短歌の考察してみた。寺山の柱時計のアレ。
著作権切れてないと思うので短歌はのせてません。
お手元の寺山修司詩集でご確認下さい。
寺山修司の短歌で、
柱時計を売る話あるじゃないですか?
貧乏で柱時計を売るとか、
振り子が横向きのときに音が鳴る筈無いのに、音が鳴ることの驚きとか、
枯野という表現が、田舎というか、逆に都会の味気なさを表すとか……。
そんな風に言われてますけど。
違うと思います。
映画「田園に死す」や演劇「羅生門」で、柱時計は家族の共有される時間のメタファーとして扱われています。
だから 柱時計を売りに行くのは、家族を棄てる、の比喩だと思います。
不意に鳴るのは、後悔とか罪悪感を感じているから。
枯野を行くのは、不安だから。
つまり、親離れして自立を始めた青年の不安を表現した歌かな?
個人の感想です。解釈違いあれば、ごめんなさい。
ご静聴ありがとうございました。
読むの?
て言うか、私の小説読んでほしい。