第九話 麗しき香りに包まれて
8-9 麗しき香りに包まれて
鼻腔をくすぐる薔薇の香りに、スズネは閉じていた目蓋をゆっくりと開ける。
しかし彼女の目には何も見えない。
それほどに、広い空間。
「ここは…………」
魔力で視力を強化しても、やはり何も見えない。風も感じられない。感じるのは、耳に届く波の音だけだ。
スズネが後ろを振り返ると、先程飛び込んだ巨大な門があった。門は既に閉じている。
「スズ姉様、ここが、聞いてた場所?」
「うん。たぶん」
ブランが目元を装備の袖で拭いながら聞いた。
すぐ隣にいる互いの姿は見えている。
スズネが上へと視線を向けた。
そこにあるのは、あらゆる光を飲み込むような漆黒だけ。光源らしきものはない。
それでも、何かがあれば二人の目にはっきりと映った。
二人が立っているのは硬い岩の地面。少し先で途切れており、左右を見ても果ては見えない。ただ真っ直ぐ、どこまでも続いている。
二人は慎重に崖の淵まで歩いていき、その下を覗き込む。
「……高いね」
「うん。それに…………」
超人的な視力が無ければ暗闇にしか見えないほどの遥か下で、岩の壁に当たっては砕ける真っ黒な波。
波が砕けるたびに、二人の元へ薔薇の香りが届いた。
その水の奥には、幾つもの強力な気配がある。
「迷宮を攻略したばかりの頃だと、ヤバかったかな」
「うん。今なら、なんとか、なる?」
「ここらにいる奴らくらいならね」
言外に先の方の相手はわからないと告げ、スズネは踵を返した。
「少し休んでから行こっか。どうやらここは安全みたいだし」
「わかった」
二人は軽く食事をとり、ポーションと〈瞑想〉スキルによってある程度魔力を回復した。
その後崖の淵に立ち、下方をじっと見る。
「ブランちゃん、準備おっけ?」
「うん……!」
「それじゃ、いくよ!」
そしてスズネの声に合わせ、手を繋いだ状態で空中へと身を投げ出した。
アーカウラと同じか定かではない重量に引かれ、落ちていく。
遠に二人の体が生み出す空気抵抗と重力の力は等しくなっており、終端速度に到達している。
それでもまだ、落ち続ける。
視覚的に二人が感じていたよりも長い距離を落ちていく。
「見えた! ブランちゃん!」
ブランが魔力を操り、多重の障壁と結界を生じさせた。
結界で重力の弱められた中、二人はいくつもの障壁を打ち破る。
障壁に当たるたび落下する勢いは弱まった。
そして最後の障壁を貫通した瞬間、スズネが〈ストレージ〉から大きな何かを取り出す。
その何かは真っ黒な海を波立たせ、二人を受け止めた。
船だ。
甲板には床に取り付けられた扉以外に何もない。広さも学校の教室より少し大きいくらいで、殆ど戦闘に支障ないだろう。
その船自体は苔のような色をした金属で出来ている。
「ふぅ。ブランちゃん大丈夫?」
片膝と両手をついた着地体勢から身をお越し、スズネは少し離れた位置にいるブランへと声をかけた。
「うん、大丈夫。障壁、起動させてくる」
立ち上がりながらブランが答えた。そしてそのまま甲板にある扉から船内へと潜っていく。
障壁で勢いを殺したとはいえ、かなりの速度で落ちてきた人間二人が着地してもビクともしなかった、そしてこれから数多の怪物ひしめく海を行くための船。その素材となった金属は、異世界アーカウラに元々あった伝説級の金属を基にし、古代竜レテレノの素材を混ぜ込んでアルジェが錬成したものだ。
地球の化学知識を利用して創られたこの金属は軽く、ひたすらに堅い。同時に、僅かな弾性を持つ。
展性や延性には乏しいが、怪物たちの攻撃を凌ぐには問題ないだろう。
更に、今ブランか起動した船体全体を覆う球形の障壁と、船に薄く纏われるような障壁。
球形の障壁は外からの威力減衰を主眼に置いており、もう一つは空間断絶の強固な障壁だ。
よほどの事がない限り、破られる事は無い。
「スズ姉様、ただいま」
「ブランちゃんおかえりー。いつ見ても凄いよね、これ」
スズネが無色透明の障壁を見回しながら感心の声を漏らす。
「うん。姉様、やっぱり凄い……!」
いつものように憧憬を含んだ声だ。
加えて、スズネと会ってすぐの頃には無かった感情が混じっている。
「〈付与〉自体は叔父さんがやったみたいだけど、術式組んだのはお姉ちゃんだったね。……ブランちゃんならすぐできるようになるよ! 結界のスキル的には、ブランちゃんのやつの方が優秀なんでしょ?」
「……うん。特化してる分そうだって、姉様が言ってた」
「ね!」
ブランに笑いかけ、スズネは、後方、船内に入る扉へ向けて歩き出す。
「ほら、そろそろ出発しよ。なんか色々集まって来てるし?」
「うん」
◆◇◆
「[光輝く剣]!」
異界の闇を二振りの輝剣が切り裂き、いくつもの目を持つ巨大なタコの様な怪物が海の底へと消える。
輝剣の描いた軌跡は尚も続き、別の怪物を真っ二つにした。
「あぁ、もう! しつこいなぁっ!」
次から次へと襲いかかってくる異形の怪物たち。スズネに休む暇はない。
現在、航海を始めて三日が経っている。
初めは時折単独で襲ってくる程度だった。しかし二日目の終わり頃から、群れを成して延々と襲ってくるようになったのだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
また一体、無数の棘が生えた殻に覆われ、その内から何本もの人の腕を伸ばす怪物を斬り伏せる。
これで何体目かはもうスズネにもわからない。
「はぁ、はぁ……まったく。馬鹿みたいに頑丈な船を作ってくれたお姉ちゃんには感謝しなきゃね!」
そう言いながら次の怪物の触手を切り飛ばすスズネ。その顔には笑みが浮かんでいる。
そして本体をレーザーの魔法で貫き焼いた。
続けて隣の怪物を焼き払おうとして、気づいた。
たった数秒前に切り飛ばした触手に鋭い牙が生え、スズネを背後から襲う。
(くっ! 間に合わない!)
スズネの魔法に照らされて赤黒い、テラテラとした組織を見せる触手が大きく口を開けた。
スズネの障壁では間に合わない。加えて数時間戦い続けたことで溜まった疲労が身体の動きを阻害する。
そして、そのままスズネの背を食い破る、筈だった。
「スズ姉様……!」
悍しい牙はスズネから十センチほどで止められる。
触手は自身を阻む障壁を無理矢理喰い破ろうとするが、ヒビ一つ入らない。
「ブランちゃん、ありがと!」
もう数体をレーザーで焼き払ったスズネは、振り返りながら剣を一振り。触手にトドメをさした。
「もう時間?」
「うん!」
船頭から船尾、床の扉あたりにいるブランへとスズネは声を張った。
「なら、最後に一発おみまいしとこっかな!」
姉の意図を理解したブランは、スズネを守るように〈結界魔導〉を発動する。そして自身は二振りの相棒を手に周囲の怪物たちへ斬りかかった。
長期戦だ。[精神攻撃]は使わず、姉たちに叩き込まれた刀の腕だけで立ち回る。
瞬きする間に白黒十本を超える軌跡が描かれ、ブランを四方から襲う触手は細かく斬り刻まれた。
数本の触手はこれで怯んだが、そうで無いものもいる。
これを跳躍して躱し、触手へ着地。そのまま伝って走り、船の淵に捕まる猫の頭のような姿をした巨大な本体を袈裟斬りで真っ二つにした。
二年前なら出来なかった事に、ブランは自身の成長を感じる。
「ブランちゃん、いけるよ!」
ブランの耳にスズネの声が届いた。
スズネを覆っていた障壁が弾け、彼女を襲っていた怪物達を押し出す。
ブランは障壁の操作とともに身を伏せた。
障壁によって防御しているとはいえ、危険な態勢だ。しかし問題には思っていなかった。姉を、その力を信じていたからだ。
「[邪穿つ輝剣]!」
[光輝く剣]とは比べ物にならないエネルギーを込められた剣が円を描く。
その高密度のエネルギーはスズネを中心に広がり、ブランの頭上を過ぎる。
怪物達のその身は切り裂かれるに止まらず、焼き尽くされ、消滅していく。
破壊の円はそのまま船から百メートル程の所まで減衰しながら広がり続けた。
遠い位置にいた怪物を仕留めることは叶わず、海底から船を襲うモノはそのままだが、多くを屠った事に変わりはない。
スズネは疲労を隠しきれないながらも満足げな表情を浮かべ、ブランへ向き直る。
「それじゃ、五時間よろしくね」
「うん。ゆっくり、休んで」
床の扉を開け、船内へ戻っていくスズネから目線を外し、ブランは気を引き締めなおす。
時間を決めて、交互に休みながら戦う。
終わりの見えないこの旅を乗り越えるために二人が選んだ方法だ。
ブランの番が来るのは二度目。
彼女はこの旅路の先に居るはずの長姉を思い浮かべ、自身を鼓舞した。
戦いは、まだまだ続く。
読了感謝です。





