5章ー8話 「地下で暮らす者達」
「さてと――今日は」
地下街の中の一つの空間。
そこは法と秩序の著しく欠落した場所に置いて、恐ろしく異質な空気を放っていた。
部屋の端に古く傷ついてはいるものの大きな黒板。
そして、その黒板の前にはこちらも古く傷つきその上不揃いではあるが、机と椅子が等間隔に十数個並んでいた。
そう、その様子はまるで学校の教室の様だった。
まだ生徒となる子ども達の姿は見えない。
今ここにいるのはただ一人。黒板の前にて青年が手帳の様なものを片手に何か考え事をしているだけだ。
学校の教室の様な空間同様にその青年もまたこの地下の世界に置いては異質な存在だった。
中性的でどこか気品が漂っている様にすら感じる穏やかな顔立ちに、男性にしては長めの銀に近い色の頭髪。そして多少年季が入ってはいるものの清潔感のある綺麗な衣類。
とてもではないが、この地下世界の人間とは思えない様なそんな容姿を青年はしていた。
「こんなところかな」
素早く考えを纏めると青年が一区切りをつけるように手帳を閉じる。
そしてそれとほとんど同時のタイミングで、
――ガララッ、とその空間に後から付け足された様な自作感溢れる扉が開く。
「よっと」
入ってきたのはまたしても生徒ではなかった。
一人の老年に差し掛かっているように見える男性だ。しかし、この老人もまた別の意味で異質だ。
中でも目を引くのは一枚羽織っただけのシャツの間から見えるその肉体だ。一見しただけで硬くそして厚い、とてもではないが老年に差し掛かった者の身体とは思えなかった。鋼の様な肉体――まさにそのような表現がピッタリの様な身体を老人はしていた。
身長も180センチ近くあり背筋もまっすぐ、顔に刻まれた皺以外ではその年の頃を正しく把握できない程に男性は若やぎ立っていた。
だが、この地下に置いてはそんな彼よりもやはり青年の方が異物感は強かった。
「やぁ、若先生。今日も朝からご苦労なこったな」
「おはようございます、ラグア殿。そちらこそ朝からお元気なようで何よりです」
「俺は昔から朝から夜まで元気だよ」
いきなり入室してきたラグアと呼ばれた男性に対して青年は穏やかに笑い応える。
ラグアもまたどこか楽しそうに彼に話しかけていた。
それだけでこの一見すれば何の関わり合いもなさそうな二人が付き合いの長い知った仲だというのがわかった。
「それにしても最初は飽きてすぐに上に帰るもんだと思っていたが、続くもんだな」
「僕は最初から続けるつもりでしたよ」
「だろうな、こっちがあんたにそんな強い意思があることを見抜けなかっただけだ。俺もガキ共も他のやつらもな」
そう言って「やれやれ」と言った風に老人が肩を落とす。
「人生の大事な時期全てを無駄なことに打ち込んだ俺が言うのも何だが…、しかしよくこんな何の得もないことをやる気になるよな。地下街のガキどもに読み書きを教えるなんてよ」
「ここで生まれ育った子ども達には普通の子ども達が当たり前に享受しているものがない。そんな彼ら彼女らに教養という生きる術を与えるのです。僕などには重すぎる過ぎた役目ですが、やりがいはありますよ」
「…前にも言ったが、善人過ぎると早死にするぞ」
「ははっ、どっちにしろ僕は早死にします。それに僕は一番やりたかったことがこの人生でできなかった。ならせめて人の役に立ちたい、それだけのことですよ」
そう言って穏やかに笑うと、青年はゆっくりとチョークを黒板へと走らせ今日の授業の内容をそこに書き始めた。
そして「はぁ~」と呆れた様にため息を吐きながらも、老人はその様子を彼の生徒たちが来るまで壁にもたれ掛かりながら見守るように眺めていたのだった。
***―――――
「ふ~っ」
慣れない日の当たる地上の世界から慣れた日の当たらない地下の世界に帰ってきたことで、緊張が緩みフードを被った人影が大きく息を吐く。
ポケットに手を入れるそこには今日の戦利品があった。
小さな髪留め、普段ならばスル様なものではないが、偶然見かけた相手が掲げる様にして持っていたそれは遠目にもわかる程に不可思議に輝いて見えた。それ故、相手が無防備だったこともあり興味本位で盗んだのだ。
そして、
「うわっ、やっぱり綺麗に光ってる。それに凄い手触り」
ポケットから取り出したそれはまだ表面に人口のものとは思えない様な微かな光を纏っていた。
その上、生地の質も上質なものなのだろう。手触りもよく光沢がある。
だから学も知識もなくとも、何となくそれがサイズは小さいがかなり高価な髪留めであるだろうと、認識できた。
「これも、もういいかな」
大事に再び髪留めをポケットにしまうと、深くかぶったフードをとる。
明らかになったその顔は、十歳前後程度の少女の顔だった。
そして、少女はそのまま歩き出す。この後の予定と目的地は決まっていた。
一年半ほど前にその催しは唐突に始まった。最初は見知らぬ若い男が一人で理想論を口にしながらせっせとやっていただけの小さな集まり。いや、最初は誰も気に留めず誰も集まらなかったのだから集まりでもなかったかもしれない。
しかし、めげずに毎日毎日読み書き教室を開く男の元へ段々と本当に段々とだが子どもが興味を示し集まり始めた。加えて不思議なことに一度男の授業を聞いた子ども達は、高い確率で次もやってくるようになっていた。
そして今では週に五回のその授業には十人以上の子どもが集まるようになっていた。
そう、少女もまたその一人だった。
「おはよう、先生」
「――ああ。おはよう、アーミちゃん」
指定の教室のドアを開け、少女が先生に挨拶をする。それは一年前では考えられなかった光景だった。
今日は早めに教室についたため一番乗りかと思った少女――アーミだったが、すでに教室内には馴染みの生徒二人の姿があった。
そしてもう一人、
「なんだぁ? またいんのか、じいさん」
「いいだろ、暇なんだよ。それにジジイはガキと若者が好きなのさ」
「へっ、なんだそりゃ」
壁際にもたれ掛かる様にして立つ老人もいた。彼はたまにこの教室にふらっとやってくることがあるのだ。
そんな老人を一瞥し、そう何となく適当な会話をするとアーミは席につき再び先生と呼ばれた若者の方へと向いた。
そして、
「先生、どんな授業をするんだ?」
何処にでもいる子どものように無邪気のそう問いを投げかけた。