2章の6
クロイツェル・バレット第2章、最終回をお届けします。今回は超大盛り8500字ぐらいの投稿です。お待ちいただいた皆さん、たっぷりお読みください。
ほんの数時間前にピエトロ枢機卿と話題にした、正体不明の獣人、ファントム。
その本人がレスター・フォークスと名乗る目の前の光景が、クラリスにはどうにも現実感のない白昼夢のように思えて仕方がなかった。
たとえるなら、地球に隕石が落ちる話をしたら本当に落ちてきたような、予想外としか言えないショックで揺れた彼女の心は、この件の報告書の書き出しには ” 伝説のファントム氏はまずわれわれにコーヒーをおごった ” という一文がふさわしいだろうと、なんの脈絡もないことを考えた。
レスターのアッシュブロンドの髪や、常人と変わらぬ青い瞳を凝視したままのバーナビーも、口を半開きにしたまま、ラザロが生き返ったのを見た奴らもきっと、今の俺と同じような顔をしてただろうなと、ぼんやり思った。
──聖書を引き合いに出すのがバチ当たりなら、エルビスとジム・モリソンが並んで歩いてるのを見ちまった感じ。そうだ、それがいちばんぴったりくる。
うわさに聞く伝説の獣人がふいに現れたという言いようのない驚きに打たれたバーナビーの口から、本人も意識しないうちに、率直な疑問が吐き出された。
「信じられん。あんた……いったい、いつから生きてる? 俺とそう変わらん歳にしか見えんが」
「私は一六七五年の生まれだ。獣人となった時点で人間としての成長は止まるから、年齢というのは無意味だがな」
「人間なら三百三十五歳か? ケーキにロウソクを刺すのが大変だな」
「そうでもない。大きいのが三本、小さいのが三十五本あれば間に合うよ」
これを聞いたバーナビーはニヤッと笑うと、握りしめすぎて生暖かくなったフォークを、テーブルの上に置いた。
「わかったよ、ミスター・フォークス。あんたは獣人だが、シャレの分かる獣人だ。ドンパチしに来たんじゃないなら、なんの用で来たか話してくれるか?」
「なにを言うのバーニー? そんなのダメよ! こいつは獣の軍団の手先かもしれないのに!」
バーナビーの手が、抗議するクラリスの手を握った。
「落ち着いて考えろクラリス。こいつがリューポルドの手先なら、俺たちはもう十回は死んでるよ。いまは奴の話を聞け」
「その通り。" 私の言う通り全てやらぬと、とんでもないことがまた起きるぞ ” 」
《オペラ座の怪人》のセリフを、暗く歌うような節を付けて言ったレスターが笑った。
「さて、私は名を明かした。そして君たちは、私がヴァチカンの敵でないと知っているはずだ」
「敵じゃないけど味方でもないって事も知ってるわ。わたしもひとつ聞いていい?」
" なんなりと " のジェスチャーをするレスターに強烈な皮肉を吐いてやりたい衝動を抑えつけ、クラリスは言った。
「あなたは、ひとりでリューポルドを追っているの? それとも、わたしたちゲヘナ以外の組織に属している?」
「後者だ。私はある組織の一員で、その組織は君たちゲヘナと同じ、キリスト教に関係している」
バーナビーの頭の中で、一つの考えが点から線につながりかけた。レスターの話す古くさい英国英語。キリスト教との関係…………
「レスター。あんたは、まさか…… ” コミュニオン ” か?」
イスから腰を浮かしかけるバーナビーを、レスターは手で制した。
「君はなかなか察しがいい。そう。私はイングランド国教会に属するものだ」
「プロテスタント派も……リューポルドを追っているですって……? そんなの」
「初耳かね、シスター? 子飼いのエクソシストたちにさえ知らせんとは、教皇はよほどこの事件を自分たちだけで処理したいのだな」
クラリスは黙っていた。バーナビーの軽口も、今は黙るべきと思ったのか、同じく沈黙していた。
「リューポルドはもともとそちらの人間だ。身内の悪事は隠したいのはわかるが、不都合な事実を認めず、国教会の共闘の申し出を黙殺し続けたヴァチカンの態度は、地動説を握りつぶしたころと、何も変わっておらん。まあガリレオはようやく認められたらしいがね」
レスターの話はクラリスにとって、初めて聞くことばかりだった。確かに、獣の軍団に対して、他のキリスト教派が組織的に対抗しているという話は、いちども聞いたことがない。レスターはそれが、カトリック内部の裏切り者が獣人という災厄を生んだ汚点を、ヴァチカンが隠し続けたせいだと指摘しているのだ。
「我らが知るかぎり、大陸で増えた獣人どもがイングランドで暴れ始めたのは十七世紀の初めからだ。国教会はブリテン島の各地から、狼男の群れが村を襲ったとか、二本足の狼が子供を盗んだとか、想像もできん報告を山ほど受けていた。私が奴らにこの身体にされたのも、そのときだ」
これを聞いた二人の眉間にシワが寄った。ショックを受けつつも、彼女らがどうにか話についてきていると見てとったレスターは、歴史の教師のような口調で続けた。
「はじめは半信半疑でも、事件が五年も続けば、だれでもこれは現実だと認めるものだ。獣人どもが大陸からドーバーを越えてきたと仮定した国教会は、獣人の知識を得ようとローマに調査団を派遣した。イングランドでこれだけ事件が起きるなら、大陸はもっとひどい状況のはずで、ヴァチカンはそれを把握しているだろうと思ったからだ。だがヴァチカンは、どこの司教区でも狼男が出たなどとふざけた報告は受けていないと、獣人の存在すら認めなかった」
「確かにその時代なら、イングランド国教会を裏切り者の集団と思うものが、まだいただろうからな。いやな話だが、あんたははるばる、カトリック批判をしに来たんじゃないだろう?」
バーナビーが険しい顔で言い、レスターがいくぶん、きまり悪そうに答えた。
「謝罪しよう。断じてそんなつもりはないが、この話をすると冷静さが欠けてしまう。なにぶん私は獣人が起こした災厄の被害者なんでな。私がここに来た本題を言おう。私はゲヘナの現統括者、ピエトロ・カルーソー枢機卿との面会を要請する。私はイングランド国教会の名において、ヴァチカンへメッセージを伝えに来た」
「メッセージですって?」
「その内容は?」これを聞いた二人の問いがほぼ同時に返された。
「いまは語れん。私はピエトロ枢機卿、あるいは彼以上の高位聖職者にのみ話すことを許されている。もしこの要請を拒否した場合、私は何があろうと実力でヴァチカンに侵入する。今回は、今までのような黙殺は通じん。私がそうはさせん」
「こりゃえらいこった」
もう手に負えんというバーナビーの言葉を聞いたクラリスが眉をひそめた。
レスターの素性をかなりのところまで推測できたバーナビーは、獣人になっても信仰心を失わなかった者を取り込み、訓練して武装させ、対獣人の秘密兵器に使うというアイデアにあきれ返った。悪党は悪党に捕らえさせよ、か。俺みたいな普通の人間は知らなくていいことが、まだまだこの世にはあるらしい。それにしても、ひとつの目的のために四百年戦い続ける一族に生まれるのと、ひとつの目的のために三百年生きて戦い続けるのと、どちらが不幸なのか。
クラリスとレスターを見比べるバーナビーの心中は複雑だったが、いま確実に言えることは、せっかくの休暇は始まってわずか三時間あまりで、取り消しになったも同然と言うことだけだった。
「もう一つだけ教えて。ムッシュ・フォークス。獣人のあなたが、同じ獣人を狩るのはなぜ?」
「いかにも私はワーウルフ。この身体は君らからすれば人間ではない。だがな」
レスターの右手が、コートのポケットに消えた。
「ワーウルフの全てが、人の心と神への信仰を捨てた怪物ではないのだ。それに私には」
ふたたび現れた彼の手は、細い鉄の鎖を握っていた。その先でたよりなげに揺れる、いかにも誰かの手作りらしい、素朴で古びた木彫りの十字架を見つめたレスターが、底知れぬ怒りを秘めた声で静かに言った。
「獣どもに、あの男に復讐せねばならん理由がある」
「わかった。クラリス、ボスに直接、珍しいお客さんが会いたがってると伝えてくれるか?あと、シスター・ジゼルにも連絡しとくといい。ランチにこれだけ時間をかけたら、きっと心配してる」
「わかりました。バーニー、この人に気をつけてね」
チラリと警戒の視線を投げてテーブルを立ち、店の外に向かうクラリスを見送るレスターの心に、かつて人間と獣人の境界を超えて友情を分かち合い、共に戦ったフランベル家の戦士との、あまりにも巨大な悲劇で幕を閉じた、わずか数日間の遠い日の記憶が蘇った。
──見よ、わが友フレデリク。かつて君が担ったフランベルの掟は、あのような少女すら戦いに駆り立てる。君の一族がこの運命から逃れられる日が、一日も早からんことを。
すっかり冷めてしまった二杯目のエスプレッソを一口でほぼ飲みほし、バーナビーが言った。
「これは俺のカンだが、あんたはひょっとして、この戦いを終わらせるほどの、重要な情報を持ってきたんだと思うんだが、どうだ?当たりか?」
「いまに分かる。始まったものには、終わりがあるさだめだ」
「俺はもと軍人だ。良くも悪くも、重要な知らせを持ってる奴は、顔を見ればわかる。まあそれはいいとして」
「なんだね?」
「ここの勘定だがな。自分で食った分は自分で払えよ。あんたは三百年は貯金してるはずだから、ロスチャイルド家なみの金持ちだろうからな」
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ゲヘナ本部にクラリスから《ファントム》との遭遇の報告と、ファントムがピエトロ枢機卿との面会を希望しているとの報告が入ってから一時間半後。
クラリス、バーナビー、レスターの三人はローマ市内、カステル・サンタンジェロにいた。
このテヴェレ河に面した不完全な星形の城壁とすっきりとした円形のフォルムを持つ石造の建物は、もともとローマ皇帝ハドリアヌスの巨大な墓だったものを、ローマが滅んだのちにヨーロッパを実質的に支配したキリスト教徒たちが増改築し、歴代のローマ教皇の避難所兼要塞として近世まで使われていたことでも有名で、ヴァチカンからカステル・サンタンジェロへ通じる秘密のトンネルがあるという伝説がウソか真実か別にして、ゲヘナ内ではりっぱなジョークのタネにされている。
その正面入り口に立つ「一般観光客の立ち入り禁止:考古学調査のため」と書かれた看板のそばに、民間のガードマンの服装をしたゲヘナのエージェントたちが立っていたが、三人が入り口をくぐるとき、彼らはクラリスやバーナビーと目を合わせると、緊張した顔つきで小さくうなずいて見せたが、レスターの存在はあえて無視していた。
まあ、歓迎されるはずはなかろう。ここは銃口を向けられないだけ、良しとするべきだな。
さっきはああ言ったが、現代のヴァチカンに力ずくで侵入するのは、ただ闇夜にまぎれて城壁を越えればよかった昔よりも、ずっと骨が折れるはずだとレスターは思った。
なにしろ昔は、監視カメラだの赤外線センサーだの、ましてや動体感知器などという、しくみを理解するのもひと苦労な機械などなかった。まったく彼にとってテクノロジーというしろものは、今でも驚かされることばかりなのである。
前と後ろを武装した男たちに挟まれた三人が、うす暗く照らされた古びた階段を二階まで上ると、そこには金属探知器を持ったエージェントが四人いて、即席のチェックポイントが作られていた。男たちの一人がバーナビーに近付き、何かを小声で伝えた。
「レスター。悪いがボディチェックをしてもいいか?ピエトロ枢機卿は上の階にもう来てる」
「かまわん。やってくれ。だが、私の体に触れるのは君とシスター・クラリスの二人だけにしてもらいたい」
「わかった。じゃあそのヴィンテージもののコートを脱いでくれ。大事に預かる。できるか?クラリス」
「わかりました。やります」
四つの手と四本の金属探知器がレスターの体を徹底的に探った結果、彼が身につけているものは、木のロザリオと、封 蝋でしっかりと封をされた手紙が一通だけ、ということが分かって、エージェントの一人がもういちど無線機に客が安全だということを伝えた。
「サービスマンからカスタマー。” 荷物 ” はクリーン。繰り返す。荷物はクリーン」
《カスタマー了解。サービスマン、荷物を配達してくれ》
城内でいちばん広い間まで案内されたあと、レスターから離れた二人は、邪魔にならぬように広間のすみのほうに引き下がった。クラリスが見回すと、一人でピエトロ枢機卿の前に出ようとしているレスターに対して、部屋の中には二十人あまりの、完全武装したエージェントたちがいた。おそらくヴァチカンで待機中のチームの半分は、ここに来ているだろう。そしてたぶん、ジゼルも。
この成りゆきがどうなるか見たいのに、何かあったらクラリスをかばおうとする ” ジョークの騎士 ” がどうしても前に立とうとするので、彼女はバーナビーの体の横からヒョコヒョコと顔を出しながら、ほんの小声で文句を言った。
「ねえバーニー。そんなに前に立たれるとわたし、よく見えないの」
「あんまり前に出るな。何かあったらどうする」
「今さらそんなこと。レスターがその気ならわたしたちは十回死んでるんでしょ?」確かに言ったが、十一回目もあるかもしれんだろ、とバーナビーは思った。
レスターだけがただ一人、緋色の枢機卿服を着て立つピエトロの前に進み出ると、完全武装したゲヘナのエージェントたちが、銀 弾を装填したサブマシンガンの狙いを付けていく中でヒザを折って身をかがめ、高位聖職者への敬意を見せてひざまづいた。
「君がうわさのファントム。またの名をレスター・フォークスか。フルネームは何と言うのかね?」
「レスター・ネイサン・フォークスと申します。猊 下」
ネイサンという名はヘブライ語の「贈り物」を意味する言葉 ” ナタン ” をもとにしている。はるか昔に彼を名づけた両親がそそいだ愛情と、息子をさずけた神への感謝を感じとったピエトロの表情が、ニコリとゆるんだ。
「その名の通り、われらによき知らせを贈る者だといいがな。その名をまことの名と誓えるかね?」
「我が父、サザン・インヴァネス、フィアネスのエイブラハムの名にかけて。お目通りをいただき感謝の言葉もありませぬ」
「エイブラハムの息子ネイサン。私はそなたが、獣人でありながらなお、主の教えを敬う者であると聞いた。その証をここに」
「主よ、私をわが敵から助け出したまえ。私は避け所を得るためにあなたのもとに逃れました。主よ、御名のために私を生かし、あなたの義によって、私を悩みから救い出したまえ。また、あなたのいつくしみによってわが敵を断ち、わが仇をことごとく滅ぼしたまえ。私はあなたの僕なり。アーメン」
《詩篇》の中から三つの聖句を唱えたレスターに、ピエトロは言った。
「父と子と聖霊の名において、汝に神の祝福を。さて、イングランド国教会からのメッセージとはなにかね?」
「私の口からそれを述べる前に、これを受け取っていただきます。猊下」
レスターがピエトロに向かって、さっきのボディチェックの時にレスターが持っていたもう一つのもの、封印された手紙を差しだす場面を、クラリスは心臓を高鳴らせながら見守っていた。これから彼が何を語るのか予想もつかないが、重大な何かが起こる。これはゲヘナと獣の軍団がつづる闇の西洋史の、新しいページが開かれる瞬間なのだ。
無意識に、クラリスの手はバーナビーの服の袖をぎゅっとつかんだ。
落ち着きはらって手紙を受け取ったピエトロ枢機卿は、封蝋をパキンと割って、封筒の中から手紙を取り出して開くなり「おお、これは……」と驚きをもらした。
手紙には、イングランド国教会を代表する五人の高位聖職者たちのサインが記されていた。
用紙の中心にあるのは、他よりも大きく記されたカンタベリー大 主 教のサイン。その上下左右をヨーク大主教、ウェールズ大主教、アルマー大主教、ダブリン大主教、四人の大主教たち直筆のサインが囲んでいる。そのほか手紙には、つぎのラテン語の一文以外、何も書かれていなかった。
”Suus lacuna es totus verus”(彼の言葉はすべて真実)
「よくわかった。ヴァチカンは君の言葉すべてに信を置く。語ってくれるかね?」
「猊下。イングランド国教会は、ヴァチカンのみならず全キリスト教派の敵、獣人の王アロイス・リューポルドの居場所を探知いたしました」
部屋いっぱいに氷を詰めたように空気が凍りつくなか、衝撃を撃ちこまれた者たちのつぶやきや、小声での祈りが、ささやかに部屋を漂った。
「おお主よ、なんと…………ついに国教会は、リューポルドを発見したと言うのかね?」十字を切って恐れを払ったピエトロの声が、思わずうわずった。
「はい猊下。奴はいまアメリカ合衆国に潜伏しております」
「なんだと?あの人でなし野郎がよりによってアメリカにいるだと?」
小声で毒づくバーナビーの声が聞こえたクラリスが「ねえバーニー、落ち着いて」とささやきながら彼の手を握ると、その手は驚くほど冷たかった。バーナビーは怒っていた。しかも相当にひどく。自分の祖国にリューポルドが巣食い、悪事を企みながらのさばっているという事実は、祖国を愛し、一度は軍にまで入った彼にとってはこれ以上ないほど許せなかった。
場のざわめきが収まったころをぬって、レスターが告げた。
「猊下、もう一つご報告せねばならぬ事があります。リューポルドと獣人の一党は、もっか一つの巨大な計画を進めております」
「計画?それはどんなものかね?」
「詳細までは分かりません。ただ全体としては、獣人のみで軍を編成し、いち国家を制圧しうる軍事力を得ようとする企みと思われます」
「何たること……神よ、われわれは遅すぎたのでしょうか……」
「リューポルドの企みを放置することは、神の御名において許されざること。それゆえイングランド国教会はヴァチカンに協力するため、私をつかわしました」
「よかろう。われらのこの会話は、教皇聖下も聞いておられる。私は今こそプロテスタントとカトリック、ともにリューポルドを討ち滅ぼすときは来たれりと考えますが、いかがでしょう教皇聖下?」
『まず、ひとこと言わねばならんことがある。聞いているかね?ネイサン・フォークス』
部屋のどこかに置かれたスピーカーから、ロ-マ教皇の年老いた、いくぶん疲れのにじむ声で名指しされたレスターが、敬意のみなぎる声ではっきりと答えた。
「しかと拝聴しております、教皇聖下」
『わたしは歴代の教皇に代わり、国教会の兄弟たちへ謝罪する。恥を隠そうとするあまりに、同じ神のしもべたる国教会と手を結ぶことを良しとできなかったわれらの愚かさ、とうてい一言で償えるとは思わんが』
「カンタベリー大主教様より、こう言付かってございます。”すでに主はすべてをお許しであることでしょう”と」
歴史とプライドに翻弄されつづけた、獣人にまつわるカトリック四百年の苦悩をさらけ出す教皇の謝罪に、レスターは答えた。
『……感謝する。枢機卿ピエトロ、獣の軍団どもに対しては、炎のごとくもってせよ』
「御意に。神の兵たるゲヘナの諸君、すべての支部とエージェントに連絡せよ。われらは現刻をもって《ペイルホース計画》の発動準備に入る」
リューポルドの本拠地をつかんだ時のためだけに立てられた、獣の軍団に対する攻撃計画、《ペイルホース》は、一回の作戦にゲヘナの総力をすべて投入する、四百年続いた戦いの終わりを意味する計画だった。
だがクラリスは、計画が動き出したと聞いても、それがまだ現実のことと認識できなかった。きょう一日じゅう、戦ったり喜んだり驚いたりし続けて、神経がクタクタになっていたから、まわりの人間たちが急にざわつきはじめたことも、いつの間にか完全武装のジゼルが自分のそばに来ていたことも、妹の装備にナイフが一本増えていることも、すぐに気づかなかったほどだった。
「お姉ちゃん、大丈夫だった? どこもケガとかしてない?」
「大丈夫よ、心配させてごめんね、ジゼル」
「いいよ。でもお姉ちゃん、よくあのレスターって人の相手できたね。あの人とんでもなく強いよ。見ててゾクッとしちゃった」
「うん……バーニーが……守ってくれたから」
バーニー? 姉の変化を敏感に感じ取ったジゼルは、嬉しくて飛びあがりそうになった。ランチに出かける前はミスター・バーロウと呼んでいた相手を、今はバーニーと呼んでいる。何があったか知らないが、出かけているあいだに姉は、彼とちょっとは仲良くなれたらしい。
少し離れたところでレスターと話していたバーナビーが、再会を祝している姉妹のところへやってきて、クラリスに言った。
「レスターが、ヴァチカンに押し入るはめにならずに済んだから、礼を言っておいてほしいとさ」
「次からは彼も、玄関から入ってこれるでしょうね。それよりバーニー?」
「どうかしたのか?」
「わたし、絶対にあなたとポーカーだけはしませんからね」
「俺にポーカーで負けるとみんなそう言うんだ。不思議でたまらんよ。とにかく、そんなバチ当たりなゲームのことは忘れてヴァチカンに戻ろう。俺もさすがにくたびれた。そのへんでぶっ倒れたら、レスターに俺をかつぐように頼んでくれ」
それはクラリスも同じというのは、間もなく分かった。ヴァチカンに戻る車の中で、少し休もうと目を閉じた彼女はそのまま十三時間、眠りつづけた。
<第2章 終>
●ラザロ=死んで4日目にイエスが「出てきなさい」と一声かけたら、生き返って墓から出てきた聖書の登場人物。
●エルビスとジム・モリソン=死んだスター。どちらも、じつは今も生きていると信じている人たちがいる。
●イングランド国教会=「ヘルシング」でおなじみ「英国国教会」。プロテスタント最大勢力。
●ロスチャイルド家=ヨーロッパのすごい金持ち。
●猊下=位の高い聖職者への敬称。
●ペイルホース=黙示録の4人の騎士の一人が乗る「青ざめた馬」。死を象徴する。
●PV3,140アクセス ユニークアクセス1,309人に到達しました。日々、みなさまのご一読に感謝しております。
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