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公爵令嬢は婚約破棄したい

【コミカライズ】公爵令嬢は婚約破棄したい

作者: 烏丸じょう

 モートン公爵令嬢のエリザベスは大変美しい少女だった。彼女の祖母である前国王の妹姫も絶世の美女として名高かったが、エリザベスはそんな祖母の生き写しと言われていた。


 稲穂を思わせる波打つ黄金の髪は艶を帯び滑らかであり、黄金の瞳は長いまつ毛に縁どられ、淑やかでありながら見るものを捉えて離さない。

 その肌は陶器のように白く、ただ頬と唇に朱をまとうのみである。


 エリザベスの価値はその見目だけではなかった。母親であるモートン公爵夫人は、辺境伯、ウィルトン侯爵家の出身である。エリザベスの祖父である前侯爵は、救国の英雄といわれた元将軍でもあった。ウィルトン家は国境の守護を担うため、自領の軍のみではなく、国軍も指揮する武勲の誉高い一族である。事実、公爵夫人の実兄である現侯爵は、王国騎士団長を経て、現在は自領の軍の最高指揮官として、日々国境の守護にあたっている。現在は戦争が起こっておらず、国軍は編成されていないが、万が一の時はウィルトン侯爵の指揮下に入ることは当然視されている。


 英雄の孫、国の最高の軍備を司るウィルトン侯爵家の血縁、王家の血筋……。

 エリザベス・モートンは国内の女性の中で、現王妃と現王女に次ぐ、最高位ランクに属する身分の女性であると言えた。王位継承権も父や兄たちと同様に所持しているので、周囲からは王家と同等に見られている。

 いや、モートン家とウィルトン家の力を合わせたなら、実質王家を凌ぐことも可能であり、エリザベスが王太子の婚約者として望まれたのは当然の流れと言えた。

 しかし、エリザベスは七歳の時に結ばれたこの婚約が苦痛で仕方がなかった。


 エリザベスは貴族の令嬢らしく、政略結婚に対して当然と捉え、特に抵抗はない。博愛主義者ともいえるその広い心は、たとえ相手が醜く、年が離れていたとしても相手を受け入れることができたであろう。だが、愛されることしか知らない少女は、憎悪に近いような瞳を向けられることには、まったく慣れることがなかった。


 王太子フレドリックは、切れ者として知られ、冷酷な美貌と冷徹な知略でまさに未来の王としての風格を持っている。ほとんど笑わないことで知られ、騎士としても王都で並びなき勇猛果敢な人物として、国内外で恐れ敬われている。


 来年フレドリックが十八歳になり、エリザベスが十六歳になるので、それに合わせて盛大に結婚式が行われる予定である。しかし、この十年近い婚約期間で、エリザベスとフレドリックの心が近づくことはついぞなかった。


 エリザベスは歩み寄ろうと、初顔合わせの時も飛び切りの笑顔で王太子に目通った。フレドリックは漆黒の髪と青い海のような瞳の美しい顔立ちの少年だった。ただその美しい顔に笑みが浮かぶことはほとんどなく、エリザベスの渾身の笑顔にもそっけなく声をかけただけにとどまった。


 そんな、残念な始まりにもめげず、エリザベスは機会があれば婚約者としてフレドリックとの親交を深めようとしたが、王太子の態度は一向に軟化する気配はなく、反対に彼がエリザベスを見つめる眼差しに苦痛が見られるようになっていった。


――嫌われている相手となぜ結婚しなければならないのだろう。


 エリザベスは、この結婚が王家の威信を守るためのものであると知っていた。王権の安定は国の安寧のために必須である。決して無意味な婚姻ではないと頭では理解できたが、モートン公爵家にもウィルトン侯爵家にも特にメリットはない。王家が忠誠を得るための「人質」がエリザベスなのだ。ならば逆に王太子と自分が結婚することは、自分の身内にはデメリットでしかないとも感じられた。


 そんなある日、王家主催の舞踏会が開かれ、エリザベスは王太子の婚約者として参加することになった。王太子のエスコートで入場し、そのままファーストダンスをする。


 王太子の瞳の色に合わせた青いドレスはエリザベスの肌に映え、彼女の艶やかな美しさを一層際立たせた。


 ダンスの間中、微笑みを絶やさずに王太子の瞳を見つめ続けたエリザベスに、王太子が微笑み返すことは一度もなかった。ただ、その瞳はやはり苦痛を湛え、エリザベスの方にじっと向けられていた。


――愛想笑いの一つもできないほど嫌いならさっさと婚約を破棄してくださればいいのに。


 そんなこともおくびに出さず穏やかな笑みを崩さないエリザベスは、淑女として完璧すぎるのだろう。もっと早く不機嫌な顔ができていたなら状況は変わっていたかもしれない。


 しかし、並々ならぬ血筋と家格を持ち、長年王妃教育を施されてきたエリザベスには、ただの少女のように感情を露わにすることは不可能に近かった。


 ダンスが終わり互いに礼をして、エリザベスは次に長兄のラウルの手を取った。エリザベスの相手は王太子の後は身内で固められ、他の男性が彼女の手を取ったことは今まで一度もない。今や未来の王妃として、現王妃に次ぐ位を持つエリザベスを護る布陣は鉄壁に敷かれ、女性といえども簡単に近づけるものではなかった。


 兄との気楽なダンスなら周りを見る余裕もある。ふと見れば、フレドリックが見覚えのある女性とダンスを踊っていた。フレドリックの王立学院時代の学友であり、伯爵令嬢のリディア嬢だった。王立学院は十二歳から十五歳まで通うことになっており、貴族でも平民でも能力さえあれば無償で教育を受けられる。卒業すれば、事務官として宮仕えも夢ではないので、狭き門となっていた。また貴族の中でも爵位を継ぐ者たちは必ず王立学院を卒業する必要があったので、男性の貴族はほとんどが通っている。エリザベスの二人の兄たちも王立学院に通い、無事に卒業している。


 リディア嬢は、女性ながらその王立学院に通い、フレドリックと同級だったという。成績は大変優秀で、首位のフレドリックに次いでいたというほどだ。


 女性の場合仕官できるわけではないが、場合によっては研究者として大学院に行くこともできる。また女学院などの教師となることも可能だ。


 エリザベスは学院に通ったことはない。未来の王妃が他の子弟と机を並べて学ぶことは安全の面で問題がありすぎた。また特殊な王妃教育を受ける必要があったため、十二歳からは毎日王宮に通い詰めでもあった。

 王宮に通ったからと言ってフレドリックと二人きりで過ごす時間はほとんどなく、王妃や王女との仲ばかり深まり、二人とは本当の母娘、姉妹のようになった。

 もともと王妃はエリザベスの母の親友であり、フレドリックとエリザベスの婚約も、母たちの意向が大きく影響していた。


 リディアと踊るフレドリックは、珍しく笑みを湛えていた。それはエリザベスの神経を逆撫でするのに十分であった。


「リズ」

 ラウルが囁く。

「眉が寄ってるよ」


 エリザベスは慌てて顔をつくった。花が綻ぶような笑顔をつくる。

「ごめんなさい。兄さま」

「まあ、どんな顔でも美しいけどね」

 妹を溺愛している兄は、蕩ける様な笑顔で応えた。


 曲が終わり、次のパートナーである父の手を取る。フレドリックがリディアやもう一人の男性と喋りながら、壁の方に移動するのを目の端で確認した。リディアは時々楽しそうにフレドリックに寄りかかっている。随分話が盛り上がっているようだ。


 エリザベスは心が冷めていく感じを覚えた。


――随分気安いのね。リディア嬢が良いならさっさと私を解放してくださればよいのに。


 フレドリックから笑顔を向けられた覚えなど一度だってないエリザベスにとって、婚約関係を続けることも近い将来に結婚することも苦痛でしかなかった。何か理由をつけて白紙に戻ることをいつも願っていた。


 しかし、そんな心の冷えもエリザベスの微笑を湛えた美しい面差しからは誰も推測することはできない。今、娘の手を取っている父親自身もまったく想像していないだろう。

 それほどエリザベスは完璧な「王太子の婚約者」であった。


「お父様、喉が渇いたわ」

「じゃあ少し休憩しようか」

 公爵は娘を夫人のいるソファーの方に案内しながら、目配せをして侍従を呼ぶ。二人の侍従に後を任せて、自分は夫人とともに社交に移った。


 エリザベスは飲み物を受け取り、ほっと息をついた。すぐにラウルがやってきて横に座った。

「ご機嫌は直ったかい?リズ」

 ラウルが子供をあやすような甘い声で声をかける。

「あの王太子にお気に入りがいようがいまいが、彼の妃になれるのはお前だけだよ」


「お兄様、私は『王妃』になりたいわけではないわ」

 エリザベスは無邪気な笑みを浮かべながら言った。

「ただできれば、私を愛してくださる方と結婚出来ればそれでいいのよ」


 端から見れば、なんと無欲な令嬢というように思われる。実際それはエリザベスの本心であり、エリザベスには野望も欲望も何もない。昔から我儘一つ言わず、ただ貴族として、気高く、慈悲深くあるということだけを常としてきた。


「ああ、僕が実の兄じゃなければ絶対にリズを花嫁にするのに!お前を思う気持ちだけは誰にも負けない自信があるよ」

 お道化たようにそう言う兄を見て、エリザベスは心が温まるのを感じた。


「さあ姫君。そろそろ伯父上が君の手を取りたそうにこちらをチラチラ見ているけどどうする?」

 ラウルは立ち上がると、エリザベスに手を差し出した。

「そうね。次の曲で最後にして、そろそろ邸に戻りたいわ」

 エリザベスは兄の手を取って、伯父のダンスの申し込みを受けるために立ち上がった。

 

 踊り終えた後は再び兄にエスコートをお願いし、王太子の元に行く。

「殿下、私はそろそろお暇いたします」

「……ああ」

 フレドリックは不機嫌そうな顔でエリザベスとラウルを一瞥した。

 エリザベスは気にせず美しいカーテシーを取ると、華やかな微笑を周囲に振りまきつつ、その場を後にした。

 国王と王妃にも挨拶を終え、両親に声をかけ、兄と一緒に自邸に戻った。



 自室に入ると、ドレスのままベッドに突っ伏す。フレドリックの顔を思い出し、胸がムカムカするような気持ちになる。


――何とか婚約破棄できないかしら。


 リディアが良いというなら喜んで身を引く気持ちがある。リディアじゃなくても誰でもよい。自分があの男の婚約者から外れることができさえすれば。


 エリザベスはあの不機嫌な顔の男に愛想笑いをすることにホトホト疲れ果てていた。


 王太子の「恋人」の噂はやがてエリザベスの耳にも入るようになった。あれから何度か夜会があったが、二度目のダンスはいつもリディアの手を取り、そのまま他の学友を含めて、集まって語り合っているので当然だろう。


 伯爵令嬢であり、優秀な学士でもあるリディアは側妃として申し分ないと言う者もあった。

 ある夜会の折、帰り際にエリザベスはリディアから声をかけられた。


「エリザベス様、お待ちください」

 エリザベスは立ち止まり、ゆっくり振り返る。何か言いたそうな顔のリディアに優しい笑みを向けた。


「お名前を伺ってもよろしいかしら」

 お互い顔を見知っていたが、話をするのは初めてであった。


「リディア・ハリスンでございます」

 ぎこちなくカーテシーを取るリディアにエリザベスは優美な礼を返す。その姿は「貴族令嬢のお手本」と呼ばれるとおり、素晴らしく洗練されていた。

「エリザベス・モートンです。はじめまして。殿下と兄のご学友でいらっしゃるリディア様でいらっしゃいますね。今後とも二人をよろしくお願いいたします」

 屈託のない笑みを浮かべ、小首をかしげる様子は見る者を魅了し、リディアも思わず見とれてしまい、言葉を紡ぐことができなくなった。

「あ、あの」

「リディア様、申し訳ないけど、少し疲れておりますの。失礼いたしますわ」

 エリザベスはラウルの手を取り、馬車に乗り込んだ。

 正直、リディアに関しては応援こそすれ、特に憎しみも嫌悪も感じない。

 エリザベスの心は、どうすれば婚約を解消できるかだけに向かっていた。



 夏の社交界も終わりに近づく頃、エリザベスはいつものように王太子と夜会に参加することになった。今夜のドレスは黒地に金糸の刺繍が施された豪奢なものだった。

「エリザベス」

 珍しくフレドリックから名前を呼ばれ、息を飲む。

「……顔色が冴えないようだが」

「あら、夏の疲れが出たのかしら。ご心配なさらないで。元気ですから」

 心なしかその笑顔も弱弱しく感じ、フレドリックはエリザベスの手を少し強く握った。エリザベスは笑顔を貼り付けたまま、ゆっくり目を逸らしホールへ歩みを進めた。


 ファーストダンスの後、いつものように手を離し、兄の元に行こうとしたが、フレドリックが握ったまま離さない。エリザベスは小首をかしげて、もう片方の手を添え、「どうかご遠慮なさらずに大切な方の手をお取りください」と王太子の手を外した。

 

 兄の手を取り二曲目を踊りだす。しかしその動きはたおやかであれど、いつものような華やかさに欠けていた。そして、曲が終わるころ、身体の力を失くしたようにエリザベスは倒れこみ、ラウルがそのまま抱え上げ、急いで連れ帰ることになって一時ホールは騒然となった。

 

 エリザベスの体調に関しては王都中に噂が駆け巡った。だが誰もはっきりしたことはわからない。公爵家も固く口を閉ざし、夫妻も長兄も社交に姿を見せることもしばらくなかった。

 そして、ひと月ほど経って、王家にエリザベスの体調を理由に婚約を白紙としたい旨の打診があった。



 エリザベスは、公爵家の自室で眠っていた。部屋付きの侍女がたびたび様子を見に来るが、ぐっすり眠っているようなその様子にただ見守るしかできなかった。

 ラウルからは、エリザベスのことはあまり心配せずにただ静かに見守っていてほしいと言われていたが、それでも優しく愛らしい主人の姿がいつも通りでないことは耐え難かった。


 夜になって皆が寝静まると、エリザベスは目を覚まし、部屋に置かれていた軽食を口にした。

「あーよく眠ったわ」

 母に見られたらはしたないと怒られそうなほど大きな欠伸をする。


 エリザベスは実はどこも悪いところはなかった。昼夜逆転の生活をし、食事を少し減らしただけだった。そう、婚約を白紙に戻すためにエリザベスが選択したのは「仮病」だった。


 目立たないように食事を減らし、痩せた姿を見せ、睡眠不足のまま人前に出る。

 狙い通り、皆エリザベスがどこか身体を悪くしたのだと思い込んでくれた。


 エリザベスが夜会で倒れた日の翌日、ラウルにだけは婚約が苦痛である旨と、白紙に戻したいと思っていることを伝えた。


 王太子とリディアの関係を不快に思っていたラウルは渋る両親を説き伏せ、王家に婚約を白紙に戻す申し入れを行ってくれた。


 つい先日のことなので、まだ王家からは返事がないが、もうすぐ自由の身になるだろう。

 エリザベスはほとぼりが冷めるまで、病気療養という名目で部屋に引きこもることに決めていた。その後はどこかの貴族に嫁に行くのでも修道院に入るのでも、自分を嫌いな男に嫁ぐよりもよっぽどマシだと思っていた。


 先週、次兄のリナルドが見舞いに来た時のことを思い出す。

 リナルドは近衛騎士団に所属しているので普段は王宮に居住している。フレドリックとも同い年の幼馴染で、学院でもその後もずっと一緒だったので周囲が親友同士と思うほど二人の仲は良好だった。


 リナルドはエリザベスがフレドリックとリディアの噂に心労を覚え、倒れたのだと考えているようで、フレドリックの肩を持つようなことばかり言っていた。


「リズ、殿下とリディア嬢のことは気にするな。殿下は普段は切れ者だけど、こと女に関しては鈍いんだよ」

 近衛騎士としての責務のために、長兄ほど頻繁に社交に参加できないリナルドは、フレドリックとリディアが実際夜会でどんな様子だったかほとんど知らない。しかし、学院での二人を知っているリナルドには、フレドリックが誰を思っているかよくわかっていた。

「……まあリディアについてはあれだけど」

 リディアについてなんだと言うのか。エリザベスには正直リディアがフレドリックをどう思っていようと興味はなかったので、疑問に思っても問い質すことはしなかった。


「リナルド、いい加減リズを寝かせてやれ」

 ラウルが不機嫌な声で言った。

「お前はそろそろアンジェの所に向かわないといけないんじゃないか?」

 アンジェはウィルトン侯爵家の令嬢でエリザベスの一つ下の従妹である。リナルドの許嫁でもあった。赤みを帯びたブラウンヘアに緑の目の美しい少女で、辺境の薔薇と呼ばれ、エリザベスとその美しさで並び称されるような令嬢である。エリザベス達兄妹とはもちろんとても仲が良く、特にリナルドとは周囲の誰もが未来の夫婦と認めるほど仲睦まじかった。


 リナルドには婚約解消のことは伝えず仕舞いだったので、帰ったらきっと煩く言われるだろうと思うと気が滅入ったが、この公爵家において、ほとんど権限を持たない次兄のことを気にする必要はないとも思っていた。


 エリザベスが仮病であることを知っているのは長兄だけだ。周囲は皆リナルドと同じように噂による心労によるものだと考えていた。公爵も夫人も王太子がそんなことするはずがない、ただの噂だとエリザベスを慰めようとしたが、エリザベスの完全な味方であるラウルに押し切られ、婚約を白紙に戻す打診を止めらなかった。


――これでよかったんだわ。


 思いの外、感慨も喜びも何もない。ただ少し虚しさを感じるだけだった。思えば十年近く、王太子の婚約者として過ごし、不機嫌な男の横で、令嬢然とした微笑を湛えてきた。一体この年数はなんだったのかとも思う。我慢せずに最初から嫌だと言えばよかったのではないかとも思う。だがどう考えようとも過ごしてきた時間が戻ることはない。


 翌日の午後、エリザベスがサンルームの籐の椅子でまどろんでいると、ラウルがやってきた。

「残念ながら王家は婚約を決して白紙に戻さないと言ってきたよ」

 フレドリックからだという薔薇の花束がついて来たよと、王家からの手紙を読み上げた。


「花は見たくないわ。気分が優れないから一人にしていただけませんか」

 エリザベスは不機嫌に言った。

「王太子がお見舞いにいらっしゃるけど、どうする?」

「……会いたくないわ」

 今更会ってどうするというのだろう。エリザベスは憤りで気分が悪くて仕方がなかった。このままでは本当に病気になってしまうだろう。


 常にないエリザベスの強い口調に、ラウルは眉を寄せた。

「リズ、今回の王太子の無神経さには僕も不満を感じるけど、いつまでも逃げていても何も変わらないよ。一度王太子にお前の気持ちをはっきり言ってやるべきだと思うね」

「……私を憎んでいるのに国のために結婚したいという人に何を言えというの?」

 ラウルは一瞬呆けたような顔をした。


「……あー、リズ。彼はお前を憎んではいないよ。……わかりにくい男ではあるけど」

「今まで一度だって、微笑まれたことがないし、いつも不機嫌な顔で睨まれるばっかりよ。こちらが話しかけてもそっけないし、笑いかけても目を逸らす。そんな人が欠片だって私のことを思っているわけないじゃない。今まで贈り物はたくさんいただいたけど、カードだって名前が添えられてるだけよ。手紙だって一度だっていただいたことはないわ!」

 一息にまくしたてると、ラウルは慄いたように身じろいだ。

「……それは確かに酷い話だね」

「正直、あの顔を見るだけで胸がむかつくの。愛想笑いももうできないわ。彼に嫁ぐぐらいなら修道院に入った方がましよ」 

 ラウルは気まずそうに扉の方を見た。エリザベスも見ると扉が少し開いていることに気付いた。絶望した顔のフレドリックが外に立っているのが見えた。


「……フレドリック殿下、聞こえましたか」

 のっそりとフレドリックが部屋に入って来た。エリザベスは驚きと羞恥で声が出なかった。


「エリザベス……」

 懇願するような眼をしたフレドリックは籐椅子の横にひざまずいた。

「すまない。君がそんな風に思っていたなんて……」

 苦痛で歪んだ顔には後悔の念が読み取れた。

「私が不甲斐ないばかりに君がそんな風に辛く思っていたなんてまったく気付きもしなかった。私は婚約者失格だ」


 エリザベスはいつもと違うフレドリックの様子に戸惑いを隠せなかった。一つの言葉も紡ぎだすことができない。


「私が君を婚約者にと望んだから、君は私の気持ちを理解してくれていると勝手に思っていた。……思いを伝えようと何度もしたけど、君の顔を見るだけで緊張して言葉が出てこないし、微笑みを返す余裕もなかった。……ただ君を見つめることしかできなかった」

 フレドリックはエリザベスから目を逸らし、そう語った。


――緊張していたって?今まであれだけ一緒にいたのに、ずっと緊張していたと言うの?


 エリザベスは今度は呆れて声が出なくなった。あまりの馬鹿馬鹿しさに脱力してしまった。フレドリックが自分を「婚約者に望んだ」というのも初耳だった。親たちが決めたものではなかったのか。


「エリザベス、私は君しか見ていないんだ。どうか婚約を白紙に戻すなんて言わないでくれ。私の前からいなくならないでくれ……」

 縋るようなその声に、エリザベスは憑き物が落ちたような気がした。十年近いわだかまりはすぐには解けないが、憎まれていたわけではないということは何とか理解できた。

 それでも少し、意地悪をしてみたくなった。

「あら、フレドリック様にはリディア様がいらっしゃるのでしょう? あんなに楽しそうにしていらしたじゃないですか」

「リディアは違う!……ただの学友だ」

 フレドリックは慌てたようにそう言う。


「でもねフレディ、リディア嬢とのことは僕もまだ怒っているし、彼女が君に懸想していたことは知っていたんだろ?」

 ラウルが王太子殿下と臣下としてではなく、幼馴染であり婚約者の兄としての顔で言った。


「毎回彼女が私にダンスを申し込みに来るのは単に学友の気安さからだと思っていたんだ」

 基本的にファーストダンス以外は王子には令嬢からダンスを申し込むことができる。王子から申し込むことも可能だが、婚約者がすでにいる現在は来賓ぐらいにしか申し込まないルールになっている。

 言い訳じみたその言葉は、リナルドの言う「鈍い」を証明している。


「エリザベス、信じてくれ。私は彼女と二人きりになったことは一度もないし、意識したこともない!」

 エリザベスは夜会で自分を呼び止めたリディアの顔を思い出し少し可哀想に思った。あの顔は恋に焦がれた女の顔だった。


――殿下も罪作りね。


 冷徹と呼ばれる美貌の王子に微笑まれたら、恋する乙女なら期待せずにはいられないだろう。事実、自分には向けない笑みにエリザベスは嫉妬したのだ。


 エリザベスはハッとした。そう「嫉妬した」のだ。


――私も手に入らないと思っていたものに恋い焦がれていたのかしら。


 なんだかあれほど白紙に戻したいと思っていた関係も、もう一度だけ頑張るべきなんじゃないかと思えてきた。でもまだ素直にその気持ちを声に出すことはできない。


「どうかどうか私にもう一度チャンスをくれないか。私は君のことをあ、あ、あっ……」

――愛してるんだ。

 ふり絞るように出されたその声はエリザベスの耳にだけ届いたようだった。そして耳まで真っ赤になってまだ下を向いたままの王太子にエリザベスは無性に抱きしめたい気持ちを持った。


「フレディ、聞こえないよ」

 ラウルが意地悪く言う。肩を震わせるフレドリックを見て、エリザベスは苦笑した。

「……兄さま、もういいわ。私は聞こえましたから」

 フレドリックはハッと顔を上げて、エリザベスを見た。さらに顔が赤くなった。


 その様子に愛しさを感じ、エリザベスが微笑みかける。

「殿下、ではこれが最後のチャンスです。どうぞこれから結婚まで、毎週恋文を送ってくださいませ」

「恋文⁉」

「はい。私、殿下から文をいただいた覚えがありませんから」


 フレドリックは情けない顔をして脱力した。

「……いつも書こうとしたんだ。でも君を思うとどんな言葉もこの気持ちを言い表せない気がして……」

「長くなくても結構ですので頑張ってくださいね」

 にっこり容赦なく言い渡した。


「……わかった。……それよりも体調はどうなんだ。また少し痩せたようだが……」

 エリザベスはどきりとした。今更ただのダイエットだとは言えない。


「……少し、食欲がなかったものですから。殿下が慰めのお手紙をくださったらすぐによくなるかもしれません」

 小首を傾げ、しおらしく言えばフレドリックは頷くしかなかった。


「毎週必ず文を送る。君の体調が戻るよう薬も届けさせよう。だからどうか早く元気になってくれ」

「ありがとうございます。殿下からの文を支えにして、病に打ち勝ちますわ」

 エリザベスは渾身の笑顔をフレドリックに向ける。フレドリックは顔を真っ赤にして、目には涙が溜まっていた。その様子を見てラウルはこっそり溜息をついた。


 フレドリックの文は確かに週に一度必ず届くようになった。最初は半信半疑だったエリザベスもだんだん楽しみに待つようになってきた。


 秋が過ぎ、冬が近づく頃にはエリザベスの体重も生活も元の通りに戻り、多少の外出はするようになった。

 フレドリックとは文のやり取りしかしておらず、あれから直接会ってはいないが、直接会うよりも気持ちが近づいていくような気がした。


 そして、年の最後の月になり再び王室主催の舞踏会が行われることになった。エリザベスはフレドリックと参加することになっている。


 今回はエリザベスの体調が戻ったことをお披露目する意味もあるので、万全を期して参加しなければならない。侍女たちはいつもよりも念入りにエリザベスの肌を磨き、髪の手入れをし、七色の花のような美しいドレスを着せ、その髪に七色の生花を飾った。

 まさに花の女神といった装いに誰もが息を呑んだ。


 王宮に着くと、フレドリックが出迎えた。エリザベスの姿を見ると驚愕したような顔をしてしばらく固まってしまった。


「えっ、あ、その……」


 声の出ない様子にもエリザベスは根気強く待った。内心おかしくて笑いだしそうになるのを我慢して。

 フレドリックは深呼吸をすると、やっと言葉を口にした。


「……信じられないくらい綺麗だ。エリザベス」


 眉根を寄せて苦しそうに呟くフレデリック。以前は不機嫌なだけに見えたその顔も、蓋を開けてみれば単なる恋する男の顔だったのだ。――若干わかりにくくはあるが。


「ありがとうございます。殿下」

 エリザベスはまさに咲き誇る花のような華やかな笑みを浮かべ、フレドリックの手を取った。


 そうして二人は並んでホールに入る。完璧な姿の、まさに女神の佇まいのエリザベスを見て会場中から溜息がもれた。


 ファーストダンスで見つめ合って踊る二人の姿は誰が見ても思い合う恋人同士に見えた。


 王太子の新たな恋の噂は、王太子が婚約者に献身的な看病をしたという噂に掻き消されていた。

 そしてこの日の二人はファーストダンスが終わっても離れることはなかった。王太子が婚約者の体調を気遣って早々と二人で一段高い王家の席に戻ってしまったのだ。


「……ご挨拶がまだ終わっていない方もいらっしゃるのだけど、いいのかしら?」

「いいんだ。もう君は私としか踊らなくていい。私も君としか踊らない」

 エリザベスは苦笑する。社交界に初めて出た少女たちは王子と踊ることを楽しみにしているのにと諫めるように言った。


「それは父に頼んであるからもう大丈夫」

「父や兄たちも残念がってましたわ」

 フレドリックは少し不機嫌な顔になった。

「……実は私は君がラウルたちと踊る姿を見るのが嫌だった」

 意外な告白にエリザベスは目を丸くした。


「家族ですのに?」

「……だって君は、彼らに対しては本当の笑顔を見せるだろ?私には作り笑いしか見せてくれなかったのに」


 恨みがましく言うその姿に、エリザベスはムッとする。

「あら、微笑み返してくれない方に心からの笑顔なんて出ませんわ」

 プイと横を向いて言えば、ずっと繋ぎっぱなしだったフレドリックの手に力が籠る。

「……まだ緊張が解けてるわけではないんだ。今だって心臓が痛いほど脈打っているし、顔が引き攣っているのは自分でもわかっているんだが……」


「ではせめて結婚式までには緊張を解してくださいね」

 そう言って、振り向きざまに不意打ちのようにフレドリックの頬に口づけた。

 悪戯が成功した子供のように笑ってフレドリックの顔を見ると、真っ赤になって、でも嬉しそうに微笑んでいた。


 了


フレドリック視点の短編、「王子様は捨てられたくない〜不器用な王子と婚約者」をアップしてます。

合わせてお読みいただけましたら幸いです。


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大変多くの方にお読みいただき大変有り難く思っております。

評価、ブックマーク、感想、誤字報告等も本当にありがとうございます!

これらを励みに今後も頑張ります。

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― 新着の感想 ―
可愛いお話にほっこりほっこりしました(◍︎´꒳`◍︎) すぐに謝罪できる王子殿下で良かった!ヘタレのままだったら後悔してもしきれない所だったねwww
かわいー! でもそんな男は捨てちまえ! みたいな 王子視点読んできます! ヒロインの間隔はまともで素敵だけど、今のところ王子には勿体無いな!
好きすぎて目の前にいると照れるから微笑めない、書きたいことが多すぎて手紙が送れないって 現実だと典型的な「まともに相手をしたくないけど利用できるから関係を引っ張りたい女」への言い訳だなぁ。実際は浮気し…
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