認知症の人々8話
認知症と云っても、百人百様である。今もある個性、忘れ去られた個性、症となって新たに加わった個性、それらが織り交ぜられて、優れて個性的である。お世話する人は大変だろうが、これも老年の個性と受け止めたい。 短編小説となっているが、ドキュメントである。
1 校長先生後藤田さん
私は仕事の最後の5年を、社会福祉士として介護の世界に携わった。
デイサービス、特養、グループホーム、ホームヘルプとほぼ1年ごとに職場を代わった。雇用が1年契約の契約社員ということもあったが、グループホームのように夜勤が合わなかった場合なんかもあった。
その中で認知症になった人で、接した思い出に残る人を書いて見ようと思う。断るまでもなく全て仮名である。
デイサービスに生活相談員として勤務した。生活相談員とは書いて字の通りである。契約、利用の説明、ご家族の相談、地域包括センターとの連携等が仕事としてあるが、それ以外の時は、入浴介助や他のスタッフと同じ仕事をこなす。だから、ヘルパー2級は必須である。
デイサービスに来る人は認知症とは限らない。それでも2割ぐらいは居られる。認知症でなくても歳行けば幾らかの認知傾向は出るものである。
そんな中に後藤田さんという方が居られた。そこのデイサービスでは窓には全てロールカーテンが付けられていた。雲行きが怪しい。雨になるかもしれない。スタッフは全ての窓にロールカーテンを降ろす。
後藤田さんは雨が降りそうになったり、降ってくると家に帰ると云って聞かない。何故、雨なのか?は分からない。ともかく「帰る」の一点張りで、スタッフを手こずらせる。
後藤田さんはとぼけた校長先生風である。スタッフのあだ名は『校長先生』。普段はテレビの前が定席である。筋は解っていないみたいだが画面は分かる。「神社や」「湖や」と独り言を言いながら見ている。一番は字幕である。字幕が出ると読み上げる。難しい漢字でもオッケーである。外国映画の「吹き替えなし」は後藤さんにとっては最高の番組である。
「あんな好々爺になって」と、同じデイの利用者さんの寺井さんは云う。後藤田さんはとある大企業の部長さんであった。寺井さんはその部下で、「それはえぐい親父でね。灰皿が何回飛んで来たか」と会社での後藤田さんを語った。とってもそうは見えない。「ハッハー」と雨の時以外は、最高にやり易い利用者さんであった。
「後藤田さん、食事ですよ」
「わー、ご馳走やね。君も食べたらどうかね」
「後藤田さん、おやつですよ」
「美味しそうやね、君も食べたらどうですか」と言った調子である。
車で家まで送る。家は古い〈しもた家〉で大企業の部長宅とは思えない質素なものである。迎えに出て来た奥さんがこう言われた。
「認知症と言いますが、ボケて貰ってどれだけ私らは幸せか。昔は鬼、今は仏様。少々の世話は苦になりません。神様に感謝しています」と。
私は歳とって、ボケるなら後藤さんのようにボケたいと思う。
*一話一人です。
2 口の減らないトクさん
社会福祉士の資格を取るために通信教育を受けていたときのことである。
グループホームの研修に行った。特養に併設されたホームである。天王山で知られる山崎の地にある。売りは安藤忠雄さん設計の打ちっぱなしコンクリートのモダンな建物である。竹林の中にコンクリートの色がマッチしている。
1階に9室、2階も9室。真ん中の共有スペースを囲むように部屋がある。囲まれた共有部分(ここで食事などがなされる)に上手に採光がなされている。さすが、高い設計料のことはあると思った。建物はモダンでも中の住人はモダンとはいかない。
ここは出来るだけ皆でするが決まりである。洗濯も、干すことも、おたたみも、お掃除も皆でする。洗濯ものを畳んでいると、洗えているのか・・白いものが一杯ついている。トクさんのズボンのポッケトにいつもティッシュが入っている。
「アカンやろぅが」とハルさん。「洗濯する人がポケットを見なんだのが悪いんや」とトクさん。私がベランダを箒で掃いている。箒の持ち方、履き方がなってないとトクさんに指導される。洗濯物を干す。干す向きが悪いとこれも指導。これではどっちが利用者さんか分からない。フロアー長は笑って見ている。
トクさんは、カラは小さいが態度は大きい。
「父は横浜の貿易商。私をとっても大事にしてくれたわ。私はフェリス女学院の出なのよ。そして母校で教鞭取ったのよ」が自慢である。グループ長に聞くと本当だという。だから注意は与えても、自分では作業はしない。だから皆からはあまり好かれていないが、そんなことはお構いなしに超然としている。
ここは玄関に鍵がかからない。出入りがあるとチャイムがなる。職員の出入り、来客の出入りもある。
「徘徊で外に出ていく人がありませんか?」
「鍵をかけると閉じ込められた感じがして情緒不安定を助長するの。鍵をかけているからと職員も安心してしまって、かえって悪いの。玄関に神経が行くでしょう。誰が出て行った。部屋にいるのは誰と誰、と云う具合に神経が行き届くの。出て行ってもハルさんのように玄関外の椅子に座りきりの人もいるでしょう。徘徊する人はトクさんと石岡さんの2名。この人が出て行く時は注意ね」とフロアー長は話してくれた。フロアー長は40半ばの女性でケアマネの資格を持っている。なかなかの人であった。
ハルさんは天気の良い日はいつも玄関先の長椅子に座って、淀川方面を見ている。京都からの桂川と、奈良からの木津川・宇治川が合流して、大阪湾に流れ込む淀川となる。大阪に息子さんがいて、そのお嫁さんがよくできていて、月に1回は会いに来てくれるとはなす。玄関先のこの椅子ではいつもこの話である。
何回か聞いていて、思った。ハルさんは月1回でなく、もっと来て欲しいのだ。「大阪でも、茨木よ。近いんだよね」の言葉がそれを語っている。表に出ても椅子から先には行かない。いつも待っているのだ。
チャイムが鳴った。「トクさんね。北風さん一緒に行きましょう」と外に出た。トクさんはスタコラと前の道を早足で東に向かっている。車も通って危ない。「北風さん、これも実習。連れ戻して来て。ここで見ているから・・」とグループ長。
何と言って連れ戻そう。長も見ている、腕の見せどころ。
「トクさん帰りましょう。車も危ないし」
「私、子供じゃないの。道は車も通るわよ」
ごもっとも。
「あなた、私の後をどうして着いてくるの」
「一緒に散歩しょうと思って」
「散歩ならもっと素敵な人としたいわ」
ごもっとも。
「そろそろ帰りませんか」
「あなた職員でもないのに私に指示するの」
ごもっとも。
見ていたグルプー長が助けてくれて何とか施設にご帰還。
「外出から帰ったのよ。あなた、冷たい飲みものぐらい出しなさいよ。しっかりしてね」
注釈
*フェリス女学院:1870年(明治3年)、女子校として最も古い歴史を持つフェリス女学院の発祥とされる(のちに男子部は明治学院となる)。1875年(明治8年)、アメリカ改革派教会外国伝道局総主事であったフェリス父子の支援によって、横浜・山手178番に校舎・寄宿舎が落成、「フェリス・セミナリー」と名づけられ、フェリス女学院中学校・高等学校の基となった。昭和40年には四年制大学ができた。横浜では由緒正しき名門中の名門である。
3 嘆きの源さん
場所は同じ安藤忠雄設計のグループホーム。今回の主人公は石岡源三郎さん。
夕暮れどき症候群というのがある。夕暮れ時になると家に帰りたいと言い出すのである。子供でも、大人でも公園なんかでポツンと一人でいたら、夕暮れどきには何だか急に家恋いしくなる。怖いオッカーが家にいてもである。
まして認知症、自らが希望して入った施設ではない。家に帰りたくなるのも致し方ないのである。これの極端なのが石岡さんであった。
「家に帰る。タクシーを呼べ」と職員に言う。
「石岡さん今忙しくて手が離せないの。自分で電話かけてくださらない」と職員は答える。
石岡さんが自分ではかけられない事を知ってである。タクシー会社の電話番号は大きく書かれている。数字も読める。でもかけられないのだ。「早くやめてかけろ」というのが精一杯である。そして認知症の人はすぐ忘れる。部屋にすごすごと帰る。食事も終わって今日は「帰る」は終わったかと思うと、又出てきて「家に帰る。タクシーを呼べ」という。職員はお茶を飲んでゆっくりしている。
「石岡さん、お茶を飲みませんか」「後でいい。すぐ電話をかけろ」「お茶ぐらいゆっくり飲ましてくださいよ。石岡さん入れますから一緒に飲みましょう」
このお茶はよく使われる。お茶を飲みながらよもやま話をして関心をそらすのである。その内「帰る」は忘れ去られることになる。
今日の石岡さんは執拗だ。お茶作戦に乗ってこない。
「自分でかけては」と職員。
「かけないなら歩いて帰る」になる。
「外は雨ですよ。傘が生憎出払っちゃって、貸せる傘がないのですよ。暫く待ってくれませんか」職員は必死である。
「濡れて帰る。お姉さんとこに帰る」石岡さんはお姉さんと一緒に暮らしていた。認知がひどくなって入所してきたのである。
「帰られてもお姉さんはおられませんよ」
「そんなことはない。何でお前が知っているんだ」かなり機嫌が悪い。
「この前来られて時、この時期は旅行に行くって言っておられませんでしたか。嘘だと思ったら電話してみてください」
「電話をかけられない」とは石岡さんは言えない。大人のメンツを知っている。
その内、源三郎さんは泣き出して、そしてしわがれ声で歌いだした。
『雨あめ ふれふれ 母さんが 蛇の目でお迎え嬉しいな ピチピチチャプチャプランランラン♪』
注釈:グループホームは認知症の人を対象としている。費用は大体15万円前後が多い。老後のことを考えれば、年金でこのぐらいの金額はキープしたいものである。
4 道に詳しい小宮山さん
後藤田さんを書いたデイサービスである。小宮山さんは若い。40代半ばである。若くして発症した人を『若年性認知症』という。働き世代だから大変である。男性なら経済的支柱を失うことになり、女性なら主婦を失うことになる。本人も大変だが周りも大変である。45才以上から65才未満でも介護保険が適用される。
小宮山さんの場合奥さんがお仕事をされていて経済的には成り立っている。お仕事の関係でお迎えも送りも駅でする。そこからふた駅帰られる。この条件を聞いてくれる事業所が私の勤務するデイであったのである。駅構内に大きい車はつけられないので小型車で一人の送迎になる。
小宮山さんはおとなしい。来ても本も読まない。みなとも会話もしない。ただじっと座っている。来てそうそう職員が無警戒で、徘徊を許してしまった。こんな時は大変である。もしもの事故を心配するのである。所長を筆頭に職員3人が手分けして探した。幸い近所の公園で休んでいたところを見つけられた。認知は急速に進んでいるようであった。
時間的にも定期の送迎コースではないので、私が小型車で送って行くことが多かった。
「真っ直ぐに行く。右に曲がる。信号を左に進む。道3本横切る」。助手席でブツブツ言っている。道を忘れないように憶えているのである。行く道を変えた時はうるさい。「違う、ここも違う。これはデタラメだ」。だから一定の道順しか取れない。小宮山さんはご機嫌だ。
「よし、合っている」「北風さん運転上手ですね」という具合である。駅構内、バス停横に奥さんが立っている。
「家内です」
「綺麗な奥さんですね」
小宮山さんはむちゃくちゃ嬉しそうな顔になる。
「お世話様でした」と奥さんが私に言ってくれて、二人は帰っていく。二人は幸せそうに私には見える。
5 法科卒新井さん
前はグループホームでも研修であった。今回のグループホームは職員としての勤務であるから夜勤があった。デイサービスの事業所では男性利用者さんも多く同性介助であったが、グループホームではそうはいかない。私は経験のないこともあって、お年寄りといえ、女性の入浴介助を苦手とした。半年ほどでやめたのである。
この事業所は医院が経営し、大阪の街中に5つ程持っていた。医院は古手の看護師の活用策として人材に困らない。グループホームは儲かるのである。私が介護事業をやるとすればグループホームをやるであろう。まず、利用者さんに困らないことである。それから老人施設のように規模も、人員面でもコンパクトに済むのである。
大体、ワンユニット9室、2層で構成される。個室の面積に厳格な基準はないので建物によっては効率的に部屋数を取れるのである。ここは商店街の脇を入ったビルで、1階を同じ経営のデイサービス、2階、3階をグループホームに使っている。デイサービス横に通路があり、奥のエレベーターを使う。玄関通路のドアーはロックされている。職員はナンバーボタンを押して出入りする。
老人施設は郊外での施設が多いのであるが、街中にあって家族の住まいも近く、その分面会も多くなる。ここに70歳の男性が入所されてきた。身だしなみもなかなかなお洒落である。認知症になられるとこの面では構わない人が多い。勿論、周りの人の配慮にもよる。
施設に入ると、ついジャージーになってしまう。何を着ると相談されても、職員も扱いやすく、着やすいものについなってしまう。彼は個室に大きなタンスを持ち込んでいて、前の日から明日着るものをハンガーにかけてセットしている。ズボンはプレッサーにセットされている。コーディネートを相談されていい加減な返事をすると叱られる。新井幸太郎さんのこだわりである。
朝は誰よりも早い。珈琲を所望され、珈琲を飲みながら新聞を読まれる。幸太郎さんは関西の私学の法科を出られている。認知が出て奥様が見られていたが、やはり手に負えなくなってこられたのである。スーツに着込んで梅田まで行きたいと言われる。職員は決まりでそれは出来ないと説明する。
「僕は妻とここに見学に来て、入所は僕が決めました。一度もそのような決まりは聞いていませんね」
「・・・・・・、デモ、鍵がかかっていて出れないのです」
「誰が鍵をかけたのかね。それでは君たち職員の方も出入りに困るでしょう」
「・・・・・・、はぁー。職員は鍵を持っています」
「それじゃ、それで開けて下さい」
「決まりで出来ないのです」
「僕は買いたいものがあって梅田に行きたいと言っているのですよ。終われば帰ってきますよ。ここが僕の住む所です。帰ってきますよ。他に何処に行くのですか」
「入り用なものでしたら奥様に連絡して次回持って来て貰いましょう」
「きみぃー、何の権利があって僕の梅田行きを邪魔するのかね。基本的人権の侵害ではないのかね」
「何もそこまで・・」と職員。
「あれこれ云って行かさない。おまけに鍵までかけている。これでは閉じ込めではないかね。僕はそんなことを頼んだ覚えはない」。段々と興奮、職員に掴みかからんばかりである。
他の職員がマーマーと珈琲を持って来て勧める。してはいけないことなのだが眠剤が入っている。しばし珈琲を飲まれた後、「何だか眠くなった。梅田行きは一眠りしてからにする」。
眠りから覚めた幸太郎さんは梅田行きを忘れている。
その幸太郎さんが気付かない内に外に出てしまわれた事がある。玄関ドアーの傍で待ち受けていて、業者さんが出るときに一緒に出てしまったのである。職員は大慌て、どこを探してもいない。
「電車に乗って梅田に行かれたんやろか」。
「デモ、電車の乗り方はわかってるんやろか」。
何事もないことを願った。1時間もした頃、商店街で買い物して袋を持ってにこやかに帰って来る幸太郎さんを職員は見つけた。それからは商店街で買い物希望の時は職員一人が同行することになった。
幸太郎さんの『梅田行き希望』はなくなった。
6 一晩中喋るお母さん・・いつ寝てるのかな?
僕の同級生にMさんという栗原小巻に似た人がいる。今や私たちの同級会は季節ごとに行われる。あれは5年ほど前だったか、最近母の様子がおかしいと相談を受けた。Mさんのお母様はMさんの妹さんの所に同居されていた。
妹さんは、「『お前は、また私のお金を取ったわね。親子だからいいけど、いるなら云いなさいね』と、母が最近わたしをドロボー扱いにするの、そして所作にもおかしいところが見えるの」とMさんに告げた。
典型的な認知症の初期症状である。今でこそ、このことが一般的に認知されてきたけど、知られなかった昔はこのことでどれだけ家族が揉めたことか。特に嫁、姑となると最悪の悲劇となる。こんな例を私は友人の身近な例でも見てきた。
本人は確かにここに仕舞ったと思っている。物忘れ現象が起きていることに気づいていない。「おかしい?」となる。そんなことが2回、3回と起きる。外から人が入った気配がない。「嫁やろか?」になる。私たちでも絶対ここと思った所にない。一瞬「ドロボーやろか」と思う時がある。言われた方の人も認知が出ているとは最初思わないから、揉めることになる。中に入った男性は最悪となる。
「認知症だと思う」と云って、物忘れ外来を勧めた。
「お歳は幾つ」
「90なの」
「お身体は」
「食欲旺盛、元気そのものよ」
「その歳では寝たきりでの人も多い。そのお世話よりいいと思ってね・・。悪いけどそう長く生きられるお歳でもないしね」
「妹にそう言うわ」
今年、お母様の話になった。いつまでも妹も大変ということで今はMさんが引き取った。妹さんが近いことがあって。Mさんが外出するような時は妹さんが見られる。最近ではディサービスに週2回行くようになったとのことである。
「それはいいことやね。外でお喋りすると気も晴れるし。手作りの物も作ったりする楽しみもあるしね」と私が言うと、
「母が帰って来て云うの。『あそこは私を働かすのよ。こないだは団扇を作らされたわ。今日はお人形さん。内職させられたのに何もくれないの』ってね、でもね、向こうでは『皆でこのようなモノを作れて楽しいですわ』だって。男の人も居られるからかしら、着ていくものにもうるさくなってね」とMさんは笑った。
「モノ取られの方はどうなの?」と聞いた。
「私には取ったとは言わないの。取るのはもっぱら妹。『大体、お前はボーとしてるからね。その内妹に全部持って行かれないように注意しなさい』だって、あれでは妹も怒るわよ」矛先が妹さんでよかった。
「でもね、だんだん進行して行って、お手洗いの場所も分からなくなったらどうしょうかと思うの」とMさんは寂しく呟いた。
「お身体は?」
「元気」
「それは良かった。何よりやね」
「でもね、ふすま隔てた隣の部屋で一晩中喋ってるの」
「Mさんは眠れてる」と私。
「最初は気になったけど、今は眠れてる。でも不思議、一晩中喋っていてどうして身体持つのかしら?」
「ちゃんと寝てられますよ」
「いつ?」
「Mさんが眠っているとき」
「・・・・・・そうよね」
先日、同級会の連絡で電話があった。
「母がね。最近トイレの場所も分からなくなって、一泊では無理、みなにも逢いたいし」ということであった。一泊の中に日帰りオッケーのコースを私は付け加えた。お母様95歳、食欲旺盛、他に病気なし。
7 歳ねー、今日はいくつにしょうかしら・・
小規模多機能という制度ができた。施設への「通い」を中心として、短期間の「宿泊」や利用者の自宅への「訪問」を組合せ、家庭的な環境と地域住民との交流の下で日常生活上の支援や機能訓練を行うと書かれている。
富山で地域の介護を要する老人のために、居宅を開放して、出来ることはやってもらうことにした。するとワイワイと賑やかしく、自立性が極めて高まった。勿論、認可外である。
役所のオリジナルなんて福祉や介護に関してはほとんどない。いいのを見つけて制度化する。乏しい予算はつくが、規制も多くなる。通所で15名まで、泊まりで9名以下(2階に4,5つの部屋を持って臨時、短期のお泊りをしているところが多い)。看護師は常勤でなくてもいいが置かねばならない。要介護度によって利用料金が違う。介護度が軽い人では事業者の経営は苦しい。重い人では人手が大変である。地域住民(その市町村内)しか利用できない。
そこに、最初勤めた。軽自動車で送迎をやるのだが、事業所に近い利用者さんがあった。退職した息子さんと二人暮らしである。歩いて数分なので車はいらない。彼女はバギーを押して、横で私が見守る。
途中、色々と話す。80代半ばだが、日によって歳が違う。一番若いのが今もこれから仕事に行くので55歳。行くのが大義な日は95歳。実に40才の間で自由なのである(そうなのだ、歳なんて国が決めるものではなく、自分で決めて良いのだ、と思ってしまう)。
島崎雪代さん。年齢不詳である。
息子の独身については「男前でない、性格が悪く、稼ぎが少ない。あれでは来てがない」と手厳しい。それに比べて亡くなった亭主は「男前で、気風がよくて、働き者だった」とベタ褒めである。
どこで知り合ったのですか、と訊くと、この近くにある大きな工場で一緒に働いていたとのことである。雪代さんが男振りを見初めて誘ったそうである。その時を話すときは少し頬を染めて、恥ずかしそうにされる。
どこか可愛げのある、明るい田舎のお婆ちゃんである。
彼女が闘魂逞しく、燃える時がある。それは風船バレーである。何人かに別れ椅子に座ったままで風船を団扇で扇いで敵陣に落とす。一応テーブルの上には青いネットなどを設えて臨場感をだす。チームに別れて点数を競うことは皆好きであるが、雪代さんは格別である。
最初はにこやかにやっている。次にはひとの風船にも乗り出す。熱を帯びてくると奇声を発して、最後には団扇でなく手を使う。これを他の人が反則と非難すれば、「何ゆうてるの、ホントのバレーボールは手でやるもんやで!」と言い返す。
普段は穏やかな雪代さんだが、ご主人を篭絡したのも頷けた。
8 わたしはボランティアで来ているのよ
深井君子さんはこの『小規模多機能』に来ている。ボランテイアで来ていることになっている。一緒に住んでいる娘さんが、少し認知が出して通所することを考えたが、君子さんは長年仕事を続けて来たキャリアウーマンである。
プライドが高い母のことを考えて、施設がボランテイアを募集していることにして通わせたのである。
施設の介護員メンバーは知っているが、利用者さんには伏せてあくまでボランテイアになっている。君子さんは機嫌よく通ってきて、他の利用者さんと楽しく会話をする係になっている。
君子さんはそれだけでは物足りないのか、何かとメンバーの仕事を手伝いたがる。洗い物をする。戸棚にどのように入れていいのかわからない。コップはどこ、お茶碗はどこと決められている。教えて貰ってもすぐ忘れる。
介護員のAさんは「手伝って貰ってもまたやり直しや」と愚痴る。君子さんは積極的だ。介護員の目のないときには、利用者さんのトイレ介助までしようとする。本来は認知のある利用者さんである。介助で事故があったら責任を問われる。ある意味、利用者さん以上に気配りをしなければならない。
でも、機嫌よく通ってきて、少しでも役に立とうという姿勢は立派だし、何とかと考えた娘さんの気持ちもわかる。それを受けた長も(一人でも受け入れたい計算があるのだが)いいと思う。少し問題はあるけれどこのままボランテイアで来て欲しいと私は思う。
Aさん、ちゃんと利用者さんとしての料金は頂いているのですよ。
後記:認知症になられたからと云って全てが病気になられたわけではない。健常な部分も多く残されている。そのことを書きたかった。勿論、切ない面も多いのも確かである。私たちは仕事と割り切れる救いがあったが、世話をなさるご家族はいろんな感情が交錯し大変だと思う。
了