2章の4
●7月に引っ越しがありまして、更新を中断していました。お待ちいただいていた方々にはお知らせもせず、申し訳ありませんでした。
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テーブルの上に乗っているもので武器として使えそうなのはティラミスの皿に付いてきたフォーク一本。なんど確認しても同じだったし、いくら見つめていても、フォークはフォークのまま、剣に変わったりはするはずもない。
さすがに愛用のジェリコ二挺をぶら下げてローマ市中へ出ることはゲヘナの規則が許さないにしても、スカートの内側にナイフ一本でも忍ばせていたなら、ここまでの危機に瀕することはなかったと悟ったクラリスは、自分を心中で激しく罵った。
思えば自分は更衣室で私服に着替えながら、男性から誘われたランチを受けるのに武装して行くなんて失礼だと、少しでも考えなかったと言えるだろうか?
いや、自分はそう考えた。愚かにもそう考えたからこそ、わたしは脚にベルトで留める隠しナイフをロッカーにきちんとしまって、服を着て、いまここで行儀よくイスに座って、どうしようもない事態に陥っている。
主よ、お許しください。わたしは間違いを犯しました。つねに獣人に備えるべきが務めのわたしは今日、その務めを忘れました。
でも、今どれほど主に許しを請うたところで、M60マシンガンをかついだイエス・キリストが、ジョン・ランボーよろしく助けに現れるわけではなかったし、それはクラリス本人もわかっていた。主は自らを助ける者をこそ助ける。自分をこの窮地から救うにはけっきょく、自らの行動力と機知だけが頼りなのだ。
もしクラリスがひとりでいたのなら、彼女は今すぐ恐怖の叫びをあげながら、店から外へ飛び出していっただろう。なにごとかと集まってきた野次馬たちがいる中で標的を襲うのは難しいから、これはある意味正しい行動かもしれなかった。
もちろん、そうする有利も不利もすべて混ぜこんだ上でこれがベストな選択だと言えるなら、ホラー映画の登場人物を演じるぐらいなんの躊 躇いもないが、いまクラリスはバーナビーと共にいた。なんとかして彼にも危機を知らせ、協力して少しでも早くヴァチカンに戻るのが、ベストの中のベストだ。
それに、とクラリスは思った。バーニーが見てるのに、とつぜん発狂したみたいに叫び出すなんて、そんなのいや。
とはいえ、何も知らぬ顔でコーヒーをすすり、ザバイヨーネをつついているバーナビーにどうやって今の状況を伝えればいいか、策はすぐに思いつけない。
弱い電流をつねに流されているように神経がひりついて、混乱しかけているクラリスは思わず、彼のすねをキックしたい衝動を抑えるのに、自制心を総動員する必要があった。
まず考えよう。考えることで状況を把握して、冷静さを取り戻す。それだけが、するどい歯を持つ凶暴な齧歯類のような「恐 慌」と「焦 り」という二匹の精神の野獣を殺す方法だった。バーナビーと連絡する策を練るのはあとでもいい。
その当人の、モナコの海岸で海を眺めているようにくつろいだ姿を見ると神経を集中できないので、クラリスはあえて見ないようにしながら、もうひとくち、今度はさっきよりコーヒーの味がするカプチーノを飲みこむと、思考を旋回させはじめた。
全身の肌があわ立つような鋭い視線と濃厚な殺気も、同時に無視しようと念じながら。
まず、ここでわたしにプレッシャーをかけているのが獣人なのは間違いないけれど、奴らは何のためにローマに?
この期におよんで考えるのがそこからなんて、あまりに鈍重すぎるかしらとクラリスは思ったが、あえて、考えが考えのまま転がっていくのにまかせることにした。
そう。これは獣の軍団がゲヘナの本部ヴァチカンを壊滅させるために動いたのだと断言することもできる。それは、獣人どもがシスティナ礼拝堂の「最後の審判」を見物しに来るわけがないから。
だが、これは完全に襲撃なのだと断定するのを阻むいくつかの要素が今、クラリスの思考に違和感をもたらしていた。
その要素はおもに二つあった。ひとつは、ゲヘナ誕生から四百年、獣の軍団がヴァチカンを直接襲撃したことが──信じがたいことだが──まだ一度もないと言う事実だった。
奴らがなぜそうしないのか、もとよりその意図など知ったことではないが、一個大隊ほどの獣人に包囲されるヴァチカンの図は、ゲヘナの悪夢であり、それに対抗するヴァチカンの警備状態はいつも、満月の夜が最大戦力になるよう組まれている。
ゆうべの月齢は半月。南バイエルンの草原で見た月を思い出したクラリスは、こくりと首をかしげた。獣人の戦闘力は、半月の時期にだいたい五十パーセントとされている。リューポルドが獣人を何匹かき集めたのか知らないが、パフォーマンスが半分の状態でヴァチカンを襲う? わたしがリューポルドなら、待つ。月が満ちる満月まで。
クラリスが違和感を感じるもう一つの要素は、いまが昼間だと言うことだった。
獣人とゲヘナの戦いの歴史上、奴らが昼間に獣化して襲撃をかけてきたことはほんの数回、ぜんぶは二百年以上前に起こったことだ。
まるで液体のように濃密な夜の闇に乗じて嵐のように犠牲者を襲い、存在のすべてを見せることなく去ることで、伝説の怪物としての獣人は、迷信深い生存者から他者に伝わるときに過剰にバイアスをかけられ、ただその恐怖のイメージだけが倍増していく。
十八世紀までなら、人々に恐怖を植えつける戦術としてこれ以上のやり方はなく、夜はまさに獣人の友だったのだ。だが十九世紀から始まった産業革命、そこから始まる科学の発達が世界を、獣人にとってどんどん生きにくい場所にしていった。いまでは電気のおかげで夜も明るく、人々は携帯電話やデジタルカメラをつねに持ち歩き、宗教に縛られるゆえの無知というものも消滅した。
いま、昼下がりのここローマで、奴らが白昼堂々とヴァチカンを襲撃したら、世界中から詰めかけている観光客たちが、その光景を大喜びで画像や動画に収めるだろう。そうなれば、四世紀のあいだ人間たちから隠れて暗躍してきた獣人の存在はたった一日、いや、数時間でインターネットに乗ってあっけなく、安っぽいハリウッド映画のように世界中の人間に知れわたってしまうのだ。
そんなリスクをあの蛇のごとく狡猾、かつ誇り高いアロイス・リューポルドが犯すだろうか?
それは否だ。わたしが奴ならしない。
奴らはできることなら永遠に、世界から隠れていたい生き物、人間たちが、そんなものがいるとは思っていない世界の裏側に、いつまでもとどまっていたい連中なのだから。
ならどうして、獣人がヴァチカンのまわりにいるのか、その疑問は残る。いずれここを襲うために偵察でもしに来ているのか、わたし個人を狙っているのか。
理由が後者なら、クラリスはじゅうぶん心当たりがあった。ゆうべ彼女とジゼルが見のがしてやった一匹の獣人。あいつが何匹か仲間を連れて意趣返しにやってきたのかもしれない。わたしがここにいるのは偶然だけど、世の中に起きるいろんな偶然は、止められるものではない。
いまの状況をだいたい整理できたクラリスは、あとは、どうやってわたしたちが無事にヴァチカンに帰るかが問題だと思った。まずバーナビーに、いま二人がちょっとした危機にあることを知らせる必要があるが、聞き耳を立てているかもしれない獣人に悟られずに、どうやれば──
「──リス。おい、どうした? クラリス。大丈夫か? ボーっとして」
クラリスの目前で指をパチパチ鳴らしながら、バーナビーが言った。
「えっ? あっ。ごめんなさいバーニー。ちょっと考えごとをしていました」
「ゆうべから休みなしで動き回って、疲れたんだろう。休暇に入ったところをランチに付き合わせて、ちょっと悪い気もするな」
「いえ、そんなことは──」
と言いかけたクラリスを、バーナビーが遮る。
「おっとすまん、メールが来たらしい。悪いが見てもいいか? カプチーノ、飲みたかったらオーダーしてくれていいぞ」
これっぽっちも変化のないバーナビーの物腰の軽い態度に、クラリスは信じられないものを見る思いがした。ゲヘナはこの人をエージェントにしておいて大丈夫なの? いくら何でもこの気配に気づかないのは──
「さっき話したけど、俺の故郷の実家は牧場をやってる。そこにいる牝馬が仔馬を産んだとさ。親父がわざわざ画像を送ってきた。見てくれ。かわいいポニーだ」
そう言ったバーナビーはクラリスのいるテーブルの端に、開いたままのノキアの携帯電話をコトンと置いた。
ありふれたその端末を見た彼女の眉毛がこんどこそ、抑えようもなくピクンと動く。
わたしはこの男に騙されていた。これ以上ないほど完璧に。
クラリスはそう悟った。
*ザバイヨーネ:イタリア菓子。簡単に言うと、カスタードクリームとフルーツのあえもの。
*システィナ礼拝堂:バチカン市国の有名な建物。天井画「最後の審判」はミケランジェロ作。
●次回の更新は、終戦記念日前後に予定しています。