2章ー46話 「追憶:五百年前のとある呪い」
憎い、憎い、憎い、憎い………!!
殺す、殺す、殺す、殺す………!!
あの人間、あの男、グリシラ・サリスタン…………!!
二人組が過ぎ去ってから一時間が過ぎようとしていた。
それでも一瞬の空白もなく、リジェネの頭には先程の男への恨みが流れ込んでいる。
脳の回路が怨嗟の思いで満ち、憎しみの感情が止まることはない。
リジェネの体は徐々に回復していたが今すぐに立ち上がれるほどではない。もともとリジェネの能力は『増殖』大半、『再生』はほとんど付属品のようなものだった。
その上、今は体にエネルギーが足りない。せめて何か生物の血肉を取り込めば、再生は劇的に早まるのだが――
そんな時、
――コツン、と何かが歩く音がリジェネ以外に誰もいないはずの場所に響く。
「あっ…、ああ…。な、何これ…、なんて恐ろしい姿なの…」
遅れて、リジェネの耳へとそんな声が届いた。
震えるような女の声。
その声音には明らかにリジェネに対する怯えの色が浮かんでおり、恐怖が滲んでいた。
それは、反射的な行動だった。
――好機だ! こいつを殺し、喰らう!! そうすればあの男を追い、後ろからその体を貫ける!!
そこに立つ何者かの姿を確認せずに、体に残った力をすべて絞り出し、立ち上がり爪を立てる。
今のリジェネにはグリシラ・サリスタンに対する恨みしかなかった。それだけがリジェネの体を突き動かした。
だから、こんな短絡的な行動に出てしまった。
ただの弱者がいきなりこんなところに現れるはずもないのに―――
「なっ…」
「こ、殺そうとした…!? いま、私を! やだ、怖い! 何もしてないのに、いきなり襲いかかってくるなんて…! そ、その爪が当たってたら、わ、私、死んでたじゃない!! やだ、怖い…、なんで、なんでそんなことするの…、怖い、怖い、怖い、怖い……!!」
リジェネの爪は空を切る。そして、その瞳を驚愕に染める。
怯えていたはずの女の綺麗な、しかし恐ろしく白い指先がリジェネの胸を穿っていた。
いや、その言い方には誤りがあるかもしれない。
女は未だに怯えている。芝居とは思えない明らかに恐怖心を纏った声音で独りでに呟き続けている。その瞳にさえも明らかに恐怖の色が浮かんでいた。
感情と行動が全く一致していない。そんな印象を受ける。
そこでリジェネの瞳がようやく女の姿を捉える。
まるで病気でも患っているかのような白い肌。そして、流れるような紫色の艶のある長髪。
顔の造形は整っているが、そこにさえもリジェネに対する怯えが浮かんでおり、全体が歪んでいる印象がうかがえる。
身なりは白い簡素な作りの法衣のような物を纏っており、武器らしきものは持っていない。
とても強者とは思えなかった。
「ぐっ、ぐああああああっ!!」
そんなリジェネの内心とは裏腹に、女はリジェネの胸から自分の指先を勢いよく引き抜く。新たにできた傷から血しぶきが上がり、激しい痛みがリジェネを襲った。
しかし、女は何故か心配そうに自分の腕へと視線を向ける。
「あっ、ああ。やだ、私ったらなんて不用心なことを! 直接、素手で攻撃しちゃった…! どうしよう、もし体内に毒があったら…。ああ、あああ、死んじゃう、やだ、やだ、怖い…! どうしよう…、怖い!」
腕を引き抜かれた勢いでリジェネの体が後ろへ倒れる。
それを全く気にした様子はなさそうに女は一人でぶつぶつと声を漏らし続ける。
「な、なんなんだ。貴様は…」
地面にその体を横たえたリジェネの喉から絞り出したような声。
その声にハッとした様子を見せると、今度は何か希望にすがるような声で女は問いかける。
「あ、あなた…毒の能力とか持ってませんか!? 触れただけで死んでしまうような…あっ、でも魔神様が気にかけるんだから、それくらい持っていてもおかしくない…いえ、きっと持ってるんだわ…!! ああっ、やだ、死んじゃう…やだ、怖い、やだっ……!」
ヒステリックに叫びを上げながら、両手で包み込むように震える自分の体を抱く女。
その様子には、まったく話の通じる気配はない。
しかし、そんな女が放った言葉の一つがリジェネの頭に残る。
「…魔神様?」
「え、ええ。そうよ。魔神様のご命令で私が、こ、ここまで来たの…」
何かを思い出したかの様に、女が真面目な顔をして少し落ち着きを取り戻す。
その言葉に今まで押し黙っていたリジェネの頭がパッと晴れる。
魔族の長である魔神。リジェネは一度だけその主に会ったことがあった。いや、会ったというより見たと言った方が正しい。
遠目で見ただけでもその圧迫感と神々しさに、ただ一つの魔物の生命として心から平伏するしかなかった。
女は、その魔神からの命令といった。
つまり、魔神の直属の配下。もしや、十柱クラスの魔族なのかもしれない。
リジェネの心に先程とは違うざわつきが起こる。
「し、失礼しましたっ! 自分よりはるかに高位に位置するであろうあなたに攻撃を仕掛けてしまうとは!」
痛みで悲鳴を上げる体を強引に動かし、頭を垂れる。
それを女は疑わしいものを見るかのように見下しながら、震える声で呟く。
「も、もう、私に攻撃したりしない? 傷つけようとしたりしない? 殺そうとしたりしない? 誓える? ホントに誓える!?」
「は、はい、誓います! 申し訳ありませんでした」
リジェネが深く頷く。
正直、リジェネには目の前の女がなぜこれほどまでに怯えているのか全く理解できなかった。恐らく自分よりはるかに高位の魔族。
外見からは感じ取れないがリジェネでは手も足も出ないだろう。満身創痍の今の状態なら戦いにすらならない。しかし、それでもリジェネは口には出さない。
この女の機嫌を損ねてはいけないことが感覚的に理解できていたから。
「そ、そうなの? …うん、そうよね! 同じ魔族だもの、戦う理由は無いわ。うん、そう、大丈夫、うん。本当に敵と間違えただけなんだわ…」
再び自分の世界に入り、ブツブツと呟きを漏らす女。そして、自分の中で結論が出たのか、緊張を緩め、ニコッとリジェネに笑いかけた。
上手く言葉にはできない。しかし、根源的な恐怖を彷彿とさせる強烈な寒気がリジェネを襲う。
「そっか、よかった…。そうよ、そうよね、私ったら早合点しすぎね…。うん、じゃあ私がここへ来た簡単に要点だけを説明させてもらいます」
落ち着きを取り戻した女がゴホン、と咳払いを一つして姿勢を整える。
「あなたは魔神様に選ばれた。人間たちを滅ぼすに足る存在になりえるかもしれません…」
しかし、続く言葉はリジェネのもつ全ての感情を上書きした。
――選ばれた!? 魔神様に!?
喜びを超えた狂喜の気持ちが体内を巡る。それは感情は本能的なものなのかもしれない。
魔族は生まれたときから魔神の僕だ。それがさも当然のことの様に教えられ、育ち続ける。言わば絶対的な主。
――その主に選ばれた…!
恍惚の表情を浮かべるリジェネへと先程と同じように女が笑みを浮かべる。
「…あなた、現在この魔界へと侵攻してきている五人の人間、その中心人物の男へと…並々ならぬ憎しみを持ってますね?」
その言葉でリジェネの思考へ不純物が混じる。
圧倒的な憎しみ。それは圧倒的な喜びを与えられた今でも消えることはない。
それを表情から読み取ったのか、女は嬉しそうに手を頬へと当て、微笑む。
「その憎しみこそ、最高の火種です。あなたに力を分け与えましょう」
「あっ、ありがとうございます!」
ほとんど地面に擦り付ける様に頭を下げるリジェネ。
幸運だった。十柱クラスの魔族、その力は常軌を逸したものだ。
「その力さえあれば、あの男を、グリシラ・サリスタンをこの手で! 必ず!!」
「――いいえ、あなたが戦うのはあの男ではないですよ」
「は?」
息巻く思いでぶつけた言葉を即座に否定される。
当然口からは困惑の声が漏れた。
「…あなたは、保険。あるいは予備。そして、実験です。あなたがもし戦うときが来るとすれば、それははるか未来のこと…。あなたがもし戦う相手と出会うならあの男の血を引くもの…」
「………」
女の言っていることがわからずにリジェネは二の句が紡げない。
しかし、女は言うべきことは言ったかのような満足げな顔で――再びリジェネの体へと指先を突き刺す。
今度はさらに深く、命まで届くほどに。
「ぐっ、ぐはっ…!? な、何を…!?」
「こ、これから、あなたは永い眠りに入ります。どこで起きるか、いつ起きるか、それすらもわからない眠り…うっ、考えただけでも恐ろしい…」
まるで自分のことの様に声を震わせ恐怖を顔に浮かべる女。
「で、でも安心してください。その眠りはあなたの中の憎しみと力を何倍にも増幅させる…。…もしかしたら起きたときに言語中枢や神経に異常が起こるかもしれないけど許してね…。私に復讐しに来たりしないでね! …絶対よ、そんな恐ろしいことは考えないでね! そ、そうだ! あなたのお仲間も何人か一緒に送ってあげる、うん、名案だわ…! うん、それならあなたも不安に思ったりしないでしょ。…それに―――」
女がまくし立てるが、もうリジェネの脳はその言葉を理解できる状態ではなかった。
視界が揺れ、急激な眠気が襲ってくる。
すでに痛みの感覚は無く、ただ熱さだけが体に残る。
そして、
「あっ! …あっ、あああああ!? そういえば、また素手で触っちゃった…!? あ、ああ、なんてお馬鹿なの、私はっ!! ど、どうしよう…あっ、まだ眠らないでください! 一つだけ、一つだけ聞かせてくださいよ! あ、あなたの能力に毒とかあるんじゃありませんか!? もし、あるんなら、解毒を! 何とか最後に…、やだっ、怖い、死にたくない!」
耳元で何かを必死の形相で叫ぶ女の声を理解できないまま、リジェネの意識はそこで闇へと落ちた。
深い深い、長い長い眠りへと――、




