5章の1
4月は連載一周年だったのですが、作成と推敲が間に合いませんでした。
新章スタートです。
第 5 章 牙 と 月 光 と
── アメリカ合衆国 ── カリフォルニア州太平洋岸 リューポルドの邸宅 ── 次の満月まで四日
事情を知らない第三者が見ればそれは、幼い息子を連れた夫婦が裕福な祖父の家で食事をしている、罪のない光景に見えるのかも知れなかった。
豪華で長大なテーブルの最上座に座り、黙考しながらナイフとフォークを使うひとりの老人。
そこから二つ三つ席を離して向かい合い、老人にならって粛々と素早く、音を立てずに手を動かす一組の男女。この三人からかなり離れた席を占め、目の前にある金の大皿から手づかみにした生の牛フィレ肉を、鼻からうなり声をもらしながら喰いちぎり、飲み込み続ける男児。見た目は十代前半のあどけなさを持ちながら、マナーも何もない蛮族のような少年のふるまいと、四人が一言も会話しない葬式のような沈黙が、この奇妙な食卓に一抹の毒のように強烈な違和感をもたらしている。
そんな、四人すべてを合わせれば千五百年に近い年齢を重ねた獣人たちの食事は、見た目だけは天使のように無垢な男児が、肉の脂とソースでべとつく手で最高級のワインをラッパ飲みするという野蛮さで締めくくられようとしていた。
「うひゃあ! 喰った喰った。ボクこんだけたくさん肉を喰ったの久しぶりだよホント。やっぱ戦争の前ってたまんないよねェ? いくら喰っても腹が減りやがってさァ」
汚れた口元をパーカーの袖口でぬぐい、発狂したような満面の笑顔で言うエドモンの下品さを、目元に嫌悪感をあらわにしたソーニャがたしなめた。
「枢機卿の前よ、エドモン。少しは言葉を慎みなさい」
「ェヒヒッ。なにお行儀のいいコト言っちゃってんのかなソーニャは。ここに来る前にシモンズにさんざんヤってもらったくせにさァ? 百五十年ぶりにご発情なさったご気分はいかがで、マドモアゼル?」
「──もう一回言ったら手足ちぎり取って海に放り込むよ、このクソガキ」
アイスブルーから瞬時にローズ・マダーに染まったソーニャの眼から、ふつうの人間ならそれだけで死ぬライフル弾のような殺気がほとばしったが、マルセイユあたりの荒くれ船員も逃げ出すほどの下品な口で笑ったエドモンは、それを軽く受け流した。
「ゥヘヒヒッ。この姉ちゃん、あいかわらずマジでエロ怖えったらありゃしねェ。ところでさぁシモンズ?」
「なんだ、エドモン」
「バチカンのクソ野郎どもの居場所さぁ、まだわかんねェの?」
くわえた葉巻に火をつけながらエドモンが投げた問いにたいして、シモンズは慎重に言葉を選んだ。
「手がかりはある。が、はっきりした場所はまだわからん。我々が探っているのはカトリックが三百年以上もひた隠しに隠してきたものだ。それが一週間ぐらいで見つかるなら、とうに見つけている」
彼にとっていまいちばん避けなければならないのは、自分を含めたリューポルドの側近の五人のうち、二人までもパリとモスクワから呼びつけたあげく、けっきょくゲヘナの巣は分かりませんでしたという結末だった。
そうなればソーニャはともかく、シモンズが知るすべての獣人の中でもっとも死と戦いに飢えた、この ” 恐るべき子供 ” エドモン・ヴォレの暴走を、自分が体を張ってでも止めることになるかもしれない。
下手をすれば、とシモンズは思った。
こいつはそこいらの大聖堂なりなんなりを、気軽に爆破しに行きかねん男だからな。
「まァだるっこしーねェ! もういっそのことどっかのデケぇ教会をドカンと吹っ飛ばしゃ、ワラワラ出てくんじゃねぇの? アイツら。手はじめにノートルダムなんてどうよ? パリでいっちばんキリスト臭えのよ、アレ」
シモンズの懸念を知ってか知らずか、さっそく彼なりの手っ取り早いプランを披露したエドモンが、天井に勢いよく煙を吐いた。
「ソーニャにも言ったが、それは計画の最終段階。いまは待つところだ」
「シモンズ。さっき言ってた手がかりって、なんなの?」
「ローマのアメリカ大使館に潜り込んでいる男からのものだ。細かいことは省くが、リューポルド様がアメリカにいると言う情報を手に入れたバチカンは、ゲヘナのハンターどもを送り込む前工作に、われわれに関する秘密文書を駐伊アメリカ大使に開示した。ラテン語で書かれた書類を英訳したこの男が探り出したのが ” ブドウ園 ” と言う単語だ。これはひとつの場所を指す暗号だと、この男は考えている」
「で、それがオレらに回ってきたっつゥ話か。しっかしとことん救いようのねぇケツ脳ぞろいだなバチカンってとこは。まだラテン語なんぞ使ってやがるのか」
「そういうことだ。私はこのいきさつと ” ブドウ園 ” という単語をリューポルド様にお伝えした。そしてリューポルド様はきのうから、ああして考え込んでおられる」
そこで三人の眼が、テーブルクロスにじっと視線を落としているリューポルドに向けられた。
なにかを思い出す行為というのは、うずたかく積み重なる紙の山から黄色く古びた一枚を探し出すのに似ている。
五百二十七年のあいだ溜まった中からたった一つの記憶を抜き出すことに挑んでいるリューポルドは、食事が終わっても三人の存在がまるで目に入らぬほど眉根を難しげに寄せ、手で隠れた唇から絶えず小さいつぶやきをもらしている。そのようすを見たソーニャは、なるほどと肩をすくめた。
「枢機卿はなにか心当たりがおありなの?」
「そうらしいが、それがなにかは、私もまだ教えていただいてはいないよ。とにかくいまのところ、他に使えそうな情報は──」
「心当たりを教えるもなにも、自分がなにを思い出そうとしとるのか、そこからもう忘れておるんだがね」
グラスに水を注ごうとしていたシモンズの手が、リューポルドのはっきりした声を聞いて止まった。
「枢機卿、あまり根を詰めずともよろしいのでは?」
さすがにまる一日半も考えをめぐらせ続けて疲れたらしく、いくぶん冴えない顔をした主人に声をかけたシモンズに向けて、リューポルドはノドのあたりに水平に手を当て、専制君主がその者の首を切れと命ずるような仕草をした。
「かもしれんが、何かがこのへんまで出てきておるのに思い出せんというのは、すっきりせんよ。しかし、古い何かをもう少しで思い出せそうなときと言うのは、このへんがムズムズしてかなわん。お前たちにもそういう時がないかね?」
こめかみを指でつついてイスの背にもたれるリューポルドの言葉に、エドモンが無邪気に笑って同意した。
「あるある! 昔のことを思い出すと、ボクもお脳がカユくなっちゃうもんねェ」
「 ” ブドウ園 ” 。この言葉がどうしてか、心に引っかかる。昔この単語についてなにか秘密めいたことを聞いたか、読んだことがあるような気がしてな」
「まあリューポルド様がその何かを思い出すまで、オレらはひねもすコイツをちびちび飲ってりゃいいってワケで。ッつうかこのワインうめェな。コレ、まだあんのかい? シモンズ」
「ある。自分でワインセラーをあさって、好きなだけ飲んでいろ」
「ありがてェこった、そーさしてもらうとするわ。そんじゃリューポルド様、ボクちゃんちょっと失礼しますよっと」
空いたボトルをぶらさげて席を立ったエドモンが、ラベルに目を走らせて銘柄を調べた。
「ありゃ? フランスかと思ったらイタリアのワインかよ。あいつらもたまにゃブッたまげなワインを造りやがるな……えーと ” われ、神のつぎにワインを愛す ” ? ヒヒッ。三百五十年前なら牢屋行きだな、コイツ」
笑いながら言った彼がワインセラーへ歩きかけたとき、なにか重いものが床に落ちたか、倒れるようなガダンッ!という音が背後で鳴り響いた。
なにかと思って振り返り、リューポルドと真っ向から目を合わせてしまったエドモンの体内を、もう二百五十年あまりも感じることのなかった恐怖という感情が、フルスピードで走りぬけた。
リューポルドの眼の色が、人のものではなかった。
赤ワイン、ルビー、血液、バラの花、およそ人間が思い描ける世の中の、ありとあらゆる赤色を混ぜこんだ ” ライカンスロープの心臓 ” をその身に宿したものだけが持つ、真 紅の眼光。
ソーニャが本気で放った殺意をも受け流せたエドモンの足が床にボルト留めされたかのように動けなくなり、いまや人間よりも動物に近しい彼の本能はほんの一瞬、車の前に飛び出した猫がもしかしたら感じるような、たいした理由もなく訪れる理不尽な死を予感した。
「 い ま な ん と 言 っ た 、エドモン!?」
引きつった顔面を打つリューポルドの張りつめた大声に、エドモンは「…………へっ?」と間の抜けた声を返すのが精一杯だった。
「もういちど言ってみろ今のを! 早く!! 早く言えッ!!!」
「えーと……三百五十年前なら……」
「そのひ と つ 前 だ、こ の ク ソ ボ ケ が ッ!!!!」
雷のように轟いた怒号に毒気を抜かれたエドモンが、すこし青ざめた顔色でどもりながら必死で答えた。
「わっ。われ、神のつぎにワインを愛す……」
「それだ。神のつぎにワインを愛す……ブドウ園……そうだ、ブドウ園だ。思い出したぞ……あれは確かカラブリアの……見つけたぞ……見 つ け た ぞ 。見 つ け た ぞ ! ! !」
感情の激変に驚き見つめる三人を尻目にして、なんの説明もなしに天井に向かって身をそらし、噴きあがるおかしさに任せ、腹を抱えて吼え嗤いつづけるリューポルドの脳裏に、エドモンのひとことを引き金にして一気に浮かび上がった記憶が正しければ、その場所はローマから北東に数百キロ離れたアペニン山脈のまっただ中に、いまだにあるはずだった。
かつてカトリック検邪聖省長官だった男はいまや、すべてを思い出した。
それは十五世紀の終わりに生き、神のつぎにワインを愛すると公言してはばからなかった──リューポルドの考えでは神よりもワインを愛した──ひとりの大司教が、自分で飲むワインを造るためだけに建てさせた醸造所。
それは聖職者にあるまじき美食とワイン三昧のすえに、現代で言えば痛風と肝硬変と動脈硬化をいっぺんに患った愚かな大司教が死ぬ寸前、暴食という大罪をチャラにするため、神とバチカンに寄進した土地。
当時のリューポルドが検邪聖省長官の権力を使ってひそかに調べさせた、バチカンが所有する不動産と、高位聖職者たちが私物化した不動産リスト。
そこにも、これとまったく同じ名前が載っていた ── ” ブドウ園 ” 。
人の世で起きる現象の中で ” 皮肉 ” をもっとも好み、歴史というのは単に積み重なった皮肉の連鎖でしかないと考えているリューポルドにとって、カトリックが堕落しきっていた時期を象徴するようなふざけた来歴の場所が、アンチ・キリストに対抗する勢力の本拠地にされているという結末は、一日じゅうでも笑っていられるほどの、極上のバカバカしさとおかしさに満ちた、数百年ぶりに身のうちを突き上げる笑いの衝動をもたらすのだった。
「シモンズよ」
ようやく笑いの渦から抜け出たリューポルドの声には、シモンズの背中すら寒くするような冷たさが宿っていた。
「はい、ご用でしょうか枢機卿?」
「軍の監視衛星を動かして、これからわたしが言う場所を調べさせろ。工場でも学校でも、何でもかまわん。何か建っていたら、そこにすぐナイト・ウォッチを送り込んで、木の一本も残さずに徹底的に破壊させろ」
「かしこまりました。いよいよですな? 枢機卿」
「そうだ。ソーニャとエドモン。わが娘にわが息子よ、狩りの時は来た。四日後の満月の夜、お前たちの思うまますべて殺し尽くせ。獣人とカトリックの戦争は、それで終わる」
「ご期待に添えるようにいたしますわ。枢機卿」
「仰せのままに、閣下」
この瞬間、ついに獣の軍団の手が、バチカンが三百年あまり守り通したゲヘナの秘密に指をかけた。
── イタリア ── 山 城── 次の満月まで三日
「武器?」
バターを薄く塗ったトーストを噛むクラリスに向かって、ベーコンエッグの皿から顔を上げたジゼルが、フォークを軽く振った。
「うん、武器。お姉ちゃんまだどんな武器使うか決めてないでしょ? 格闘戦の訓練しに行くなら、何かひとつ持ってったほうがいいと思うよ」
獣人との戦闘でナイフより長い刀剣類を使ったことのないクラリスは少し考えて、思ったことを素直に言った。
「うーん……でもわたしが慣れてるのって、ナイフぐらいしかないんだけど」
「対獣人格闘は、リーチのある武器をメインにするのがセオリー。ナイフは刃が届くまで踏み込みがいるから危ないし。それに格闘戦術の柔軟性とバリエーションは、長短レンジの組み合わせで広がるんだよ。お姉ちゃんは手が両利きだから、武器を左右どっちでも扱えるのは利点だよ。そんで片手はハンドガン。リロードのときは── 」
朝食を食べようとする人々が右へ左へうろつき、にぎやかにざわつく大食堂の一角で、ナイフだけで獣人と戦うリスクを説明する妹を見るクラリスの顔に微笑が浮かんだ。
毎日、自信満々で挑戦してくるデルタ・フォースやSEALS、ドイツ陸軍山岳師団、フランス外人部隊、SAS、アメリカ海兵隊出身のマッチョな男たちをつぎつぎに地面に転がしてのける近接格闘の申し子と言えるようなジゼルのアドバイスは的確で ” ブレードマスター ” というニックネームの通り、さすがと言うしかなかった。
「 ──ていう感じかな。あとは、できたらスーツのあちこちにマイクロダガーとか飛鏢をたくさん仕込むといいよ。投げて相手の間合いに入る機や、死角を作れるから」
「ダガースロウのほうは時間がないかもしれないけど、武器のほうはジゼルの言うとおりにしてみる。でも今からわたしに合う武器なんて見つかるの?」
「そこはジゼルちゃんにおまかせ! ごはん終わったらあたしに付きあってね。お姉ちゃん」
「わかった。でも急がずにゆっくり食べていいからね」
心持ちひとつでこれほど上下する人の心なんて現金なものだとは自分でも思うが、妹の頭を撫でて笑うクラリスの気持ちはきのうまでとうって変わってすがすがしく、屈託がない。
きのう一日で大きな挫折と心の再生を体験したことで、自分の価値は獣人を狩ることにしかないという今までの存在理由から抜けだし、文字通り生まれ変わったような気分の彼女にとって、きょうは世界がちがって見えた。
いままで周囲に対して開いているようで、じつは閉じていた心によどんでいた、恐れと悩み。
リーやジゼル、レオナールやシーリアたちはそれを理解したうえで、クラリスがさらに強さを求める道を示してくれたし、ジゼルの態度は、姉がきのうあれだけの弱さを吐き出したあとでもまったく変わらないどころか、前よりさらに愛情深くなった。けさ二人がこうしていっしょに朝食をとっているのは、昨夜ジゼルが自分の部屋に帰らず、クラリスといっしょに寝ると言って譲らなかったからである。
そんなクラリスの心のいちばん深くやわらかいところで、あの森でバーナビーが注いでくれた優しさと励ましがいまも、燃えさかったあとも残るおき火のような温度を保っていた。
” 俺の知ってるきみは、嬉しければかわいく笑うし、恥ずかしければ照れるし、怖いものは怖いと思う十九の女の子なんだ "
この言葉をころころともてあそぶクラリスの心と胸はいやでも高鳴りを増してしまうが、この感覚は彼女にとってぜんぜん不快ではない。
むしろそれは、今まで動かなかったエンジンがついに点火されたような、冷えきっていた暖炉にとつぜん火が放たれたような、熱さの中にほんの少し甘さの混じる、拒むことのできない不思議な気持ちをもたらしてしまう。
バーナビーの手が握った肩のその場所を無意識に撫でさすり、男の力強さを思うクラリスの唇が、潤ったため息をもらした。
「それよりそれより、ねえねえ」
これからあなたをビックリさせますと言いたげな笑顔のジゼルが、ヒソヒソ声で話しかけた。
「なに?」
「お姉ちゃんさ、もしかしてバーナビーさんのこと、好きになっちゃったの?」
ホットミルクを飲もうとした姿勢のまま動かなくなったクラリスは、あっという間にきのうと同じような赤い顔になって下を向いた。
「……あっ、あのね。ジゼル……そういうのってやっぱり、みっ見ててすぐわかっちゃうものなの……?」
「あったり前じゃん。アレでわかんなきゃおかしいよ! リーおじいちゃんも言ってたけど、バーナビーさんと話すときのお姉ちゃんて、すごく女の子してるよ。ところでぇお嬢ちゃん、いつからあのスナイパーに惚れちまったんだぁい?」
「……そんなこと言われてもわたし、そんなの……いつのまにか……としか……」
デリケートな質問に困り果てた姉が目を伏せて頬を染め、顔をそらすしぐさを見たジゼルは急に立ち上がると、両手で頭をワシャワシャとかきむしった。
「ウホあ──っカワイイ! 何がどうしたらそんなにカワイくなっちゃえるのお姉ちゃんっ!」
「ちょっとジゼル! そんなこと大声で叫ぶのやめて!」
「ゴメンごめん。だけどあたし、お姉ちゃんとこういう普通の女の子っぽい会話できるのが嬉しいんだよ。あたしお姉ちゃんのこと応援するね。こうなったらもうリューポルドなんてサッサとやっつけちゃってさ。還俗して、クラリス・バーロウって名前になっちゃいなよ」
すとんとイスに座りなおして胸を張るジゼルの前でまだ下を向いているクラリスの顔色は、まるでテキーラでも飲んだのかと怪しまれそうなほど最高潮に赤かった。
「……ジゼル……お願いだからそれ、早く食べちゃって……」
「え。さっきはゆっくりでいいって言ったよ。それにあたし、まだデザート食べてないじゃん」
デザートまで完食すると主張する彼女の目の前に、テーブルにだんっと両手をついたクラリスが身を乗り出した。
「さ っ き の は ナ シ ! それに朝からデザートまで食べなくていいの! もうわたしここに座ってるのも恥ずかしいんだから!」
「なにが恥ずかしいんだ? クラリス」
呼びかけられてハッとした顔つきになり、口を三角形にしたクラリスがゆっくり横を向く。そこには朝食を載せたトレーを持ったバーナビーが、どうしたらいいか分からないような顔をして立っていた。
「おはようさん。て言うか悪い、シスター・ジゼルが立ってなにか叫んでるのが見えたから来てみたんだが、シリアスな話してたか?」
「ノっ、ノンノンノン! ぜッぜんぜんだいじょうぶ、大丈夫ですよ? これはまッたくそういうんじゃないのでっ! じゃああの、あのねとっとりあえずバーニー……ここ……座る?」
テーブルに体を伏せたジゼルの肩が、笑いをこらえてプルプル震えているのを見たクラリスは、心の中で思う。
──主よ。なにゆえあなたはわたしに、このような試練をお与えになるのですか…………
その三十分後。
フランベル姉妹にバーナビーを加えた三人は、この基地でレオナルドが詰めている《装備課開発室》を訪ねていた。バチカンにある彼の個室など比べものにならないぐらい広い工房には、びっしりとレーザーを使った金属加工機械や超高圧ウォータージェットマシン、金属をプラズマ化する真空蒸着機などの機械が並んでうなりを上げている。それは、ひとしくエンジニア関係にうといクラリスたちが圧倒されるような光景と言うしかなかった。
「なるほど、それでお姉ちゃん用に、なにかいい得物を探してやりたいんだな。事情はわかったよ」
” サウスパーク ” のTシャツの上から上下ツナギの作業服を着たレオナルドが、姉思いのジゼルに感心したという風情でうなずいた。
「ありがとうレオナルドさん! あとこれ朝ごはんの差し入れ。デザートはパンナコッタだよ」
「気がきいてるな。あとでありがたく食うよ」
受け取った紙袋を机のわきにある小さな冷蔵庫に放り込んだレオナルドは、扉を閉めながら言った。
「でもシスター・クラリス、きみの専門は銃だろ。いきなり戦闘メソッドをがらっと変えて平気か?」
「影響がないとは言えません。でもわたしが上位種と戦うには、どうしても格闘戦のスキルを上げる必要があります」
「すまん、これは愚問だった。弾丸を見切ってかわせる連中相手にするなら、ガトリング砲をかついでっても意味ない。だいいちきみはそんな物かつげないしな。どうもオレはそういう話を聞くと、すぐ火力を増強するほうに行っちまうからダメだな」
「だからあたしが、レオナルドさんなら相談に乗ってくれるって教えてあげたの。ねえ、きょうもチュッパチャップス持ってる? レオナルドさん」
「ほれ、いちごクリーム味。いままでに戦闘で刀や剣を使ったことはあるかい? シスター・クラリス」
「いえ、ナイフ以上のものは経験がありません。でもフェンシングを教わっていたことはあります」
「ほう、フェンシングね。トレーニングはどれぐらい?」
なにかの液体が入ったポリタンクに座ったレオナルドの口調が、糸口を見つけたという感じに変わった。
「四年です。教えてくれたのは祖父でした」
「祖父どのか……待てよ。きみの祖父と言ったらあの、オーギュスト・フランベルか?」
意外な人物からその名前を聞いてすこし驚いたクラリスは、べつに目は悪くないのに、なぜかいつも右眼に眼帯をしていた祖父のやさしい横顔をふと思い出す。
「祖父のことをご存じですか?」
「俺みたいな技術畑の人間でも、名前は知ってるよ。彼に並ぶものは二度と現れないとまで言われた剣士。第二次大戦でベルリンまで潜入した唯一のエージェント。だったら話は早いな。フェンサーの武器と言ったらもう相場は決まったようなもんだ」
「なにかお姉ちゃんに合いそうな武器があるの? レオナルドさん」
シャツの胸元からロザリオといっしょにキーカード付きのチェーンを引っぱり出したレオナルドの顔には、とっておきの商品を見せる商人のような表情が浮かんでいた。
「あるから言ってるんだ」
「これはもしかして、レイピア……ですか?」
先端部の幅はおよそ二十ミリ。柄にあたる根本の部分で強度を増すためにやや厚みを増して広がったその刀身は、青みを帯びてひとすじの糸のように輝くエッジの部分以外はすべて、光を吸い込むようなマットブラックで塗装されていた。
クラリスの手が握るグリップと刀身は継ぎ目のない一体構造で造られ、握り手を守る黒いハンドガードの形は現代のナイフを参考にしたのか、無駄な装飾がいっさいない。
ところどころにレオナルドの手が加えられた両刃直刀、刃渡り一メートル十センチの武器は、十六世紀からあるレイピアを百パーセント現代風にアレンジした、タクティカル・レイピアとも呼べるしろものだった。
「まあね。一時期、昔からある武器をリファインするプロジェクトをやってた時期があって、これもそのときに造ったんだ。出来がよかったから保管しといた。レイピアは刀身が細いだろ? 折れたり曲がらないように材料から硬度の高い金属を使って、表面硬化はチタン、モリブデン、ニッケル・クロームの順で三層。エッジ部分は銀コーティング済み。グリップ近くは刀身を太くしたから、頑丈さは保証するよ」
「ありがとうございます。こんなすばらしいもの……いいんですか?」
「いいさ。武器って言うのは使えるやつが持ってるのが一番いいんだ。シスター・ジゼルにも言ったけど、カエサルのものはカエサルに。剣士のものは剣士に、だ」
「うわぁ、この子かっこいい……あたしにも握らせて。お姉ちゃん」
クラリスから剣のグリップを渡されたジゼルの目つきが、姉がこれから命を預けることになる武器を真剣に吟味するプロフェッショナルのものに変わる。
ふだんジゼルが使うサムライブレードが「断ち落としの味」を極限まで追った形をしているのとまったくちがい、レイピアは獣人に致命傷を与える必要最小限の攻撃「突き」をどれだけ合理的にすばやく送り出せるかに特化している。
それは、獣人の息の根を止めるには胴体を両断する必要はなく、頭部なら数センチ、心臓なら十センチの深さに突きが届けばよいという考えに立っていた。
いまジゼルが握る細身の剣は羽根のように、とまでいかなくてもじゅうぶん軽く、リーチも長い。この剣を完全に使いこなすものは、どんな獣人も見切れぬ刺突の弾幕を張れるにちがいなかった。
「ねえレオナルドさん、この剣もあたしのナイフと同じで、よく切れるの?」
「切れるぞ。ベースの素材はそのナイフと同じ炭化タンタルだからな」
レオナルドは、ジゼルの胸のあたりに取り付けてあるシースに収まったナイフを指さした。
「そうなの? ねえお姉ちゃん、なにか切ってみてよ。きっとビックリだよ」
言われて周りを見たクラリスは、近くのブロック壁に金属の厚板が立てかけてあるのを見つけると、レオナルドの方を向く。
腕を組んで無言のまま彼がうなずき返すと、クラリスは金属板の前まで歩いていき、レイピアをピュッと振った。
自分の背丈と金属板の大きさはほぼ同じ。
そこに彼女のイメージが描き出すのは一匹の獣人。狙うは三カ所。眉間、喉、心臓──。
” 自分がどこをどう狙いたいのか、よく教えてあげなさい、クラリス "
幼いクラリスの頬に触れながら、祖父の言った言葉。
” 手にした剣の切っ先の、一ミリも残さず先端まで ”
それを思い出しながら、レイピアを逆手に持った腕を、顔の横までスイッと持ち上げる。
” そうすればおまえの剣は、おまえが行きたいところに行ってくれる ”
深い呼吸、筋肉のバネ。そう。全身を力強く、しなやかに蹴り出せ。速度のすべては剣の先端を動かすためだけに── 行け、わが剣 ──
クラリスの身体と左腕がふと駆動した瞬間、ガキキュッ!!! というひとかたまりの金属音が鳴り、金属板に三つの刺突孔が空いた。
姉がはじめて披露する剣術を見物していたジゼルの唇から、くわえていたキャンディの棒がぽろっと落ちた。
「お姉ちゃん…………いま、何回突いた?」
「三回。やっぱりブランクがあるから、これ以上はダメだったみたい」
「ダメだったって、三段突きってすごいんだよ? 日本のソージ・オキタって人の話、知らない?」
「そうなの? オーギュストおじいちゃんもわたしも、これが普通だったけど……」
「うわ──っ! ダメだ! スゴイって自覚がないんだこの人!! あたしも特訓しないと! ここでのんきにキャンディ食べてる場合じゃない!!!」
「ジゼル。トレーニングならわたしもいっしょにしていい?」
「いいけどォ……なんかあたし、ヘコみそうな気がするなァ……」
にぎやかにさえずるフランベル姉妹のおしゃべりを少し離れたところの机に寄りかかって眺めているバーナビーのところへ、レオナルドがぶらぶらと近寄った。
「お前さんにしちゃずいぶん静かだな、バーロウ。きょうはジョークが品切れか?」
「あのな、レオ。獣人相手に剣ひとつで戦おうって世界の話に、俺みたいな狙撃手が出す口があるか? 俺の口はTPOってもんをわきまえてんのさ」
胸ポケットをさぐってチュッパチャップスを出したレオナルドは、慣れた手つきでセロファンをはがすと口にくわえる。
「そういうことにしとこう。時間あったら銃器課に寄って、主任のトロイに声をかけるといい。狙撃手向きのオモチャができた」
バーナビーは興味を引かれて、新しい火器の情報をそれとなくリークしてくれているレオナルドのほうに向きなおる。
「初耳だなそれは。どんなのだ?」
「RPA・レンジマスターのコピーカスタム。ワンオフの化けもんじみた狙撃銃だ。バレル長はオリジナルの四割増し、弾薬はバチカンのオリジナル十六ミリ弾頭。バイポッドだけじゃ一発撃つたびにリコイルで銃身ごとスッ飛ぶから、油圧駐退機が付いてる」
「人間に撃てんのかよそんなの? 十六ミリって言ったらもうそりゃ銃って言うより砲だぞ?」
「まあ、お前さんも楽しめればと思って言っただけだよ。ところでバーロウ。 ” ペイルホース ” はいつ始まる?」
ため息をついて頭をかいたバーナビーは、これは答えにくいと言わんばかりの渋面をつくった。
「まだだな。正直、言ってはみたもののリューポルドがアメリカのどこにいるのか、上も正確には知らんらしいし、イングランド国教会も同じだ。俺がヤツだったらフロリダかカリフォルニアあたりでノンビリしてるが」
「オレもそうするな。今夜、チェスをしに来るか? これは内緒だけど、ハイネケンを二パック持ち込んでるんだ」
「たとえ百万の獣人がいようとも、必ず駆けつけるよ」
男ふたりが秘密めいたニヤニヤ笑いを送りあっているところへ遠慮がちに近寄ってきたクラリスが、バーナビーの顔を見上げた。
「バーニー、なんの話?」
「気にするな。ヤボな男同士のつまらん話さ。それよりがんばれよ。クラリス」
バーナビーに頭を撫でてもらったクラリスの顔が、花のように明るく咲いた。
今回の更新で文字数が十万を超えました。一年かけて十万はどうしようもなく遅筆なのだと思いますが、
もうただ、気長にお付き合いくださいと言わざるを得ません。私もひたすらがんばります。
●飛鏢:中国武術の小型武器。投げて使う。
●還俗:聖職者が聖職を辞めて俗世に戻ること。
●RPAレンジマスター:イギリスRPA社製、12.7ミリ弾使用の対物狙撃ライフル。
○今回も読んでいただき、ありがとうございました。ポイントのみ評価、感想、レビュー、お気に入り、どれでもお気軽にお願いします。