春暖炉(はるだんろ) @TOEARTH SAGA
とある春の日。リシリタ王国の騎士であるクレード・ラスターシュは、自宅に持ち帰った残務を終えて書斎から廊下を進む途中、『彼』の部屋の扉が少し開いていることに気づいて足を止めた。
「アーツ」
「はい」
呼びかけると一瞬の間のあとで返事があった。パタパタと駆け寄ってくる足音が聞こえ、内側から開けられたその向こうから黒髪の幼子――養子であるアーツ・ラクティノースが顔を出す。
「なにかご用ですか?」
至極大人びた応対に戸惑いを隠せず、少しばかり思案をしてから返す。
「用というほどでもないんだが、ちょっと暖炉の部屋まで来ないか」
「え」
「レティシアもシリアも朝から出ているが、その……少し休もう」
ぎこちなさが勝る物言い。かすかな困惑を見せた彼だったが、すぐにとりなし答えた。
「はい。片付けたら行きますね」
なんとか断られずに済んだ、と内心胸を撫で下ろす。そうして、先に行っているよと残すと廊下を進んだ。台所に寄り、棚から茶器を取り出して盆に乗せる。
「いかにも不自然だったか?」
彼をこの家に受け入れた後、連勤でここ半月あまりはろくに話せていなかったのが悔やまれる。深いため息をつきながら、汲み置きの瓶から水差しに水を汲みつつひととき落ち込んだ。
「とはいえ折角得た機会だ」
しっかりしないと、と己に喝を入れ、盆を手にしていそいそと暖炉の間へ向かった。
*
「今日でおしまいですか」
ちろちろと燃え残る暖炉の火。その前に二人並んで座っていると、彼が口を開いた。
「ああ。もう朝晩が冷え込むこともなくなったからね。次の休みに片付けようと思っていたんだ。焚くのはこれで最後だな」
残った薪を燃やし尽くして灰を片づける。作業は昼食を取ったあとで夕方までにしようと考えていると、ふと視線を感じた。
「あの」
「ん?」
「その水差し」
ああこれか、と彼との間に置いていた盆に目をやる。
「これは知り合いの魔化魔術師にもらったものだよ」
「まか?」
「魔化魔術師というのは、物に魔法を込める力を持った魔術師のことだ。この水差しに水を入れて待っていると、そのうち湯が沸くというものでね。かまどの火を起こす手間が省けるからとても便利なんだよ」
「お湯に?」
呟いて素焼きのそれをしげしげと見つめる。子供らしい好奇心が浮いた表情、年相応のそれを前にクレードはひととき回想した。
彼をこの家に預かったのはもうひと月ほど前になる。はるか遠い異国から縁あってこのリシリタ王国へやってきた彼を、自分は上司の命を請けて養育することとなった。
あの夜、突如もたらされた申し入れに、自分は一度それを断った。王命とは申せ、自分にはまだ年端もいかない娘もおり、騎士団の役職にあれども、親代わりとして他人の――ましてや貴人の子を養育できる器も余裕も持ち合わせてはいないと訴えたのだ。
けれどひと目でもと強く押され、当事者たる彼と対面したその直後に思い至った。
ならば、いつならいいというのだ。
いつになったら、条件に適うと?
初めて対面した彼は、娘と同じ幼子ながら、既に思考も振る舞いも言葉遣いも大人顔負けであった。その身に負うものが佇まいに影響していることは確実であり、周囲からはおそらく歓迎されるだろうが、自分の目には少々、いや、かなりの違和感として映った。
まるで同じではないだろうか。
それまでの記憶の大部分を失くし、気づけばこの国にたどり着いていた自分。寄る辺など当然なく、己の身の置きようを苦心し、懸命にこの国の人々との距離を測りながら、半ば切迫感と同時にせめて望まれるべく――疎まれずに――あろうとしてきた、そんな自分と重なった気がしたのだ。
だからこそ、意は決まった。
「あ、湯気が立ってきましたよ!」
弾んだその声で我に返る。見ると、彼の表情は期待をおおいにはらんでいて、それが至極自然な高揚だということがわかった。他人の気配を読むのに大層長けた子が、こんなにも無邪気で初々しい顔を見せてくれる。そのことが純粋に嬉しいと、今改めて思えた気がした。
「アーツ」
「はい」
「どうやら沸いたようだし、淹れてみようか」
「はい!」
そうして茶器に葉を入れ、ゆっくりと湯を注ぐ。
「とてもよい香りですね」
「これは頂き物なんだが、ふくよかで、とてもきれいな色の出るお茶だそうだよ」
「色?」
「ああ。見てみようか」
取っ手を少し持ち上げて傾け、中を覗かせる。
「すごい。真っ赤だ」
ここまで色鮮やかに発する良質な茶葉は、王侯貴族向けの高級品だと相場が決まっている。そんなものがこの家にある理由はともかく、どうやら彼の興味を見事に引き寄せてくれたらしい。くるくると踊る茶葉を夢中で覗き込む様子に、こちらの頬と、そして口元がゆったりと解けた。
「アーツ」
「はい」
言葉足らずになるかもしれない、十分には表しきれないかもしれない。けれど、今ここで伝えたいとも思った。
「子供でいい」
「え」
「ここにいる間はそれでいいんだ」
怪訝そうな顔が覗く。だがそれを意に介さず続けた。
「君はまだ、ほんの子供なのだから」
はっと息を呑み、彼が慌てて身を引く。その顔はかすかにこわばり、察し、自らを恥じている様子が覗えた。折角見えた子供らしさを削いでしまったかと少し後悔しながら、茶器に蓋をして布をかけると自然言葉が途切れた。
場に漂う沈黙、香り、ちりちりと弱く鳴る残り火のうちに、やがて次ぐそれを見つけて。
「私も……親をいちから習う身だ。だから」
言って苦笑う。
「ゆっくりで構わない。家族に、ならないか」
静かに手を伸ばして黒髪を撫でた。すると彼の頬がかすかに気色ばみ、鳶色の瞳にちらと光が灯った気がした。それがうつむく前髪に隠されていく。
けれど。
「はい。とうさん」
目線を下げたままに返されたその言葉。照れている気配が感じられて、なぜだろうとても嬉しくなった。娘に対するときとは違ったむずがゆさが湧き、それをごまかそうと慌てて茶器に意識を向ける。
「ど、どれ、そろそろいい頃合いだろう」
二人分の器に茶を注ぎ、すぐさま片方を差し出す。顔を上げて受け取った彼は、「いただきます」と小さく口にしたあとでゆっくり一口含んだ。しかし直後その目元に僅かなこわばりが浮いたのを見、いぶかしながら自分も飲んでみると、口の中に広がったそれに思わず顔をしかめた。
「正直に言ってくれ」
落胆と共に器を下げると、少しの間を置いた彼が遠慮がちにつぶやいた。
「ちょっと……しぶい」
「いやこれは、だいぶ渋いな」
そうして二人で顔を見合わせるや吹き出し、ひとしきり笑った。
「言い訳がましいが、実はお茶を淹れるのは初めてだったんだよ」
「え」
「素人の出たとこ勝負なんだから、これは当然の結果だな」
ははは、と後頭部を掻き、それから思いつきを口にする。
「それでも時々、こうしてお茶会を開かないか」
「お茶会?」
「そうだ。ここが始まり。これからどのぐらいうまく淹れられるようになるか、ぜひ君に見届けて欲しいからね」
身を寄せて、少し声をひそめる。
「レティシアとシリアには内緒。二人だけの秘密にしよう」
すると彼の顔がぱっと輝き期待が浮いた。
「なら、僕もやってみたいです」
「え」
「時々僕にもやらせてください。その水差しも使ってみたいので」
「そうか。なら使い方のコツを教えておこう」
「はい!」
意気揚々とした返事と笑顔を受けて、身体に残っていた余計な力みがすっかり失せる。
親になる。
子になる。
いや、家族に。
ふたりともまだひよっこだが、これからきっと、おそらくは深く長く。
そうなりたい、そうでありたいと生まれた望みを胸に、クレードは手にした器を再び口に運んだ。
「やっぱり、渋いな」