助 -Research Collaborator- @ひろかな
とある冬の夜。
外出先から自社の研究棟に戻った田崎眞は、道すがら飲み干したコーヒー缶を捨てに歩いていた。
そうして自販機ブースのそばにある給湯室から漏れ出てくる物音を聞き取る。誰かいるのか、と軽い気持ちで中を覗き認めたその姿に、途端肩に力が入った。
「なんだ、国枝か」
「田崎君」
声をかけると、同期入社で研究職仲間の青年――国枝浩隆がこちらを向いた。けれどその面に浮いた表情は少々複雑だ。同期とはいえ、会社の方針でお互いに未だ出身大学に通い続けている身。おかげで入社から半年以上が経った今でも、人となりを十分に知っているとは言い難く、その距離感を掴めぬままにいた。
「今戻ったのか?」
「ああ。今日は早めに引き上げるつもりだったんだが、例の事業の件で、教授が急遽ヒアリングしたいからって残されてさ。結局この時間までかかっちまったよ」
やや大げさな身振りで誤魔化すと、彼は気づいた様子もなく「おつかれさま」と返してきた。その手元、給湯室の狭いシンクの上には、小さな丸いポットが置いてある。うっすらと空間に漂っていた香りからして、どうやら紅茶を淹れていたようだ。そんな趣味があったとはと少々驚く。
「お前こそ居残り?」
「ああ。報告書をまとめてしまいたくて。それに」
「それに?」
「君が社に戻る予定だと、スケジュールにあったから……もしも時間が取れるようなら、アドバイスをもらおうと思って待っていたんだ」
遠慮がちに発せられた言葉に耳を疑い、思わず「は?」と問い返す。
「それでこんな時間まで……いやそれよりも、アドバイスって、俺に?」
「そうだけど」
「ちょっと待てよ。さすがにそれはないだろ」
「何か問題でも?」
きょとんとしている様子に、なんだよ、大層な天然キャラじゃねーかと苦笑し、同時に内心ため息をついた。
「お前さぁ、それって自分の立場をわかってて言ってんの?」
「どういう意味だ?」
「だってそうだろ。青田買いされて入社したお前に、俺ごときが何を言えるってんだよ」
そう、彼は学生の時分から研究者として一目置かれており、極めて平々凡々な自分の経歴とは比べるべくもない。同期とはいえ別な高みを臨んでいると言っても過言ではない存在なのだ。それなのに。
「青田買いと言うなら、君だって同じだろ。社の待遇は二人とも一緒じゃないか」
なおも食い下がってきた。確かに事実ではあるが、それとこれとは話が別だと、さすがに苛つきを隠せずに返す。
「あのなぁ。お前と俺とじゃレベルが違いすぎるって言ってんの」
出身大大学院への通学の継続と引き換えに、後の共同研究開発を見越したパイプ役を担わされているのは重々承知しているが、その期待度には差があるようにも感じていた。何かと華々しい彼には、事実上の比較対象たる自分の気持ちなど、到底わかるまいとも鼻白む。
「なぜそんなふうに言うんだ」
しかしそんな卑屈な物言いに被せられた、初めて接した率直な怒りに思わずたじろぐ。
「君が携わった基礎研究は、他に比してデータの精度が高い。それは試料の特性を的確に捉え、最適な試薬と効率的な工程を練って結果を採る、それらを総じて選る目と正確な実行力があるからこその帰結じゃないか」
「どこで、そんなことを」
「学生の頃から、公表される論文の中に君の名前をたびたび見かけていたからね。第一筆者であることが少なかったから、大半はいわゆる『偉大な貢献者』としての実績なんだろうと踏んでいたんだ」
「え」
「君が携わったどのケースも、多角的で堅実な基礎データに拠って論理構築されていた。すべての研究は、事実の裏打ちが不可欠。量、質共に万全でなければ論は揺らぎ理は歪む。誰しもが多くの時間と根気を要する収集作業を、効率よくかつ高い合理性と質を維持したまま獲得し得る者がいたなら、讃えるのは当然のことだろう」
唐突にもたらされた自分への賛辞。驚きのあまり言葉を失ってただただ戸惑っているとなおも続けられた。
「君の選眼と精巧緻密な思考力、行程管理力と実行性は、誇ってしかるべき才能だよ」
見つめてくる双眸には誠実さがあり、そして確かに自分への羨望も浮いていた。社交辞令やおためごかしではない真摯な評価に、ささくれ立っていた心が次第に鎮まっていく。
「……なぁ」
「なんだい?」
「それじゃ、その、俺からアドバイスをもらおうってのは本気なのか」
「もちろん。君の見識が、僕にはない気付きをもたらしてくれると期待しているんだ」
そう言って少し伏せた顔は、少し疲れているようにも見えて。かすかに滲んだ焦燥らしきものに、もしや手がけている研究の成果が思うように上がっていないのかと察する。
「今の僕には、どうしても必要だから」
強い欲求と賭ける熱。一体何にそこまでと考えて、いつの間にか興味を引かれ始めた自分に気がついた。そうして何気なく目に入った所作。ポットに触れているときの表情、特にも口元に浮いたそれにぴんと閃く。
「恋人のためか?」
えっ、と彼が驚き目を見開いて顔を上げる。ことさらに大きいその反応に確信を得て思わずにやりとした。
「まさか、マジな話なのか?」
「それは」
「まぁ、お前みたいな優良物件がフリーなわけもねぇか。それにしても随分わかりやすい反応だったな」
調子に乗ってからかってやると、彼が少しムッとした顔を見せた。
「別にそんなつもりは……入社以来、誰からもそういったことを聞かれたことがなかったし、言い当てられて少し余計に驚いただけだよ」
否定しないのな、と肝の太さに感心しつつも、そりゃそうだろと心の中で続ける。わざわざ自分から地雷を踏み抜きたい者などいない。存在が曖昧なままなら、その分だけ長く楽しく、好き勝手に夢を見ていられるのだから。
「ちなみに、どんな子?」
そうだなぁと少しの時間言葉を探して。
「かわいい、かな」
口にした瞬間にほどけた笑みが、これまで見たこともないほどに人気じみていて。それだけですべてわかると言うもの、気負いもさもありなんと一人勝手に納得した。
「なるほどねぇ」
おそらくは社内の誰よりも先に手にした彼の内情。とてつもない優越感にやにやしていると、彼が場を執り成すかのようにこほんと咳払いした。
「君も飲むだろ」
「へ?」
「紙コップで構わないな?」
「あ、ああ」
一瞬何を言われたのかわからなかったが、反射的に是を返してしまう。すると彼はすぐさま吊り戸棚から紙コップを取り出し、ポットの紅茶をそこに注いだ。こぽこぽと軽い音とともに漂った香りに、ご馳走してくれるつもりなのかと、今度は別の好奇心が湧く。
「Bitte」
差し出されたそれを受け取り、
「Danke」
好意に甘え早速一口含んだ直後、口の中に広がった渋みに眉を寄せると、どういうつもりだと睨みつけた 。
「Rache!」
「おま……っ」
「封開けしたばかりのオータムナルだったのに、君に気を取られて飲み頃を逃した。これに懲りたのなら、今後は紅茶を淹れている最中に、不必要で不毛な自虐をさらすのはよしてくれ」
そう言って見せたいたずらめいた笑みには、同年代らしい親しみやすさと人の良さが覗いていて。
「なんだよ、結構面白いヤツだったんじゃないか」
「え?」
いや、なんでも、と返しながら肩をすくめる。
「それよりもさ、せっかくの機会だから、カノジョの話を詳しく」
「いやだ」
「なんで」
「君は何かと交友関係が広いんだろ? いつ時間を作ってるのか不思議でならないが、学生の頃から飲み会の幹事をよくしてたって話を聞いてるし、研究の時の姿勢とは逆に、そっち方面はかなり動きが軽そうだし。変に噂立てられて彼女の耳に入ったりすると困るからね」
「うっわ。さっきまでさんざん人を持ち上げておいてその言い草かよ。褒めてんのか貶してんのかわかんねぇぞ」
「それとこれとは話が別だ」
自然に流れてゆく会話。上手く懐に入り込めたのか、思いのほか軽妙なやりとりが成立し始めたことに安堵する。
なんだ。構える必要なんてなかったな。
それから手の内に残っていた渋い紅茶を一気に飲み干すと、すっかり打ち解けた心境で挑戦的に告げた。
「それで、俺からどんなアドバイスが聞きたいって?」