1章の3
死者二人、重軽傷者八人を出したこの「 狼 の 夜 」に、人間たちがどうやって獣人を牢に押し込んだままにしておけたのかは想像するしかないが、アンドレ某と部下たちが、称賛するべき勇気と行動力を見せたことはまちがいない。
とにかくそれをやりとげた彼らが、腰が抜けそうな驚きと恐怖を感じながら見守る前で、ひと晩にわたって暴れまくった獣人は、太陽が昇るとともに元の人間の姿に戻っていくと、地下牢のすみで何もなかったかのように眠ってしまった。
自分たちは悪魔を捕らえてしまったのだと知ったアンドレ某はすぐさまブルゴーニュ唯一の大都市ディジョンにある、カトリック教会の異端審問所に密使を走らせ、このとてつもない大事件を伝える。
三人の密使になかば引きずられるように連れてこられ、はやくもその日の夕方にはこの領地に着いた二人の異端審問官は、全身をプレートメイルで覆い、完全武装したアンドレ某の出迎えを受けたあと案内された地下牢で、つぎつぎにヤギを喰い殺す獣人をその目で見てはじめて、青ざめた顔の密使たちが話したムチャクチャな内容がすべて本当だったことを知った。
とにかくこの獣人を取り調べにかかった異端審問官の一人は、あまりにも人間離れしたそのようすを、一冊の小さな手帳に詳細に書きのこしたので、ここからはその記録に頼ることができる。
彼らは獣人が人間の姿で寝ているときを狙い、水を吸い込ませたロープで体を何重にも縛りつけたが、変体したあとの獣人はまさに悪魔と呼べる筋力をもって、絹糸をちぎるようにロープを引きちぎった。
また、鍛冶職人にするどく研がせた剣と槍を使って、寝ている獣人を数人がかりで刺し、突いてみても、その傷はたちまち消えてしまった。
この悪魔をどうやって殺すべきか、そもそも殺すことができるのかさっぱりわからない審問官たちだったが、獣人がはじめて変体したのは半月の夜だったという話を聞いたものが、獣人は半月から満月の時期にかけて力を増していくのだと考えれば、それがいちばん劣るのは新月の時期ではないかという、ひとつの仮説を導きだした。
その仮説にのって一計を案じた審問官たちは、通常の人間なら死ぬほどの眠り薬を混ぜたハチミツ入りの甘いワインを造らせ、ちょうど新月の日の朝から、それが入ったツボを地下牢の中に入れさせた。
目ざめた獣人は、ツボから立ちのぼる甘い匂いに気づくと、さいしょは警戒してうなり声を出していたが、そのうちに手を突っ込んでワインを舐めはじめ、最後にはツボをつかんで半分飲み干したところで、床に倒れて眠り込んだ。
扉ののぞき穴からようすを見ていたアンドレ某の手下たちは、たっぷり三分は待ったあとで、もつれ合うようにして牢に飛び込み、妙に冷たく感じられる悪魔の素足をつかみ、神に助力を求める祈りをつぶやきながら、地上に向かって呪われた生き物の身体を引きずりはじめる。
彼らがめざす城の裏庭には、即席の断頭台として持ってこられた石のブロックが置かれていた。
その横にはアンドレ某、数人の手下たち、審問官たち、そこから少し離れたところに、手にした両手斧を光らせて、この領地で一、二を争う力持ちとされる、筋骨たくましい二人の木こりがいた。
彼らは断頭台を中央に、まるで群像画のように身動きもせず、裏庭に通じる扉を見つめていた。この扉が開くとき、世にも恐ろしいできごとが起こるのだと思うと言葉もなく、誰もただ無言で立ちつくすしかなかった。
不意に扉がはじけるようにバンッと開いて、青ざめた男たちがそこから飛びだしたつぎに、薬で眠り込んだ獣人の身体が、砂袋のように地面をズルズルと引きずられて現れた。
二人づつに分かれて化け物の足を掴み、ここまで運ばされた手下たちが恐怖に息を切らしつつ、四人がかりで獣人の首をブロックの上に乗せると、さわやかな初夏の陽光の下に、人でない何かの首筋がさらけ出された。
仕事を果たした男たちが断頭台から離れると、打ち合わせどおりに二人の木こりが進み出て、獣人の首をあいだにして立ち、青光りするほど研ぎあげた両手斧をゆっくり振り上げる。
斧刃が日光を反射するギラりとした光が、見守っていたひとりの審問官の目を射たとき、アンドレ某がひと言だけ言った。「や れ」
気合いを込めた叫びとともに全力で振り下ろされた斧刃が獣人の皮膚に食い込み、肉と腱を切断して、背骨も粉砕し、ガチンッと火花が散るほどの勢いで石に激突した。
切り落とされた獣人の頭部が、カッと目を見開いたままゴロゴロと地面を転がっていったつぎの瞬間、切り離された獣人の頭と胴体から硫黄のようにくさい煙が、モクモクと立ちのぼりはじめた。男たちが口々に救いを求めて叫び見つめるなかで、悪魔の死体はとつぜんぶきみな青緑色の炎をあげて燃えはじめたのだ。
恐怖に染まった群衆と異端審問官たちが祈りつづけるうちに、獣人の死体は乾いた赤土のような燃えカスを残して燃え尽きたが、そこに残ったものを見た人々はこんどこそ、走って逃げだす者さえ出るほどの恐ろしさに襲われた。
流れこむ血液も、つながった血管もないのに脈々と鼓動だけを打つ、ひとつの心臓。
このぶきみな臓器だけを残して、どこからやってきたかも、どこでどうやって生まれたのかもわからない獣人は、ようやく死んだ。
カトリック史上はじめて本物の悪魔を滅した異端審問官たちは、ローマへ送った手紙のなかで、この ” 悪魔の心臓 ” ほども忌まわしい物体は、フランスのいち地方都市であるディジョンではとても扱いきれないと訴え、これを主のおわすヴァチカンで永遠に封印するべきだと訴えた。
その要請に応えてディジョンを訪れたある枢機卿によって、心臓は鉛の箱に──箱は二度と開かぬようにつなぎ目を鋳つぶされた──入れられて、禁忌物リストの十三番に《ライカンスロープの心臓》という、そっけないが気味の悪い名を書き込まれてヴァチカンの地下深くに封印され、輝く赤い瞳の恐怖がおりなす、怪異の物語を経て世に残された《心臓》はこうして、いったん歴史の闇に置き去られることになる。
そしてこの物語は、本来なら審判のその日まで封じ置かれるべき《心臓》の眠りを覚ました第二のユダ、緋の背教者である男が現れ、ゲヘナが誕生する十六世紀へと舞台を移す。
西暦一五四九年、十一月。
ローマ教皇パウルス三世の逝去によるコンクラーヴェを迎えたヴァチカンは悲報に打ち沈み、喪に服していた。
そのわずか一ヶ月前、地中海をリスボンへ向かう途中で嵐に見舞われ、船もろとも海の藻屑となった検邪聖省長官、アロイス・リューポルド枢機卿の死。その衝撃が覚めぬうちに今度は神の代理人、ローマ教皇が昇天を迎えたのである。教皇パウルス三世はベッドの上で安らかに死を迎えたが、海原に消えたリューポルド枢機卿の遺体は、発見されなかった。世俗の世界で言えば死体も残らぬ不運な死であっても、カトリックの枢機卿ならそれは「殉難死」と呼ばれ、世に肉体の一片も残さずに昇天したのだと言う物語が作られる。けっきょく、彼が愛用していた聖書だけが入った棺を使って、葬儀はなされた。
それから三年。
旅人や村が狼男に襲われたという、世にも珍妙な報告がヨーロッパ各地の主要教会からすこしづつ舞い込みはじめたが、カトリック教会内部の腐敗が原因で起きたプロテスタントとの教派分裂で四苦八苦のさなか、マユツバものの話を真に受ける余裕のないヴァチカンは、この話をいっさい問題にしなかったどころか、信心深いが無知蒙昧きわまる民衆たちが、たかが野犬の群れに襲われたぐらいのことに巨大な尾ひれを付けているのだと決めこんでいた。宗教という水の染み込む大地である民衆の精神が愚かでなければ、信仰は芽生えない。そんな醒めた頭でこの一件を考えていたヴァチカンに間もなく、自分たちの考えが十四世紀と同じくまったく誤っていたことを、十四世紀の事件よりもはるかに巨大な、手に負えないレベルで思い知らされる時が来た。
まず、チューリンゲンに派遣された異端審問官たちの一行が、古くはゲルマンの地、現在のドイツに広がる黒い森の中で消息を絶った。
そのほか東欧やフランス王国、北イタリアでも、審問官がつぎつぎと行方不明になる事件が続く中で、ダルマティア地方に派遣された審問官と護衛の騎士を含めた五人のうち、ひとりの騎士が半死半生でローマに生還するという事態が起きた。
この瀕死の騎士がベッドで言い続けたうわごとが、もしや一連の失踪事件はプロテスタント派の者たちのしわざかと考えていたヴァチカン上層部の背骨に、冴えた恐怖と大きな困惑を深々と打ちこんだ。
「枢機卿は生きながら呪われた。リューポルド枢機卿の目は呪いで真っ赤に染まっている」
三年前に天に召されたはずのアロイス・リューポルド。その名がなぜ、この不吉な事件とともに現れたのか。
それが明らかになると、ヴァチカンの味わう恐怖はさらに深みと冷たさを増す。
その理由は、この騎士が文字どおり背負っていた。
自分は不老不死に魅せられ、自らの判断で神と信仰を捨て、闇にこの身を堕すると決めたこと。
そのために禁忌品の倉庫から《ライカンスロープの心臓》を盗みだし、死を装って姿を消したこと。
発見した自分でさえ震えの止まらぬ人外の秘儀によって、いまや自分は獣人を思うままに増やす技を得たという、三つの告白。
人狼の力は忌むべきものだが、これは真実の力であり、我はその力をもって世界を闇の側から支配するつもりだという、明らかな敵対宣言。
最後に、宗教とはせいぜい愚かな民衆に、どれだけ祈ったところで何の助けも与えず、腹の足しにもならない神などというまやかしを信じ込ませるための茶番にすぎないという、マルティン・ルターすらも考えなかった、キリスト教と教会の存在と必要性を完全に否定した、リューポルドの署名入りの、強烈な侮辱。
これらのおぞましい文言はすべて、生還した騎士の背中の皮膚を鋭い爪のようなものでえぐり、刻み込まれたものであり、その最後には、上下逆にされた十字の印までが刻まれていたのである。
この反逆の印をまのあたりにするに至り、信頼できる枢機卿たちをひそかに呼びあつめた教皇ユリウス三世は、こう宣言した。アロイス・リューポルドを破門に処すだけでなく、キリストにあだなす ” アンチ・キリスト ” と認定する、と。
アンチ・キリスト。それは全カトリック教会の総力をもって殲滅するべき標的。モーゼが紅海で残らず溺死させたエジプト軍のごとく、十字軍が血祭りに上げたイスラム教徒のごとく滅ぼすべき神の敵、と言う意味である。
そして教皇は言った。われらカトリックは、このおぞましい敵たちに対抗する、新たな十字軍を作らねばならぬ、と。
やがて全ヨーロッパ大陸から、優れた武術、揺るがぬ信仰、抜きん出た体力、たぐいまれな知力を備える騎士、神父、司教たちがひそかに召集され、叛逆の徒リューポルドと呪われた獣の軍団を殲滅するためのエクソシスト団が誕生する。
そこにはリューポルドからヴァチカンへ恐怖を伝える「手紙」としてその身に無惨な傷を負い、復讐に燃える騎士ジャン・ゴドフロワ・ド・フランベルの姿があった。
それからおよそ一世紀が過ぎたとき、それまで名もなき兵団だった彼らは、ときの教皇イノケンティウス十世によってその闘争にふさわしい名を与えられた。
リューポルドと《月に吠える夜の軍団》を滅ぼすまで決して解かれることのない、その栄光なき果てしない任務。
それを地獄で罪人を焼き続ける永遠の炎になぞらえ ” ゲヘナ ” と名付けられた彼ら。
その四百年にわたる、歴史に記されない戦争はいま、大きな転換点を迎えようとしていた。
<第1章 終>
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