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クロイツェル・バレット 掃討の聖約者  作者: 美濃勇侍
第4章 ツーク・ツヴァンク
16/17

4章の5

月曜日に投稿したかったですが、ちょっと遅れてしまいました。

第四章最終回です。どうぞ。

── イングランド ── ロンドン ランベス ランベス宮殿


 二千年以上前、ロンディニウムと呼ばれたこの地を支配したローマ帝国の男たちを ” 天も地も水気が多い ” と嘆かせた、ヴェールのような霧雨がふりそそぐロンドンの街を、ひとりの男が眺めていた。

 豊かなあごひげ、もみあげ、頭髪まですべて白髪のようすから、窓辺にたたずむこの男が少なくとも初老の境を越えた年齢だというのはわかるが、イングランド国教会に属する聖職者のだれとも同じ、黒いカソックだけを身につけた男の地位を、見た目で区別することはできない。


 雨のしずくが流れ落ちる窓のむこうで、テムズ川の対岸に建つウェストミンスター寺院が濃霧に飲み込まれてゆくのを目にした男のまなざしが針のように細まるのと同時に、この質素な部屋のドアをノックする硬い音が響いた。

「入りなさい」

 声に応じて入室した若い神父は小さな部屋を横切って男に歩み寄ると、折りたたんだ黄色い連絡用紙をさしだす。

「失礼いたします大主教(アーチビショップ)。” ソロ ” からの定時連絡電です」

「わかった。読みあげなさい」

 イギリス王室第一位内臣、イングランド国教会最高階位者であるカンタベリー大主教の静かな要求にとまどった連絡官は、室内を見回して聞き返した。

「よろしいのですか?」

「ここには隠しマイクもないし、獣人のスパイもおらんよ」

「わかりました、では──ええと、一つ。ローマのアメリカ大使館から、ヴァチカンへの返答はいまだなされず」

 神父の報告を聞いた大主教は、それ見たことかと言いたげな苦笑をもらした。

「やはりそうだろうな……」

「アメリカは、ヴァチカンの情報を信じなかったのでしょうか?」

「きみがあのアメリカ大使だとしてだ。この世には狼男が実在していて、その親玉があなたの国にいますよなどと言われたらどうするね? 」

「確かにそれは……信じがたいことでしょうね」

 国教会の対獣人セクションからスカウトされた当時、狼男が存在する世界(・・・・・・・・・)を受け入れるのに苦労したのを思い出した連絡官は、これはどうしようもないと言うように首を振る。


「信じがたい話だし、もし私がアメリカの大統領だったら、こんな話をするものには休みを取って病院に行けと言うね。だから大使はこの話をどこにも持っていけない。ヴァチカンはただ、奴らに情報が漏れる愚を冒しただけだ。四百年前じゃあるまいし今の時代、ローマ教皇とヴァチカンの意志に、影響力などたいしてあるものか」

 

──こんなことだから、ナチ相手に一国で抵抗したような経験のない奴らは甘いのだ。すべてを疑ってかかるということを、まるで知らん。


「情報が漏れると……まさか、あの大使は奴らのひとり(・・・・・・)だとお考えで?」

「きみはヴァチカンの対獣人防御がどんなふうか知らんだろう。来客は銀の食器で銀粉入りスープを飲まされ、水は銀のコップで飲み、吸う空気には銀イオンがたっぷり入っとる。だから大使はクリアだ。問題はあそこの大使館と、その後ろ(・・・・)だよ」

「と言うことは、つまり……ですがそれはあまりにも……」

 合衆国政府は獣人に支配されている。カンタベリー大主教が暗示した可能性を考えた若い神父の全身に、ざらついた肌寒さが降りてきた。


「ムチャなことに聞こえるか? 私がリューポルドで、ヨーロッパを追われて新大陸に渡ったなら、間違いなくそうするよ。まあジョージ・ワシントンのまわりに獣人が何匹いたかなどというのは考えたくもないがな。ところで、伝達はそれひとつきりかね?」

「あっ! いえ。まだ二つあります。これは報告といいますか要請ですが……」

 会話のスケールの大きさに圧倒され、ほかの連絡事項をすっかり忘れていた連絡官は目に見えて恐縮した。


「言ってかまわんよ。我々は彼に行動の自由を許している」

「わかりました。二つ、 ” ソロ ” はゲヘナ本拠地の警戒を離れ、南米へ向かう。期限は一ヶ月から二ヶ月。理由は……書かれていません」

「なるほど、彼が必要だと思うならそうしよう。許可したまえ」

「御意に。そして三つ、ゲヘナ本拠地の警戒のため ” クィンテット ” からもう一名の出動を要請す、とのことです。理由は ” 五日後は満月 ” としか」


 読み切って連絡用紙から顔を上げ、大主教の眼が正面から自分に向いているのを知った連絡官の背筋が、思わずびしっと伸びた。

「ほう、フォークスもどうやら私と同じ懸念を持っているようだな。ならばそれも許可しよう。我々としては、万が一にもここでゲヘナを潰されては困る。誰を出せと言ってきている? 」

「 ” スピアヘッド ” を指名しています」

「わかった。ダブリンに連絡して最優先で呼び出させろ。それとフォークスにはこれ以上の増援は不可とも返しておけ。我々も備えは必要だ」

「了解いたしました。それでは失礼いたします」


 入ってきたときと同じく急ぎ足の連絡官があわただしく辞去していき、またひとりに戻ったカンタベリー大主教の顔が、すこし疲れの漂う初老の男に戻った。

「さて、どう動くのかな? アロイス・リューポルドよ──」

 眼だけは炯々と光らせつつ、あごヒゲを撫でて独りごちた彼がふたたび窓の外を見やったとき、ウェストミンスター寺院は霧の中からその荘厳な立ち姿を現そうとしていた。



── アイルランド共和国 ── ダブリン州 ダブリン市


「ねえキミ観光で来てんの? もしかして地元? その黒髪、クールだね」

 ダブリン一の目抜き通りに近いスターバックスの店内。

 いきなり隣に現れてカウンターにヒジをつき、慣れた調子で話しかけてきた地元の青年をハシバミ色の瞳で見返した少女がお決まりの文句を告げた。


「観光で来てんの。いまは彼氏とここで待ち合わせ。以上おわり」

「ああ、オーケー。じゃあダブリンを楽しんでってくれ」

 断られるのも慣れているのか、あっさり離れていく青年の背中にヒラヒラ手を振る少女の背中に流れ落ちるのは、英国人と言うより日本人かと思うほどの黒髪。その耳もとに見え隠れする耳たぶには、プラチナ製の小さな十字架のイヤリングが揺れている。


 きょう三人目のナンパ男を始末した少女の、しっかりカールアップした睫毛のほかは薄いメイクですませた顔には、まだ午後も二時だというのに退屈さがありありとにじんでいた。

「ぁあ~んもぅ、ヒマだなぁー……」

 そうボヤきながら背伸びをしたあと、ほおづえして店の外の喧噪をぼんやり眺める彼女のやや高いヒールのパンプスをはいた足元には、いろんなブランドのロゴが入った買い物袋が、色とりどりでずらりと並んでいる。

 これだけ好き放題に買い物をしても結局は、ひとりでいることの退屈と寂しさから解放されないのを知っている少女はついカウンターに顔を伏せ、ふと手に触れたスマートフォンの電話帳から ” ネイト ” と名前のついたページを呼び出したが、その指はどうしても「CALL」のボタンを押すことをためらってしまう。


──用もないのに電話したら、きっと怒られちゃう……でも、聞きたいな……声。


「ぅわっ!」

 じっと見つめるだけで何もしないまま握っていたスマートフォンがとつぜん手の中でブンブン震え、モールス信号っぽい着信音が鳴りだした。

 もしかして、というほのかな期待とともに画面をのぞきこみ、ジョークのつもりで登録した " M I : 0(エムアイ・ゼロ) " ──イングランド国教会対獣人作戦部・ダブリン支局──という名前が表示されているのを見た彼女の首が、カクッと折れた。


──やっぱ、ネイトのわけないよね……


 クスンと鼻を鳴らしてストロ-をくわえ、コーヒーフラペチーノをすすりながら呼び出しに応じた少女は、あいさつがわりにイヤミの混ざったぶっきらぼうな声をマイクに送り込んだ。

「こちらスピアーズ。あたしのオフをジャマするからには、よっぽど大事な話じゃないと承知しないわよ?」

『わたしだよシャノン。せっかくの休みを邪魔してすまないね』

 シャノンと名を呼ばれた少女の全身が硬直し、唇から生クリームとコーヒーフラッペがブーッと吹き出した。


「だッ! 大主教サマっ? 今のはたいへんお聞き苦しい失礼を……コレは決してわたくしの本心ではなくてデスね? いわゆる友愛の情を表したその……その……」

 そくざに挙動不審におちいり、しどろもどろのヒソヒソ声で弁解するシャノンの耳に、アイルランド首座主教にしてイングランド国教会の五大主教のひとり、ダブリン大主教アーチビショップ・オブ・ダブリンの愉快そうな笑いが聞こえた。


『気にすることはないよ。安息日を静とせよと言いながらこれでは、私でもきっと友愛の情を示そうと思うからね』

「ごめんなさい大主教さま。帰ったら懺悔します……」

『申し訳ないのはわたしのほうだよ。きみに出てもらいたい用事ができてしまった。行き先はイタリアだ』

「イタリア……まさか、ネイトに何か?」

『安心なさいシャノン。レスターは今いる場所を離れて南米に向かうだけだ。彼が行っていたゲヘナ本拠地の警戒を、きみに引き継ぎたいそうだ』

「よかった……でも、どうして彼は南米に?」

『それは神のみぞ知ることだよ。まあ私には、彼は行く必要があるから行く、としか言えないね』

「あいつったら、いっつも好き勝手ばっかして!サイテーですよね!」

 現代イギリス英語に完全に順応したシャノンのボキャブラリーに、ダブリン大主教はふたたび豊かな笑い声をあげた。

『というわけだ。休暇をだいなしにしてすまないが、戻ってきてくれるかねシャノン? 待っているよ』

「わかりました大主教さま。あたし、急いで戻ります」



 それは、三百年とすこし前のこと。

 両親もきょうだいも親戚もみなちがうのに、遺伝子のどんないたずらの結果か、ひとりだけ真っ黒い髪を持って生まれた少女がいた。


 両親のどちらともちがう髪色の理由をめぐって父と母の仲が悪化したのを境に不幸を運ぶ黒髪の娘と呼ばれはじめ、他人はおろかきょうだい達からもいじめられながら生きることを強いられた彼女はある日、このカラスのような黒髪は自分が生まれる前から犯していた罪に対して神さまが与えた罰であり、自分は一生をかけて神さまにそれを償わなければいけないと、十六歳にしてはやくも結論づけた。


 そして少女が十八歳を迎えた年の初夏、ある満月の夜。

 生まれ育った小さな村から歩いて四日の距離にあるという大きな修道院をめざして、彼女はだれにも告げずに村を出た。

 村からせいぜい半日分の距離までがそれまでの全世界だった彼女にとって、修道院への道のりはあやうく行き倒れるかと思うほど長い旅だった。

 食べ物を買う金もないまま茂みに生えたベリーや親切な旅人にもらった小さなパンを食いつなぎ、小川の水で渇きをおさえ、修道院の名前を出して道を尋ねながら、少女は粗末な木靴でひたすら歩いていった。


 そして明日には修道院を拝める距離まできたある夜。

 森で寝ていたところを赤い眼の獣どもに襲われたシャノンは、その心臓を生きたまま爪でえぐられ “ライカンスロープの心臓” のかけらを埋め込まれた。失禁するほど怯えきり、この世のものとは思えない激痛を受け、あげくに慈悲深くも気絶した少女を犯すでも喰い殺すでもなく、獣人という翼のない悪魔たちは、人ですらない身体と永遠に終わらない生という何よりも悪いものを押しつけ、それまで以上に未来のない、ほんとうの絶望というものの扉を開けて去った。そこからの数年のことをほぼまったく覚えていないほどの暗黒と恐怖の底であえいでいたシャノンにふたたび心を吹き込んでくれた恩人、理不尽な運命に立ち向かう心と戦い方を教えてくれた師、それ以来ずっと彼女の心を奪いつづけるたったひとりの男、レスター・ネイサン・フォークス。


 シャノンは今でも夢に見る。

 震える自分を捕らえるためでなく、生まれてずっとひとりぼっちだったシャノンを優しく包んでくれたおおきな手の暖かみと「私がお前をそこから救おう。立て、そしてともに来い」と言ってくれた彼の、ぎこちない笑顔を。



 だが、それはそれとして。この瞬間はレスターにひとこと文句を言ってやらねば収まらないシャノンは腹立ちまかせにスマートフォンを操り、今度はためらいなく発信ボタンを押した。

『私だ』

「南米のどこに、何しに行くのか教えて」名前も前置きもなく、シャノンはいきなり詰め寄った。

『──言えん』

「なんで? あたしの休暇を台無しにして、リオにサンバカーニバルを見に行くとか言ったら殴るわよ?」

『言えないのは、カトリック側の機密事項に協力するからだ。カーニバル見物ではない』


 聞きたくてたまらなかった声に疼かされたシャノンの心が、レスターに拾われるまで毎日を怯え隠れて怖がりながら過ごし、みずから死のうと思っても死ねない体でただ生きていただけの、三百年前のシャノンにもどった。

「あぶないこと、しないでね……ネイト」

『私に危険はないが、五日後は満月だ。ゲヘナの本拠地は襲撃されるかもしれん。そんな所に行かせるのは心苦しいが、お前なら頼れると思った』

「いいよ。ネイトの代わりにあのボーイスカウトたちを守ったげる。そのかわりに、お願いがあるの」

『言ってみてくれシャノン。私で実行可能なことなら聞こう』

 レスターに名を呼ばれただけでせつなく加速する胸の鼓動。もう抑えようもなく瞳を潤ませたシャノンは、十八世紀からこの現代まで自分を導いてくれた男への想いのたけを吐いた。

「帰ってきたら、ごほうびにデートして……会いたいの、ネイトに」

否 だ(ネガティヴ)


 間髪も入れずに拒否されたシャノンの脳内を、核爆発なみの真っ白な光が覆った。

「…………は い ッ?」

『前にも言ったがシャノン、お前は私の娘も同然の存在だ。デートというものは父と娘がするものではないと思うが、ちがうのか?』


──ああ、そう。そうですか……さすがもと男爵家のお人、そこらへんがしっかりしてるって言うかっていうかこの男はあぁあ あ あ っ ! ! ! !


 レスターのずれた言葉を聞いているうちに、手にしたスマートフォンを握りつぶしてしまいそうなほどの怒りに震えだしたシャノンは、ついに座っていたスツールを吹っ飛ばして猛然と立ち上がり、おそらく史上一、二を争う鈍感男に向かって噴火した。


「んもおぉぉあぁあアッタマきたッ! そっちがそういうつもりでも、あたしがずっと前からネイトのこと好きなのぐらい知ってんでしょ? できることは聞くって言うからあたしスッゴイ恥ずかしかったけど勇気出したってのに拒否! しかも即答で拒否ッ! それってどんなイジメ!?」

『──待て、待てシャノン落ち着け、女性はそういう事をそんな大声で──』

 いかに困難な状況下に置かれても氷山のように不動なレスターの冷静さが、火山のごとく怒れるシャノンの前にあっさり崩壊した。


「うるさ──いッ! あたしはもう十分すぎるほど待ったわよ、このフランク人のブタ小屋のバケツ頭! スコットランドのへっぽこ男爵! アマゾンでもティンブクトゥでも、どこにでも行っちゃえ!! バカバカバーカッ!!!」

『わかったシャノン、わかった。私が悪かった。ヨーロッパに戻ったらお前の言うとおりにさせてもらう。するとしよう』

「……ホントにホント? だれの名にかけて誓ってくれるの?」

『わが家名にかけて』

「じゃあ今言って。シャノン、デートしよう、って」

『シャノン──で、デートしよう』

「ん、それでオッケー。気をつけて行ってきてね。大好きよネイト」


 マイクの部分にキスをして通話を終わらせたあと、店内にいるすべての客から注目されているのに気づいたシャノンは、赤面しながらひっくり返したスツールをもとに戻そうとしたが、脚が一本壊れたスツールはその場でまた倒れ、葬式のように静まりかえった店内に、ものが壊れる音がバキッと響いた。

 可能なかぎり落ちついた表情を保って買い物袋を両手に持ったシャノンは、次の瞬間にものすごいスピードで店を飛び出していき、恥ずかしさのあまりに半泣きで走って逃げた。

 

 口を半開きにしてその光景を見ていたナンパ青年が、感心したようにつぶやく。

「フランク人の豚小屋のバケツ頭!か……いや、マジでクールなスラングだな」


 イングランド国教会の対獣人戦力の切り札 ” クィンテット ” のひとりであり、二百八十年を超えた片思いを続ける一六九二年、乙女座生まれの獣人少女、この地上でただひとりレスターをパニックに陥らせることのできる人物、シャノン・” スピアヘッド ” スピアーズの出動態勢は、こうして整った。



── イタリア── ローマ ヴィットリオ・ヴェネト通り アメリカ合衆国大使館


 ラテン語で書かれた書類の束と、それを英訳した書類の束を前にして、グリフィンはひと仕事終えた満足感を感じていた。

 大使に頼まれた雑用をゆっくり二日半かけて仕上げた彼がいま手にしているマグカップには、仲のよい事務員の女性が淹れてくれたコーヒーが湯気を立てている。


 人間に比べて鼻の効く獣人に、コーヒーの匂いは飲まなくても苦すぎた。だがコーヒーのうまさに変わりはないし、仕事終わりの一服はグリフィンが人間だった頃からの儀式だったから、彼にはなんの問題も文句もない。


──できるだけチンタラやっちゃみたが、それでもちょっと早すぎたかな……?


 けっこうな厚さの紙束に手を乗せてコーヒーをすすったグリフィンは、ふとそんなことを思った。

 彼にとってこの仕事は、徹夜すれば一日半で終わらせることもできた雑用だったが、人間のなかに混じって働く場合は、なにもかも速く片づけすぎるのも良し悪しがある。

 昼夜を徹して働いているとそのうち誰かが、あいつはいつ眠っているのかとよけいな心配をしはじめるだけで、いいことはない。


──それに、へたをすると大使は俺にこれ(・・)を頼んだことを忘れてるかもしれんし、もっと遅くても平気だったか?


 その可能性を考えたグリフィンは思わずにやっと笑えてくる。

 彼に仕事を頼んだ本人は、ほんとうに大事な仕事のときには一時間ごとに一回は進みぐあいを聞いてくるほどせっかちな男なのに、これに関して一度も仕上がりの催促などしてきていない。

 そういうところから見て、大使がヴァチカンから出てきたこの書類の内容に対してまともに取り合う気がいっさいないのが明白だった。


 それで当然だし、それが普通の反応だとグリフィンは思った。

 獣の軍団(レギオン)に関するヴァチカンの内部書類は正直言って、獣人であるグリフィン本人も驚かされる内容の連続で、資料と言うよりダークファンタジー小説に近いようなものだったからだ。


 そんなものを、あの救いがたいほどリアリストな男が受け入れるはずはない。ヴァチカンは結局、いちばん与えてはならない相手に、情報をごっそり差し出したのだ。これはよく考えればとても皮肉で笑える話だったが、グリフィンの表情は浮かないものにもどっていた。


 彼は大使から頼まれたほうの仕事は驚くような早さで処理して見せたが、シモンズから指示のあった件については、たいした成果が出なかったからである。

 とはいえグリフィンには、渡された書類にある文字を一文字残らずチェックしつくした自信はあったし、そもそも存在が秘密にされた基地の場所が書類に書いてあるはずがないから、だれからも文句を言われる筋合いはない。


──まあいいや。何も成果がなかったわけじゃないし、俺はベストを尽くしたしな。


 フッと一息吐いてコーヒーを飲み干したグリフィンはネクタイをゆるめてデスクから立ち上がった。あとは家に帰ってシャワーを浴び、シモンズへメールを送ったら、三時間ほど眠れるか試してみるつもりだった。

 働いて身体は疲れなくても精神は疲労する。身体は獣人でもそこはコーヒーの味と同じく変わらないし、いまの自分はすこし頭を休める必要がありそうな気がした彼は、上着をつかむとそそくさと小部屋を出て行き、そこに鍵をかけた。


 無人になった小部屋のデスクに、一枚のポストイットが貼られている。

 グリフィンは、ラテン語から文書を英訳していく過程で書類のなかにくりかえしくりかえし、重複して現れる暗号らしき言葉を十数個ピックアップした中から、前後の文脈から推察して、その暗号が「場所」を示していると思われるのが確実なキーワードを、ひとつ見つけだすことに成功していた。


 ポストイットに書かれていたのは、そのたったひとつのキーワード。

 それは ” Vineae(ブドウ園) ” という単語だった。


《第4章 終》

●3/22現在で PV8,635アクセス、ユニーク2,986人に達しました。日々、皆様のご一読に感謝しています。

●次の更新は四月半ばに行うつもりです。今回も読んでいただき、ありがとうございました。

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