赤野夕衣
「ステータス?レベル?…何よそれ。わけわかんない」
「予備知識がないとそうだろうね、うん」
長い黒髪を後ろで束ねたこの少女、赤野夕衣はこれまでライトノベルやゲームなどの娯楽に触れることなく過ごしてきたらしい。こめかみに触れることで表示されるステータスについてもちんぷんかんぷんのようだ。
「とにかくだよ。このステータスやスキャン機能、これらは俺たちが今まで過ごしてきた地球では考えられない現象なわけだよ。それこそ、ここがゲームの中の世界だったり地球以外の異世界でないとね」
「まあ、有り得ないことが実際に起きてるってことはわかるわ。で、このステータスとやらには何の意味があるのよ?ここから抜け出す役に立つわけ?」
「どうだろうね。定番の展開だとここでモンスターなんかが現れて命からがらそれを撃退。で、レベルが上がって強くなって…みたいなことが起こるわけだけれど」
「はあ、モンスターって…そんなのいるわけ――」
その時だった。
赤野さんの言葉が切っ掛けとなったかのように、そいつは姿を現した。
「ぎ…ぎぃ…ぐ」
と、不気味なうめき声とともに姿を現したのは、ヒト型の何かだった。
「ちょ、ちょっと!?何なのあいつ!?」
「見た感じあれがモンスターっぽいね、多分」
俺を盾にするかのように背後に下がった赤野さん。彼女の見つめる先にいる小型のモンスター。
大きさは俺の半分ほど、90cmくらいだ。顔面は醜悪で、腕が異様に太い。足は木の棒ように細く、あばらが浮き出た胴体は骨と皮だけのように見える。
そうだ、と俺は思いつく。
スキャン機能を試してみよう。
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◆ゴブリン
脅威度★☆☆☆☆
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「ゴブリンか…定番の序盤モンスターだね」
「ゴブリン…?何よそれ!?」
「あのモンスターの名前さ。スキャンで見た」
「あ、左のやつね」
赤野さんも左のこめかみに触れ、モンスターをスキャンする。彼女にも俺の見たスキャン結果が見えているはずだ。
「とにかく、ゆっくり話している場合じゃないみたいだね。あいつ、敵意丸出しだよ」
ゴブリンはじわじわとこっちに向かってきていた。どうやら素早い動きはできないらしく、ゆっくりとこちらに向かってきている。足の細さから、歩くのは苦手そうだ。しかし、あの太い腕は脅威だ。
「あの腕で掴まれたら、ひとたまりもなさそうだね」
「ちょ、ちょっと!?どうするのよ!?」
どうする、か。
「どうするも何も、逃げるか撃退するか。俺たちにできるのはその二つだけだろうね」
「撃退って!こっちには武器も何もないのよ!?」
「何か武器になりそうなものを探そう。大き目の石とか」
幸いなことに、ゴブリンの歩みは遅い。武器になりそうなものを探すだけの時間はある。
「む、無理よ…私、そんなの…なんでこんなことに」
赤野さんは恐怖で動けなくなっていた。俺がやるしかないようだ。
「下がって赤野さん。俺が何とかやってみるから、無理そうだったら逃げよう。もし俺があいつにやられたら、その時は一人で逃げるんだ」
「ちょっ、入間!?」
赤野さんは現状、戦力になりそうにない。
俺は足元に落ちていたこぶしくらいの大きさの石ころを手に持つ。
大きく振りかぶり、石ころをゴブリンに向けて投げつける。
ガン、と鈍い音がした。石ころがゴブリンにあたったのだ。
「ぐ…が…!」
ゴブリンは低くうなる。その頭からは緑の液体が一筋、流れ落ちていた。どうやらダメージは与えられたらしい。しかし、致命傷にはならなかったのは明白だ。
「何度か石を当てれば倒せるかもな」
次の石を探すために視線を下に向ける。その時だった。
「う!?」
「ぐぐぎぎ」
俺の体は、ゴブリンの異様に太い腕その両腕に挟みこまれていた。
一瞬のことだった。まだ距離はあったはず。ゴブリンのスピードはのろく、こちらに来るまでにはまだまだ猶予があるはず、そう思っていた。
間違いだった。攻撃を受けたゴブリンは、これまでの鈍さとは一転。圧倒的な速さで俺に近づいてきた。しかし、どうやって?あの細い脚でそんなスピードが出せるのだろうか。もしかすると、あの太い腕で地面を殴り、その反動で急接近してきたのかも…。だがもう、考えても無駄だった。
「あ、かのさん…逃げろ…」
か細い声しか出ないほど、肉体がきしんでいる。今にもつぶされてしまいそうだ。何とか声をひねり出す。
しかし、赤野さんの姿はどこにも見えなかった。もう逃げたのだろう。いい判断だ、そう思った。
「よか、った…」
俺はこのまま死ぬだろう。この世界がどこなのかわからないまま、物語が始まる前にあっさりと。だがこれも悪くない。
今まで一人でいることが正しいと思い、そうやって生きてきた。友人と呼べる人もおらず、信頼できる他人もなく。けれど最後に、誰かの助けになって死ねたのならそれはきっと悪くない人生だった。そう思った。
「ぎぎぎ…」
ゴブリンがその醜悪な顔をさらに歪ませる。俺を殺すことを喜んでいるようだった。
俺は最後を覚悟した。
ゴン、と音が響いた。
それは俺が体中の骨を折られ、内臓まで握りつぶされた音…ではなかった。
「ぐぎ…っ!?」
ゴブリンのうめき声が聞こえた。次の瞬間、俺を押し殺そうとしていた両腕の拘束が緩んだ。
「赤野…さん?」
大きな石を振りかぶった赤野夕衣がゴブリンの背後に立っていた。とっくに逃げたと思っていた彼女が、俺を助けてくれたのだ。
「あ、赤野さん、ありが――」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ、死ねっっ、死ねっ、死ねぇぇぇぇぇえええええええええ!!!」
ガン、ガンッ、ゴンッ、と断続的に音が響く。何度も、何度も。
見ると、ゴブリンはとっくに息絶えているようだった。頭を砕かれ絶命している。けれど赤野さんの攻撃は止まらなかった。
「死ねっ、死ねっ、この!!」
「あ、赤野さん。もうそいつ死んでる…」
「死ね、死ねっ、くっそやろおぉぉぉぉぉ――!!!……はぁ、はぁ」
赤野さんが血にまみれた石を手放し、肩で息をする。彼女の足元には、ゴブリンだった肉塊があった。ぐちゃぐちゃのそれは、ヒト型だった時の面影すらない。
「あれ…?私、何を」
「赤野さん、君ってとんでもない子だったんだね。あんな大きな石を軽々と、何度も何度もゴブリンに…」
「え…?って、ナニコレ!?」
「もしかして、覚えてないの?」
「え、えっと…入間がゴブリンに掴まれて、どうしたらいいかわからなくて頭が真っ白に。それで…」
「なるほど」
赤野夕衣。俺は彼女のことを、ちょっとだけ気の強い女の子だと思っていた。ゴブリンを見ておびえ、逃げ出すような普通の女の子だと思っていた。
それはどうやら間違っていたようだった。俺でも両手で抱えるのがやっとかというほどの石でゴブリンを殴りつける腕力、そして死ね死ねと連呼する性格の豹変。あれもまた彼女の一面だった。
「赤野さん、君ってキレるとやばいね」
「ちょ、何よそれ!?」
彼女だけは怒らせないようにしよう。
俺はそう固く誓った。