の村人たちが庄屋の家に集まって万次郎を待っていたのだよ。ここでようやく再会することができた。実に11年10カ月ぶりの母との再会だった。年は1852年11月。万次郎は25才になっていた。
⋆⋆⋆⋆⋆涙、涙、涙 の再会⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**それで万次郎の第一声は何と・・・。
Sir*** “中の浜漁師悦介の倅、万次郎ただいま帰りました” そう言って、深く庄屋に頭を下げた。
MrO**おやまあ、律儀だこと。庄屋は何と言いました。
Sir***「おう、よう帰ったのぅ──立派になって──」 次の声はなく、挨拶はそれ一言で詰まってしまった。傍らのおかみさんが助け舟を出した。
おかみさん**「さぁ万次郎さん、早く汐さんと会いなされ」
万次郎** “……母ちゃん、どうしてますか”
おかみさん**「達者ですよ、さっきからもう待ちくたびれていますよ、ふすま開けますネ」
―――奥の部屋に万次郎の母汐が正座していた。 時が止まり咳ひとつ聞こえぬ瞬間だった。そしてしじまが破れた。
“母ちゃん・・・・・万すけただいま帰りました” “ヌシャ万すけケェ、ほんとに万すけケェ。ワシャ信じられんヨゥ──、足はあるんケェ?” “ウンジャ、万すけジャキニ、ほら足もあるジャデ” “庄屋さま、本当に万すけケェ”
庄屋**「汐さん、あんたの大事な倅だよ」
“あの万すけが、こんなに大きゅうなって。立派になっチョッテ。コリャ夢ではネェケェネ、おかみさん、本物ですケェネ”
おかみさん**「万次郎さん、汐さんの手を握ってあげなさい」
“万すけ・・・・・ ” “母ちゃん会いたかった。達者で何よりだキニ・・・・・” 涙がボタボタ2人の手の甲を濡らした。 泣いても涙、笑っても涙だった。 それから兄の時蔵と言葉を交わした。
“兄ちゃん、万すけ帰りました。母ちゃんが世話になりチョッテすまんでキニ” 「万すけ、よう帰ってキチョッテ・・・・。よかキニ、よかキニ」
―――万次郎が妹の三人も嫁ぎ先からかえって同席していることに気づき
“せき、しん、梅も達者そうじゃキニ、旦那おるケェネ” 「旦那も子もおるキニ」「兄ちゃん、兄ちゃんも達者でよかキニ、よかキニ」「姑母ちゃんがイッテキチョレと言ったのでキチョッタキニ」
―――気が付くと村の人たちも大勢集まってこの情景を固唾をのんで見守っていた。誰からともなく、万歳三唱の声が起きていた。
MrO**それから庄屋が万次郎たちに祝い膳を振る舞った。ようやく肩を崩しての無礼講となった。宴が引けたのは夕暮れになってからだった。
Sir***万次郎の時計が止まった瞬間だったがしかしこれは短い幕あいに過ぎなかったのだよ。万次郎の時計が再び時を刻もうとしていた。
MrO**万次郎の母汐は何才だったのだろう。
Sir***推定するしかないが、万次郎には兄がいる。汐が父悦介のところへ嫁に来たのが仮に15才とすると兄が一人いたので、汐は20才の頃に万次郎を生んだと見れる。すると汐は45才前後かなとも思えるがね。
MrO**その頃の45才はもう老境でしょうか。
Sir***老境ではないにしても初老ではあったろうね。
MrO**この時代百姓は働きづめの生活だった。老けるのも早かったからね。
Sir***後年汐が語ったと伝えられるのは万次郎の死を一瞬たりとも疑ったことはなかったという。「あの子はどこぞで必ず生きチョル。知恵ある子じゃキニ」が口癖だったという。ちなみに汐は87才で天寿を全うした。長命だった。
⋆⋆⋆⋆⋆伝蔵、五右衛門のその後 ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**のちに万次郎が江戸に出て暮らしが安定して母汐を江戸に呼ぼうとしたのだが、母は没するまで終生地元を離れることはなかった、といいますね。一緒にかえった伝蔵、五右衛門はどうしました。
Sir***伝蔵、五右衛門は故郷の土佐宇佐浦に帰ったが2人の家はすでになく従兄弟の家に身を寄せたという。これで伝蔵、五右衛門の漂流譚は全幕が終わった。のち歴史に顔を出すことはなかった。
MrO**万次郎にしてみれば少し寂しいですね。同じ漂流の経験者だから、万次郎と共になる相棒が欲しかったのではないでしょうか。
Sir***そうかもねぇ。
MrO**Sirここで一句出来ました。
10年の流れは止め得れど とどめ難きは涙なりけり O
⋆⋆⋆⋆⋆万次郎武士になる ⋆⋆⋆⋆⋆
Sir***3日後城から3人に新しい沙汰が出た。
MrO**それは何?
Sir***漁師から1人扶持定小者の武士に登用するという。最下級の武士ながら登城が許される身分だった。吉田東洋はお抱えの絵師に命じて河田小龍(注11)のもとに万次郎を預け体験、見聞を記録にとどめるよう命じている。
MrO**万次郎たちは英語が得意だが微妙なニュアンスの日本語は難しかったのではないですか。
Sir***そのとおり。うまくゆかずオランダ語の知識がある画家河田小龍がその任に着いた。小龍が万次郎に日本語の読み書きを教えつつ、小龍は英語を万次郎から学んだ。
⋆⋆⋆⋆⋆小龍「漂巽紀略」を書く ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**小龍は、万次郎から聞き取った話をそのままにして置くのが惜しく、地図、風物などの挿絵を加えて全5巻を書き上げた。
Sir***この本は「漂巽紀略」(注12)と題され、意味は巽(東南)の方向に漂流した紀行文という意味だがの万次郎がアメリカでの体験が逐一記録されている見事な挿絵入りの貴重な見聞録でもある。
MrO**万次郎体験の総集編とでもいうべきで本ですね。
Sir***小龍は、万次郎が語る異国の話しに驚愕し、この国の将来を不安を覚えたといわれている。
MrO**そりゃあ、最先進の国と比べたら、心ある人日本人なら誰もが不安を覚えますよ。
Sir***この本は幾代目かの写本がアメリカ・スミソニアン博物館に蔵書されているという話だ。
⋆⋆⋆⋆⋆ペリー艦隊来航まであと半年 ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**アメリカ東インド会社ペリー艦隊来航まであと半年になった。さあ、
日本、どうする。
Sir***何もせず、右往左往して先進国の餌食になるか、機略、知略の限りを尽くして先進国に立ち向かうか。危機は目前だ。
MrO**しかし、まだ日本は眠りから覚めていないですよね。日本が上を下への大騒ぎになる日が来るというのに。
Sir***君はこの時期日本に覚醒者はいたと思うかね。わしは誰もおらんと思っているが。
MrO**万次郎は覚醒者ではありませんか?
Sir***あれは地雷屋だ、日本に爆弾を仕掛けに来た男だ。と見られている。
⋆⋆⋆⋆⋆万次郎シリーズのおしまい ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**Sirこの辺でお開きにしましょう。今回で~帰ってきた万次郎~まだ続きますが、区切りを入れ終了としたいのですが、Sir、振り返ってどうですか。
Sir***そうかね、わしはこの話に乗っとるがね。おしまいかね。わしも泣いたり笑ったり忙しかったヨ。少し残念のような気もするが、ペリー艦隊来航までがひとつの区切りかも知れんな。
Sir***もっと万次郎の活躍の場欲しい。ペリーが来れば万次郎に誂えの舞台かと思ったが。
MrO**依然としてアメリカのスパイ、いずれアメリカに引き戻されるの懸念が払拭されなかったのですね。
Sir***江戸幕府内ではそんな懸念は持っていなかったようだが
Sir***とくに水戸公徳川斉昭がこの懸念の元締めだった。
MrO**斉昭公は徳川御三家の一藩なので老中も軽々扱うわけにはいかなかったらしい。
Sir***歴史は皮肉だね。幕府の思い通りにはいかなかった。
MrO**万次郎の出る舞台はまだまだありますよ。
Sir***乞うご期待だね。
⋆⋆⋆⋆⋆次は咸臨丸シリーズでお会いします ⋆⋆⋆⋆⋆
MrO**Sir今回は高知名産の生姜湯をお淹れしました。私も相伴にあずかります。
Sir***次回予定はあるのかね。今回で万次郎シリーズ終わりかね。
MrO**そうですでね。~帰って来た万次郎シリーズ~は完結して姉妹編の咸臨丸をテーマにしようかと思っていますが。
MrO**アッツ!今一句出来ました。披露していいですか
Sir***インスピレーションかね、聞こうじゃないかね、どんな句かね。
MrO**ペリー来航はもう目前ですよ。
風前の 塵に同じの 日本かな O
Sir***何処かで聞いたことがあるような句だな
MrO**ばれたかな。平家物語の冒頭にあるフレーズを貰いました。
簡単な年表作りましたのて載せておきますね。
⋆⋆⋆⋆⋆万次郎の年譜(後編) ⋆⋆⋆⋆⋆
* 1851年(24才)2月:
・琉球の東南端現在の糸満市大度浜に上陸。
・琉球出発
* 〃 8月:
・薩摩藩着
・薩摩藩出発
* 〃 9月:
・長崎着
*1852年(25歳) 6月:
・3人無罪放免
・長崎出発
* 〃 8月:
・土佐へ帰国
・11年10カ月ぶりに母と再会。
・藩校「教授館」の教授。
*1852年(25才) :
・幕府に招聘され江戸へ。直参旗本に。
・中浜の姓を授かり、中浜万次郎と名乗る。
・ペリーが浦賀に来航
*1854年(27才) :
・団野源之進の二女・鉄と結婚
・ペリーが神奈川沖に再び来航
・日米和親条約締結
*1860年(33才) :
・咸臨丸でアメリカに出航
―――万次郎は1870年普仏戦争視察団として万次郎は大山巌らと共に欧州へ派遣されサンフランシスコ着いた。この際鉄道を利用してフェアヘーブンにより、アメリカで恩人のホイットフィールド船長と永年の念願の再会を果たしている。万次郎43才、ホイットフィールド船長76才、1849年に別れて以来21年ぶりの再会だった。
⋆⋆⋆⋆⋆(注) ⋆⋆⋆⋆⋆
(注8)阿部正弘:1819年12月3日-1857年8月6日 江戸時代末期の備後国福山藩の第7代藩主。江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。阿部宗家第11代当主。
(注9)吉田東洋:1816年-1862年5月6日 江戸時代後期(幕末)の土佐藩士・参政。諱は正秋。東洋は号。戦国期の吉田氏は長宗我部元親に仕えた。吉田正義は英才有能であったため山内一豊の入国後、一豊から三顧の礼をもって仕官を勧められ、土佐藩上士として迎え入れられた。
(注10)藩主鍋島直正(閑叟):1815年1月16日- 1871年3月8日江戸時代末期の大名、明治初期の日本の政治家、幕末の肥前佐賀藩10代藩主で、維新後に軍防事務局輔、開拓長官、大納言などを歴任
(注11)河田小龍:1824年12月15日-1898年12月19日日本画家、思想家。1844年吉田東洋に従い京に遊学、京狩野家九代目の狩野永岳に師事し (注12)「漂巽紀略」:1852年、河田小龍は、吉田東洋の命により、米国から高知に帰国した筆之丞、五右衛門、万次郎の取り調べにあたった。
万次郎の知識に興味を惹かれた小龍は、藩の許可を得て、万次郎を自宅に寄宿させ、生活を共にしながら、記述したのが漂巽紀略である。
小龍は、万次郎から聞き取った知識をそのままにしておかず、地図、風物などの挿絵を加えて「漂巽紀略」5巻を書き上げた。
参考文献:フリー百科事典『ウィキペディア』
:『ジョン万次郎の羅針盤』中濱武彦 ㈱冨山房インターナショナル
2020年
:『私のジョン万次郎』中浜 博 小学館 1991年
:他
⋆⋆⋆⋆⋆ 筆者後書き ⋆⋆⋆⋆⋆
万次郎は帰国後時代を動かす十分な力を持っていましたが、持てる力を発揮できずに時代に埋もれてしまった。アメリカの文化、制度を縷々説明するだけで、その先を相手に委ねたようです。筆者としてはもう少し政治性があればという場面が幾つかありました。
水戸藩主徳川斉昭は時代に刺さった棘でしたが、万次郎と論戦させれば斉昭もかなわなかったろうし開国に勢いがついたかもしれません。もっと肝太に『日本はこうすべきだ』と強引に押し切る一押しが欲しかった。どちらかというと学者タイプで「天は二物を与えず」の言葉通りになりました。
それでも万次郎が日本に新しい窓を開いた功績は、決して小さくありません。次回の「咸臨丸シリーズ」で万次郎の活躍に期待しましょう。
放談第15話: ~帰ってきた万次郎(その5・最終回)~
*日本のジョン万次郎*
R7.7.31 了
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