第七話「潜む影」
「頂上まだなの?」
呆れた表情のフィルトが、手で庇を作って天を仰ぐ。
麓を出発してから数時間が経過した現在――俺たちは、山の中腹あたりを登っていた。
フィルトはああ言っているが、ここまではかなり順調に来ている。
水筒の水&先日の雨の水溜りで水分は足りるし、たまに現れる《サンボンヅノザウルス》も大した強さではない――というか雑魚なので、今のところは楽と言える。
「あともう半分はありそうですね」
天を刺す山岳を見上げるアイルに、俺は息を吐きながら頷く。
夜に動くのは危険があるため夕方には休むつもりだが、この分なら多めに見積もって明後日の朝には頂上に辿り着くだろう。
そして、夕方。俺達が登る位置とは山を挟んで向こう側に陽が沈むため、俺達がいる山肌は――早くもすっかり暗くなっていた。
すぐに安全そうな岩場を見付けた俺達は、安堵に長く息を吐きながら腰掛けた。
「二人共、体調とか問題ないか?」
「平気よ」「大丈夫です」
昨日から歩きっぱなしだが……タフな奴等だな。
頼もしいっちゃそうなんだけど、こう……本当に女の子なのか? って疑いたくなるね。
「ならよし」
とだけ頷いて、俺は蒼黒に染まった空を見上げた。
……明日は恐らく、昼過ぎに頂上に着くはず。
このまま気を引き締めて臨むとしよう。
なんとなく、嫌な予感がするからな。
「どうしました、カイトさん? 難しい顔をしていますが」
「こいつは元からそういう顔なのよ」
「おい。……あーいや、なんでもない」
ともあれ、明日次第だな。
まだ薄暗い天蓋から黎明の光が差し込む頃、俺達は登山を再開した。
今だけは俺とフィルトもふざけたりはせず、三人で黙々と登っていると――
山の頂上まで残り少し、という所まで来た。空が近い。
「うわすっげえ……高いな……」
手で庇を作りつつ後方を振り向くと――
開豁な大自然が、晴れ渡る蒼穹の下に広がっていた。
結構なハイペースだったとはいえ……よく一日と少しでここまで登ったなと感慨深くなる。
「呼吸がちょっとしづらいわね」
「そうですか? 私はなんだか『天』みたいで懐かしいです……」
目を細めて空を仰ぎ、ノスタルジーに浸るアイル。
「ここまで来ると結構寒いな」
「確かに。脚が寒いわ」
「原子生成使えばいいだろ」
「ばかね。そんなずっと使ってられないでしょ」
ああ、生産限界か。便利ばかりじゃないって事だな。
「すぅー……」
息をいっぱいに吸い込む。
冷涼な空気が喉を通り、肺の空気と入れ替わる。
大きく、ゆっくりと息を吐きだした。
「――よし。行くか」
いざ、頂上へ。
☆
これまでも道はそれなりに険しかったが、頂上に近付くにつれ傾斜も急になり……身体能力の高いアイルの助けがなくては、最早、進む事すら困難になっていた。
頂上まで一息。
ロッククライミングさながらに登りながら一瞬下を覗いたら、あそこが縮みあがったね。
「! カイト、アイル、あれを見て」
フィルトが示す先には……山の傾斜が途切れている箇所があった。
ここからだとその先は平らになっており、岩石地帯が広がっていると見受けられた。
「あそこまで行けば一旦休めるかしら」
「かもな」
「もうひと踏ん張りですね」
用心深く上へと登り――アイルが最初に辿り着いた。
「どうだ?」
そう訊ねたのとほぼ同時、上半身を傾斜から出していたアイルの体が、大きく吹き飛んだ。
「なっ!?」
「アイルッ!」
フィルトと同時に叫び――だが、どうする事も出来ない。
もしこの急斜面から跳び出せば、この高さから数十メートルは落下する事になる。
そうなれば、確実に無事では済まないだろう。
「! フィルトッ!」
俺がそんな逡巡をしている間に、フィルトは迷いを振り切っていた。
遅れて俺も飛び出そうとするも、首だけで振り向いたフィルトに怒鳴られる。
「あんたは上に居る何かの相手をしなさい! ――あんたなら出来る!」
俺が何かを言い返す前に、背中から蒼い炎を噴射させて加速したフィルトは、一瞬にして遥か後方へと落下していった。
「――クソッ!」
自分の不甲斐なさに扼腕する。
俺は……仲間であるアイルを助けに行けなかった。
言い訳なんかしない。俺が臆病だっただけだ。
いつもそうだ。
助けたい、助けなきゃいけないはずなのに、体が動かない。
これは二つ年上の兄の言葉だが、幸せでいたいなら、誠実さを忘れてはいけないという。
だがそれは、簡単な事じゃないと思うぜ、兄さん。
こうしたい、こうありたいと思っていても、できない事ばかりなんだからな。人生ってのは。
「ッ……」
崖の向こうから放たれる存在感。
ぞくり、と背中の辺りが震える。
「……ガクブルじゃねえか……」
だが、この震えは恐怖じゃない。猛りだ。
敵は強い方が燃えるタイプなんだよ、俺はッ!
「――ッ」
俺は右腕を上方の山肌に向け、意識を研ぎ澄ます。
最も”ヤツ”の気配を感じた方向に――紫電をぶっ放した。
超高速で放たれた紫電はスパークしながら甲高い音と共に壁を貫き――一秒後、獣の雄叫びが山中に轟いた。
「うおぉっ!」
首筋を撫でる臆病風を無視し、俺は地面を蹴る。
山肌を駆け上がり、崖の際から飛び出すと――
ぱっ、と眩しいくらい豁然と視界が開け、鳥が数羽飛び立った。
「こいつは……想像以上だな」
岩場に囲まれた――まるでリングのようなごつごつとした岩石地帯。
無数の骨がばら撒かれたその中央に構える存在は、予想を遥かに超えた威圧を有していた。
ぎらついた青い瞳。剥き出しになった牙と歯茎。全長五メートルはあろうかという白い毛並みの巨躯と、それを支える太く逞しい四本の脚。
見た目だけで言うなればそう――巨大な狼だ。
「グルルルルゥ……」
唸り声を上げる巨大狼。
その前脚をよく見ると、毛並みが赤くにじんでいた。さっきの不意打ちが掠ってたみたいだな。
さて……どうするか。
先手必勝?
それとも、相手の出方を待つか?
「――あれ?」
確かに今、あそこに居たはずなのに。
「! がッ!?」
突然、右から重い衝撃が半身を襲い、俺は岩石地帯の側面の岩場に激突した。
「ってぇ……」
立ち上がろうとするとズキ、と全身に鈍い痛みが走る。
な、何だよ今の……。
巨大狼が消えたと思った直後、ドンッ、と殴り飛ばされた。車でも突っ込んできたのかと思ったぜ。
もしも殴られたのが右腕じゃなかったら、ごっそり肉を持ってかれてたかもな。
つーか、速すぎだろあの狼……バケモノかよ。見た目通りなのな。
「!」
目を凝らしていたはずなのに……ゆっくりとこちらへ歩いてくる巨大狼が、消えた。
バッ、と左を向く。
――居ない。
俺は振り返るより先に紫電を纏わせた右腕を薙いだ。
生暖かい感触が腕全体を包み、滑るように何かを通過する。
「グルゥァ!」
奴の悲鳴を耳にしながら体を向けきり、俺は間髪入れず放射状に紫電を放った。
アメジストに光る複数の弾道は、巨大狼の身体を外側から削いでゆく。
まるで、電気の檻で獲物を捕らえるように。
「ルゥオォッ!」
「ッ!」
突然、攻撃に耐えるのを止めた巨大狼が、片目に傷を受けつつも長い前足を振るってきた。
咄嗟に腕を交差したが、一瞬判断が遅れたせいで正面からもろに喰らう。
「ぐあっ!」
軽々と吹き飛ばされる。
身体に掛かるGによって碌に受け身も取れず、俺は全身を岩場に強打した。
ゴンッ、と運悪く頭を軽くぶつけてしまい脳震盪が起こる。
ヤバい、頭が……。
視界が揺らぎ、思考も上手く働かない。
――次の瞬間、またもや衝撃と同時に殴り飛ばされた。
声も出せず地面を転がり……ようやく止まったところで思わず咳き込む。
鮮血が飛び散り、地面に染みを浮かべた。
「……っくしょう」
あんな速い奴、どうやったら勝てんだよ。
脳震盪は和らぎつつあるものの――
この絶望的な状況に加え、全身にのしかかる倦怠感と疲労のせいで立ち上がる事さえままならない。
「――ッ……!」
すぐ目の前に巨大狼が立っていて、血に染まった腕を振り上げていた。
……もう、駄目か。
――あんたなら出来る!
「――ッッッ!」
不意に蘇ってきた、先刻のフィルトの叫び。
それを思い出した瞬間――体が勝手に動いた。
俺は地面に向かって紫電を放ち、起きたスパークで自らの身体を大きく飛ばす。
痛みが走るが……問題ない。
転がった体の勢いが停止した所で、俺は全身に鞭打って地面に手と膝をついた。
「はぁはぁっ……」
なんか……漫画みたいな展開だな。
窮地に陥り、美少女ヒロインの言葉を思い出して火事場の馬鹿力が発動。
通常はそんなものだが――俺の場合は、フィルトの言葉を思い出しただけだ。
けれど、それだけでも、立ち上がるには十分だった。
「はぁ……はぁ……。……お互い、そろそろ限界だな」
見ると、巨大狼は動きが鈍くなっている。
先程の紫電で傷付けた部分から血が流れた事による出血多量か。よし。
唯一、俺の狙い通りにいったな。
「――はッ!」
渾身の、不意打ち。
俺の右腕から噴き出た極太の紫電は一直線に伸び――音も無く、巨大狼を飲み込んだ。
紫電が消えた後、そこには……
「ふぅ……やれやれ」
抉れた地面から立ち上る黒い煙を見つめながら、俺は長く息を吐いた。
終わった。
最後は呆気なかったな。
あの巨大狼は、差し詰め最初のステージのボスってとこだな。
まあ、それにしては強すぎだ。糞ゲー決定。
「あー終わっ、た……」
「グルルゥ……」
万事休す。最後の攻撃は避けられていた。
「か……はっ」
今度はこちらの番とばかりに大きく振りかぶった痛恨の一撃で、俺の意識は暗転した。