緊張の第一歩
お爺さんの屋敷は辺境伯家というだけあって、大きな山がいくつも連なる、それを背景に始点の運河水路が流れる風光明美な場所にあり、とても立派な屋敷だった。
王都には遠いが、近辺の主要な街までは40分もあれば着く。学校への通学も、寮ではなく屋敷からでも通えるそうだ。
スニプルの乗合馬車や、セルゴと呼ばれるラプトルが曳くトゥクトゥクのような三輪の乗り物は定員が3名だが、スニプルよりも速く、郵便や荷物はこれで運ばれる。
広大な国土ならではだな。
カインズ国ではムカデの魔獣を使った路面電車を見たので、てっきり、ここもそうかと思ったが、違った。
ラルド国では、移動は乗り合い馬車を使うことが多かったと思う。この辺りは国によるのだろう。
屋敷に到着して玄関の前で車を下りると、緊張してきたが、ここまで来ると成るようにしかならない。
いや、成し遂げる。
弟を守るとあの日決めたのだ。こんな幸運は二度とない。ラウルを連れて逃げたとして次の国まで行けるかは怪しかった。それでも死を待つよりは、生きられる望みのある方に賭けようと思った。
エルクと出会い、おじいさんと出会い、今日から貴族になる。
「ラウル少し抱きしめさせて欲しい」
この名前で呼ぶのも今日が最後か。
「そんなの聞かないでいいよ。はい」
両腕を出すラウルをきつく抱きしめ、頬に口づけ落ち着く。絶対に失敗はできない。
「僕もしていい?」
「アハハ、いいよ。俺の緊張が移ってしまうかもしれないけれど」
「じゃあ、僕が取ってあげるよ」
7歳になったばかりのできた弟に笑顔で抱きしめられ頬に口づけられる。頬に口づけはこの世界の親愛の証だ。
深呼吸をして、笑って待ってくれているお爺さんに、『お待たせ』と声をかけた。
お爺さんが屋敷に入ると、両脇に並んだ執事やメイド、パドラー給仕達が一斉に頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
働く人々の大合唱だ。
お爺さんが堂々と通り抜け、その後ろを、背筋を伸ばして歩いた。中央の大階段を上がった踊り場に立ち、俺達は並んで隣に立った。カルムス達は脇に控えている。
使用人たちが階段下できれいに並び、お爺さんの言葉を待っていた。
「皆の者、聞け。私が赴いていた大国ラルド国の王はドラゴンの群れに慄き軍を引き連れ自分だけ逃げた。国民の大多数は死亡し、置き去りにされたのだ。そして私もまた、戦いで大怪我を負うと、助からぬと置き去りにされた一人だ。だが死の間際に運命的な再会を果たした。この子はソルレイ、こちらはラウルツ。レイナの忘れ形見だ。他国の侯爵家が庇護をしていたのだ。此度、その侯爵家にも帰郷する中で礼を述べてきた。名は、エルクシス・フェルレイだ。もし、訪ねて来たら助けになるように。先も述べたが、私は死にかけた。命は助かったが、あと何年生きられるかも分からぬ。私の死後はこの子らに全てを譲る。全員に聞かせた、これが私の遺言である!」
使用人達からの視線が痛いが、それほど嫌なものではない。
好奇というよりは、次の主はこの子達になるのだなと見極めようとする目だ。
お爺さんが、新しく雇い入れた護衛や家庭教師だと皆を紹介し、知っているだろうが不肖の弟子だ、と言い、カルムスのことを紹介した。
俺の担当執事やメイド、ラウルについても同じで、執事長、メイド長によりそれぞれ信用の厚い者がこの場で名指しされ、決定した。
選ばれた4人が、俺とラウルの前に膝痲づき、
「宜しくお願い致します、我が主」と、忠誠を誓う。
「こちらこそよろしく」と返した。
これからは、貴族として生きていくため個別の部屋が与えられる。
いい加減、弟離れをしないといけない。
もう食事を作ってやり、口元を拭いてやることさえできないのだ。
平民とは全く違う生活になる。
俺はこの時、本当にそう思っていた。
しかし、蓋を開けてみれば、ラウルはしょっちゅう部屋に『お兄ちゃん!遊ぼう』と、来るし、一緒に寝ているのも黙認され、山や川で遊ぼうが怒られることはなかった。
やることさえやればいいぞ、というお爺さんの寛容と自主性を重んじるという名の激甘な方針のおかげで、カルムスがそんなことでは駄目だぞ!と言っても家庭教師のダニエルは俺達に処世術や切り抜け方を教え続け、俺とラウルは、よく学び、要領の良い貴族の子として暮らせる目途が立ちそうだった。
今日は、お爺ちゃんの部屋で寝ようとラウルが来ると、枕を持ってお爺さんの部屋へ行き、追い返されることも執事に注意されることもなく3人で寝るのだ。
翌日、起しに来たメイドがどちらかの部屋にいると思ったのにどちらの部屋にもいなくて焦るくらいだ。
「なんだか、思い描いてた貴族の窮屈な暮らしじゃないけど、こっち方が幸せだからいいか」




