3章の1
●第4章は10月の後半に開始予定でしたが、執筆の勢いを保ちたく、少し早めさせていただきました。
獣の軍団の王、アロイス・リューポルド、ついに登場です。
第 3 章 背 教 者 た ち
── アメリカ合衆国 ── カリフォルニア州 太平洋岸のどこか
見わたす限りすべての風景を、どこまでも紫色の小さな花が覆いつくす草原に、彼は一人立っていた。花の名前はスミレ。真冬になると目を疑うほどの雪に埋まる彼の故郷でも、春が来ると必ず、この草原は一面のスミレの花に覆われる。
この光景を見るとき、いつも彼は思い出すのだった。
春ごとに必ずここに咲き誇るスミレの花たちがどこから来るのか、それまではそんなことを気にもしなかった彼に、自然の織りなす不思議を初めて気づかせてくれた一人の少女。
少女は彼にこう教えてくれた。スミレの種は神さまが雪の中にひとつぶひとつぶ入れているにちがいなく、冬の雪は春にスミレを咲かせるための種まきなのだと。
彼が少女に教えてもらったことは他にもたくさんあった。なぜ花から花へと飛び回るハチは、黄色い粉のようなものを集めるのか。月が細くなったり半分になったり、まん丸くなるのはなぜなのか。村のそばの森に棲む鹿のつがいが小川で水を飲むのを見るには、どこに隠れているのがいちばんいいか。
足元のかよわい花たちをなるべく踏みつけないように気づかいながら、彼は歩いた。目の前の小さな丘を越えたところに風をうまくよけられる地面のくぼみがあって、その日だまりで倒れた木に腰掛けた少女が、摘んだスミレの花で花輪を編んでいるだろうということを、彼は知っている。そして、丘を越えてきた彼を見つけた少女が、さいしょに発するひと言さえも。
「こんにちは!ねえ、あなたに花の冠を作ったんだけど、もらってくれる?月桂樹じゃなくてスミレだけど」
うん、ほしいな。ぼくは月桂冠じゃなくて、きみのスミレの冠がほしいよ。アンジェリカ。
恥ずかしげにクスクスッと笑うアンジェリカが、となりに座るボーイフレンドとも言えないような少年の頭にスミレの冠をかぶせようと立ち上がり、少年は冠を受けるために目を閉じ、少女の匂いを吸い込みながら、この子を守るためならぼくは命だっていらないという思いに、胸をかき立てられる。
粗末な木靴に、あちこちほつれてつぎの当たった、ドレスと野良着のあいのこのような服を着ていても、アンジェはこの世界のどの国の姫よりも美しいし、二人が暮らしている村の中で、アンジェより賢い者は一人もいない。
ほかのみんなは、どうでもいいことばかりに興味を持つ変な娘だと言うけれど、ぼくはそうは思わない。アンジェは、神さまがお作りになった世界の不思議に、ただひとり気が付いているのだから。そして、そんなあの子に自分は頭の先からつま先まで恋している。
彼の胸のうちは、もし彼がゲーテやハイネのような才能を持っていたなら、恋と情熱をうたう、あふれるような詩文の泉となっていただろう。でも彼は自分の想いをアンジェリカに告げるには子供すぎることも知っていたし、待つという分別も知っていた。あと五年、いや、三年でいい。羊飼いでも、鍛冶屋の弟子でも、パン屋の見習いでも、なんでもいい。とにかく何かをできるようになったらぼくはきっとアンジェを──
ふいに、アンジェリカが少年にかぶせようとした花輪が地面に落ちるパサッと乾いた音がして、不審に思った彼が目を開くと、少女はその場からこつぜんと消えている。さっきまで羊の群れのような雲を浮かべていた青空もいつのまにか真っ黒な雲に覆われて、冬の始めのような、切り裂くような風が吹きはじめている。
ふと足元を見ると、明るく元気に咲き誇っていたはずのスミレたちは、見わたす限りすべて枯れつくしてしまっていた。アンジェの優しい手が編んだ花輪も、彼の見ている前で、みるみる色を失って茶色く干からびていく。まわりでうずまく冷たい嵐に抗って、少年は叫んだ。
アンジェリカ!アンジェリカ!!ど こ に 行 っ た ん だ 、ア ン ジ ェ!!!
ちぎれ飛ぶ彼の魂を押し潰すように、黒い雲の上から何者かの恐ろしい、雷のようにすべてを圧する声が、だんだんボリュームを上げながら響き渡る。
──の名のもとに我らはこれをなす。
主の名のもとにわれらは裁 く も の な り 。
主 の 名 に お い て わ れ ら は 正 義 な り 。
ゆ え に わ れ ら を 裁 く も の な し ────
や め ろ !!頼 む か ら や め て く れ!!!
アロイス・リューポルドは、涼しく快適なはずのベッドの上で汗まみれになりながら、カッと目を覚ました。
この夢から戻るときはいつも見当識が定まらず、しばらく自分がどこにいるか見失うのが常だったから、ベッドルームの、太平洋に向いた一面の壁全体が強化ガラス張りになった向こうに広がる青い海原と、カモメが群れ飛ぶ青い空の境目をしばらく見つめることで、ようやく彼は自分の今の位置に戻ってくることができた。
ひさしぶりにきみの夢を見てしまったよ。アンジェリカ──。
ベッドから体を起こしたリューポルドは、ひやりと冷えた現実感のある床の固さを足の裏で確かめてから立ち上がり、ベッドサイドに置いてあるフリーザーからエヴィアンを一本取り出して窓ぎわへ歩いていくと、乾ききらない汗をぬぐいながら太平洋を眺めた。
彼は典型的なアングロ・サクソン人種とわかる白い肌をしていた。
体つきは、外見から推定できる初老とおぼしい年齢からすれば引き締まっていて、このアメリカという国の男たちが老いも若きもくっつけている、みっともない肉のだぶつきや、ゆるみはどこにもない。
スッと伸びた高い鼻と、彫りの深い眼窩の奥で光るアイスブルーの瞳が印象深い表情は、彼を詳しく知らない者たちに、いかにも彼の先祖はドイツ系にちがいないと思わせるのに充分な、欧州的なノーブルさを持っている。
くちばしがガラスをつつくコッ、コッという音に気づいたリューポルドが見ると、ガラスの向こうの岸壁には、彼の姿を見たカモメたちが、エサをねだろうと集まってきはじめていた。
一羽やってくると、あとからあとから続々と羽根をばたつかせて群れをなす、人なつっこい無礼なカモメたち。しかし、この鳥たちが相手にしている者が人間ではないことを、むろん鳥たちは気づかない。
──去れ、鳥どもよ!
ガラスの向こうにたむろしている大量のカモメたちに向かってリューポルドが心中で鋭く叫ぶと、まるで彼が室内から散弾銃をぶっ放したかのような勢いで、鳥たちがいっせいに窓ぎわの岸壁から逃げ去った。群れの中にタカが突っ込んできたような、捕食される恐怖で恐慌状態におちいったカモメの群れを、彼は薄笑いを浮かべて見やった。
フンで窓ガラスを汚されては、このすばらしい風景が台なしだからな。
ペットボトルのフタをひねってミネラルウォーターをひとくち飲んだリューポルドは、なぜ現代では、わざわざ金を出して水を買わねばならないのかと、つくづく不思議な感覚を覚えた。昔はそこらへんの小川の水を、なんの心配もせず飲んでいたものだが。
私が生まれてこのかた、世界は昔に比べていいほうに変わったこともあるし、悪いほうに変わったこともある、ということか。その前に、いったいなぜ今日の私はこれほどノスタルジックなのだろう?きっと、久しぶりにアンジェリカの夢を見たからかもしれない。
リューポルドの脳裏に、草原で花輪を差しだす少女の姿から始まって、今まで彼が見続けてきた、ヨーロッパ人という未開の蛮族による果てしない混沌と破壊の、コピー・ペーストの履歴が、つぎつぎに浮かんで消えた。
パリのコンコルド広場で見た、ギロチンで死ぬ寸前のルイ十六世の表情。
三十年戦争で荒廃した祖国ドイツの、焼けてくすぶる故郷の町に降る雨の冷たさ。
どこまで歩いても死体が転がっていたヴェルダンの戦場。
ベルリンに向かってフランスを東へと突き進む連合軍の車列。
家畜用の貨車から際限もなく吐き出されて、収容所に飲みこまれていくユダヤ人たち。
ふと、昔の知り合いを思い出したリューポルドの顔の笑いがさらに深くなった。
そういえば、あのアドルフという男は、ここ百年でいちばん楽しい男だったな!
いつもなんと・・ああ・・第三帝国だ。神聖ローマ帝国と帝政ドイツ帝国の栄光を再来させると言っていた。
あのときは私も同じドイツの民として、一回目の時のように惨めに負けないよう、祖国ドイツの戦争におおいに力を貸してやったつもりだった。
思い出したぞ。奴は私が与えた獣人たちに大喜びして《人狼》という名前の部隊まで作っていたな。
まったく、たくさんのオモチャの兵器と兵隊で、世界を相手に遊んでいるような男だった。
またああいう男が出てくれば私も楽しめるんだが、操るなら今度はもう少し、うまくやらねばならんな。
彼にとっては、アドルフ・ヒトラーが途中でリューポルドの真の計画に気づいたのは計算外だったし、アドルフが彼を妨害するために、彼の資金源になっていたユダヤの民を、あれほど大がかりな方法で、民族ごと根絶やしにしようとしたのはもっと計算外だった。
だがアドルフはけっきょく、ユダヤ人たちだけでなく、世界そのものを裏から操っている獣人の存在を、世界に警告することはできずに死んだ。
だれがそんなことができるものかという愉快さを感じたリューポルドの表情が、泣く子も黙るような凄惨な笑みを浮かべた。その唇には長く尖った犬歯をひらめかせながら。
──ナチス・ドイツは、獣人という化け物たちが人類を裏から支配するために、ユダヤ人を使って莫大な金を蓄えつづけているのを、断固として阻止する、だと?ああアドルフ。愉快なヘル・ヴォルフ。あの時代、きみの言うそんなたわごとを信じる者が一人でもいたか?君は獣人を滅ぼすためにヨーロッパの聖遺物を必死に探したり、占星術を信じたり、いまではすっかり狂ったオカルトマニア扱いだ。私のヒマをつぶす遊びとしては、じゅうぶん楽しめたがね。
《吸血鬼の強みは、誰もそれを信じるものがいないと言うことだ》という一文を思い浮かべたリューポルドは、ハハッと声を上げて笑った。それはわれわれにも当てはまるよ。ヴァン・ヘルシング教授。
リューポルドがたくみにヨーロッパで作り上げたユダヤ人による資金作りのシステムは第二次大戦で完全に壊滅し、彼の計画は百年ほど遅れたが、それはたいした損失ではなかった。時間はつねに彼の味方だったし、いまのリューポルドはかつてユダヤ人たちを操って得た金など足元にも及ばないほどの資金と、とてつもない権力を握っていた。
リューポルドが生きてきた五百二十七年という歳月の半分にも満たない、建国からわずか二百三十四年の、このアメリカという国家。いまやこの国はリューポルドの財布、リューポルドの市場、リューポルドの力だった。
真の野望のために、若いアメリカを欲したリューポルドと獣人の一党は、この国ができたときから少しづつ、議会からマフィアに至るまでのあらゆる階層にひそかに浸透し続けてきた。
人間たちのあいだに入り込み、根を張り、人脈を作り、ネットワークを成長させ、大企業を経営し、世論を操作し、大統領と呼ばれるお飾りの権力者を操り、ときには戦争をさせ、強大な軍を育てあげてきた。方法のすべてはヨーロッパを捨て去ったリューポルドが目をつけたアメリカを大きく、強く、堕落した国にするため。
その目的は、キリスト教という恥ずべき歴史にまみれた、信ずるに値しない邪教を滅ぼし尽くすだけの力を蓄えるため。
だがそのために、リューポルドがどうしても対決しなければならない相手が、一つだけある。
彼を四百年ものあいだ執拗に追い回す、狂信者どもの集団、ゲヘナ。あの救いがたいキリストマニアどもの相手をするのも、いいかげん飽きてきた。そろそろひねり潰すのも、少しは楽しめる余興かもしれんな。
窓ぎわから離れて飲み干してカラになったミネラルウォーターのボトルを捨てたリューポルドが、ゴミ箱のわきのサイドテーブルに置いてある、半分ほどしかページが残っていない聖書の一ページを破りとり、クシャッと丸めてゴミ箱に捨て、朝の日課を終わらせた。
それを見はからったようなタイミングで、寝室のドアがひかえめにノックされ、有能な秘書のように落ち着いた声がリューポルドを呼んだ。
「おはようございます《枢機卿》。起きていらっしゃいますか?」
「起きておる。遠慮せず入るがいい、シモンズ。わしに何か伝えることがあるのだろう?」
「おっしゃる通り。では失礼をいたします」
リューポルドの第一の側近、獣人シモンズ・ウェイバーンが、その声と同じく静かにドアを開け、リューポルドの前に立った。
<続>
※ヘル・ヴォルフ=アドルフ・ヒトラーが名乗っていたあだ名。意味は「ミスター狼」
●PV3,511アクセス ユニークアクセス1,445人に到達しました。日々、みなさまのご一読に感謝しております。
●ポイントのみ評価、感想、レビュー、お気に入り、どれでも大歓迎です。