2章の2
クラリスとバーナビーをあとに残し、ヴァチカン内部のあちこちに設置されている隠しエレベーターのひとつに乗ったジゼルは、ヴァチカン市国の地下に作られたもう一つの機密フロアに向かっていた。
そこには、世界じゅうの主要なカトリック寺院に司祭や神父の身分で配置された、ゲヘナ情報部員からの情報が集まるオペレーション室と、ゲヘナのエージェントが使う武器やツールなどの戦 闘 装 具を研究、開発している《装備課》があり、ジゼルが向かっているのは後者だった。ここはときたま顔を出すとおもしろいものが見られるし、知り合いもいるので、彼女にとって思わずできたこのヒマな時間をつぶしに行くにはちょうどよかった。
自分では姉とバーナビーをさりげなくふたりきりにしてあげたと思っているジゼルは、あとから彼とどんな話をしたのかとか、バーナビーのエスコートはどうだったとか、いろいろ聞き出してやるのが楽しみで、エレベーター内で上機嫌だった。
こういう話に奥手なはずだから恥ずかしがって話さないかもしれないが、姉がふだん見せない表情を見れると思うだけで、三日間の休暇はじゅうぶん盛り上がれそうな気がするのだった。
そんないい気分でエレベーターを降り、地下フロアを行きかうスタッフたちに会釈やあいさつをしながら目的の場所までやってきたジゼルは「装備課主任 関係者以外立ち入り禁止」のプレートの上に、誰かのジョークなのか《このドアを入るもの すべての希望を捨てよ》と手書きのメモが貼ってある頑丈なドアをノックした。
「こんにちはレオナルドさん。おひさし…………」
ドアを開け部屋の中をひと目見たジゼルの声が、途切れた。
ファイルや書類、何かを書き散らしたメモなどがちらばって、床はほとんど見えないし、いくつかある作業用テーブルのひとつには無造作に拳銃とショットガンがほうり出され、その隣に中世の武器であるブロードソードとメイスが、意味ありげに置いてあったりする。
ほかのテーブルには銀合金の組成でも研究しているのか、炉で溶かした銀を鋳型に流し込むための道具、長方形の銀のインゴット、そのほか同じような形をした金属のかたまりがゴロゴロと置かれていたり、とにかくその部屋はすみずみまで、驚くほど乱雑に散らかっているのだった。
ジゼルもよく物を散らかして怒られるが、もしここが自分の部屋だったら、まずクラリスはいい笑顔でニッコリ笑い、次に火炎放射器をかついでくるだろう。
「わーお……すっごいカオス」
まるで室内でスペインの牛追い祭りでもやったかのようなありさまに感心したジゼルのつぶやきに反応したのか、部屋のどこからか、大儀そうな声が聞こえてきた。
「この声はもしかして……シスター・ジゼルか?」
「はい、ジゼルです。どこですかレオナルドさん?」
「待ってくれ。いま起きるよ」
作業机のかげから、派手なオレンジ色の寝袋に入ったままの身体がむっくり起き上がった。
部屋の中と同じく、ハデにとっちらかったクセの強い髪をボリボリかきながら、ゲヘナ装備課主任研究員、レオナルド・コンテがぼやいた。
「いかん、メガネが行方不明だ。いま何時か教えてくれないか」
「えっと、お昼十五分過ぎたぐらいです」
「しまった、寝過ぎた。打ち合わせをひとつすっぽかした気がするが……まぁいいか」
イタリアのミラノ工科大学を「わりといい成績で」出たあとさらにアメリカ、マサチューセッツ工科大学に進み、そこを「まあ上から数えたほうが早い成績で」卒業した、まさにエンジニアリングの申し子と言える男、レオナルドがゲヘナに加入した経緯は、少し風変わりなコースをたどっていた。
イタリア北部のクレモナに住んでいた彼の両親は、ある年のある日、アメリカの東海岸にいる息子からEメールを受け取った。
そこには、自分はまだ大学を卒業もしていないが、ジェネラル・ダイナミクス、プラット&ホイットニー、フェラーリ、フィリップス、トヨタなどから、卒業したらうちに就職しないかと誘いがきている。どの仕事も給料は充分すぎるほどくれるらしいが、困ったことは、どれも仕事として何だか退屈そうに思えてしかたがなく、ここからあえて選べと言うならNASAの仕事がいちばん面白そうだが、この仕事につくとイタリアにあまり帰れないかもしれず、両親はこれをどう思うかとたずねる内容が書いてあったのである。
メールを読んで喜んだレオナルドの両親はクレモナ大聖堂を訪れて、息子レオナルドに工学の才能を与えた主に感謝するとともに、大企業から引く手あまたの息子の将来は安泰だと、ある神父に喜びを語ったのだが、この神父が偶然にも、クレモナ司教区付きのゲヘナ情報部員だった。
コンテ夫妻が語った自慢の息子に興味を持った神父はレオナルドの経歴や大学での成績をざっと調べたうえで、ヴァチカンに報告を上げた。
その結果、クレモナ出身の天才的エンジニアは、その時代のテクノロジーを取り入れて装備を進化・強化させつつ獣人と戦うゲヘナの、現代戦装備の開発に必要な人材であると考えられたため、ピエトロ枢機卿は彼の名前を、リクルーターが優先的に接触するべき対象リストのトップに載せよと命じたのである。
そしてある日、とつぜんアメリカ東海岸の下宿に現れた身なりのいい男が、ローマ・ヴァチカンから来たと明かすと、レオナルドは仰天した。
「ヴァチカンが何のためにエンジニアを必要とするんです? サン・ピエトロ大聖堂の建て替えなら、俺は建築士じゃないから役に立ちゃしませんよ!」
これを聞いたからには、君は普通の生活に戻ることはできないと前置きし、レオナルドの好奇心をあおったリクルーターは、ゲヘナと獣の軍団、両者の四世紀にわたる闇の戦いが存在したことを明かし、カトリック教徒として、正義の側に立って協力してくれるよう依頼したのだった。
延々とコーヒーを飲みながら、明け方までかかったこの長い話を最後まで聞いたレオナルドは、リクルーターに言った。
「まるでマーベル・コミックスだ。とうてい信じられん話だけど、ふらちな言い方をさせてもらえば、NASAで働くよりも面白い……で、ヴァチカンに俺のタイムカードはもうあるんですか? ない? じゃあ作っといてください。ここを卒業した次の日にはヴァチカンに行きますよ」
こういう風変わりな流れでゲヘナに加わったレオナルドは、髪型にもヒゲにもまったく頓着せず、年中 ” シンプソンズ ” のTシャツを着て首からロザリオを下げているような男ではあったが、その才能は本物だった。
彼が開発した、ジゼルをはじめゲヘナのエージェントが着用する戦闘用タイトスーツは彼らの死傷率を低下させたし、彼が考案した高硬度の銀合金を使った銀 弾は、あくまで人間であるエージェントの対獣人戦闘力を大きく引きあげたのである。
そしていまジゼルは目の前のテーブルに置かれた、抜き身の刀身が鮮やかな銀色の光沢を放つコンバットナイフを見つめていた。
そばにあるナイフのケースに《試 作》と書いたポストイットが貼ってあったから、これもレオナルドが開発したものであるらしかった。はじめは、新しいオモチャを見つけたネコのようにじっと見ていたジゼルは、ついに誘惑に負けてこっそり手を伸ばし、注意深くグリップを握ると、そっとナイフを持ちあげた。
刃渡り二十センチくらいのそれは彼女の好みより少し重いが、これぐらいは慣れれば気にならないバランスだったし、初めて握るにしては、そのグリップは手によくなじむ気がした。
──この子、いい感じかも……ちょっとだけ試しちゃおうかな?
切っ先をまっすぐ構え、すぅっと深く息を吸ったジゼルは、右手から左手へまたその逆へ刀身をめまぐるしく持ち替えつつ、ピュピュンッと風切り音を立ててナイフアクションを始めた。
寝袋のそばの床にふっ飛んでいたメガネをようやく見つけたレオナルドは、尼僧服をきちんと着こんだ小さなシスターの両手の間を、ごついコンバットナイフがものすごい速さで往復している光景に驚いて、あわてて叫んだ。
「危ないからやめろ! それはなんでも切っちまうんだ!!」
その声でビクッとしたジゼルの手元がすこし狂ったひょうしに、ナイフの刃先が作業テーブルの角に当たったが、そのブレードは温めたバターナイフがバターを切るようにスチールの板にスルリと切り込み、キャリンッという金属質の音とともに、そこをあっさり切り落とした。
「わっ! なんですかこのナイフ? すごい切れ味」
金属どうしが接触したとは思えない手ごたえを感じて驚いているジゼルに、レオナルドが近寄ってきた。。
「そいつは炭化タンタルっていうレアメタルと、炭素繊維の複合材料でできてる。これは地上で二番目に硬い物質で、スチールなんかプディングみたいに切れるんだ。ドアを静かに斬って破るのにいいと思って作ったけど、コストがメチャクチャ高いしタッチアップも面倒くさいんで、試作のそれ一本でボツになった。やれやれ。ここはヤスリをかけとかないと、そのうち誰か指を切るな」
スパリと切れたテーブルのエッジに触れ、ヤスリを取ってこようと振り向いたレオナルドの前に、目を爛々と輝かせたジゼルがいた。
「レオナルドさん。このナイフ、あたしにいただけませんか?」
「いいよ。どのみちここにあっても仕方ないしな。エンピツ削るにゃもったいないナイフだ」
あっさり言ったレオナルドは、床を埋めている紙くずをかき回して、その下からヤスリを掘り出す。どうやら彼は、この部屋のどこに何があるのか、すべて覚えているらしかった。それならどれだけ散らかっていても、部屋の主にとっては整頓されているも同然である。
「神のものは神に。カエサルのものはカエサルに。ナイフ使いのものはナイフ使いに。銀コーティングもするか?ミクロン単位でやれば切れ味も落ちんぞ」
「ありがとうございます! あなたに主の恵みがありますように」
世界で二番目によく切れるスーパーナイフをもらったジゼルは、聖剣エクスカリバーを手に入れたような、最高の気分になった。
この新しい相棒に慣れるには、この休暇を使ってトレーニングすればじゅうぶんだろう。旅行はとりやめになるが、ロンドンは急に消えてなくなるわけでもない。
でも、あたしが急にトレーニングをするって言い出したら、お姉ちゃんがビックリすると思うけど、これも主の思し召しだからね。お姉ちゃん。
「ところで今日は一人で何の用だ? めずらしく、お姉ちゃんの姿が見えんじゃないか」
寝起きの糖分は脳にいい効果があると信じているレオナルドはシャツのポケットからチュッパチャップスをふたつ取り出し、ジゼルに一本放ってよこした。
「うん、あのねレオナルドさん。聞いて聞いて」
大好きないちごクリーム味のキャンディをなめながら姉がバーナビーとランチに行ったいきさつを話したジゼルに、ヤスリでテーブルをこする手を止めたレオナルドが笑いながら言った。
「ほう、いいんじゃないか? 狙撃チームのバーナビーとシスター・クラリスね。俺はけっこう似合いだと思うがな」
「レオナルドさんもそう思います?」
ジゼルが言うと、口からキャンディの棒を飛びださせた ” お菓子仲間 ” たちは、クラリスとバーナビーがランチをどう過ごしているか考えて、ますますニヤニヤッと笑いを深めるのだった。
●次回の更新は二週間後の予定です。
※↑上のように書きましたが、更新できずすいません。風邪をひいて寝ていました。お待ちいただいていた方、大変申しわけありませんでした。エアコンのかけすぎに注意しましょう。更新は六月末にさせていただきます。
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