恋が芽生えた蝉時雨のなかで
私立のエスカレーター校を辞めて公立中学に入学した私は、これを機に前へ踏み出そうと気持ちを切り替える努力をした。
当時、大甕家は建て替え工事をしていて茅ヶ崎のアパートを借りていたから、ヒタッチと同じ学校に通えたのはすごく嬉しかった。
持ち前の明るさで誰とでも分け隔てなく接し、ヒタッチ以外誰も知り合いのいなかったクラスでもあっという間に打ち解けた。それでも母親や姉貴のことは頭から離れず、笑顔を弾ませながら自らの記憶に蓋をしようと圧力を掛ける日々が続いた。
もしかしたらスポーツでも始めたらスッキリするかな? そう思って陸上競技部に入部。球技もいいけど、走ればモヤモヤが吹き飛ぶと思った。
入部して間もない四月中旬。桜の花と葉が半々になった頃、ウォーミングアップで校庭の外周を走っていたとき 、私はうっかりコケて膝を擦り剥いてしまった。
「大丈夫?」
同じくウォーミングアップで後ろを走っていた名前も顔も知らないテニス部の先輩が前から手を差し伸べてくれた 。私は太陽を背にする知性溢れる笑顔が素敵な彼を見上げたとき、胸にキュンと心地よい高鳴りを感じた。それが、初恋だった。
それから私は彼が気になって、部活の度に彼を目で追い 、一緒にお話ししたい、遊びに行きたいと四六時中考えるようになり、いつの間にか過去をあまり思い出さなくなっていた。
私は知った。恋というものはイヤなことを忘れられる魔法なのだと。姉貴がそれに殺されたなんて、すっかり忘れてしまうほどに。というよりは、私のメンタルが抱えらるものの許容量を超えて、過去のモヤモヤを恋で上書きしようとしていたんだと思う。
中学一年生の頃、私は校内のイケメンたちに片っ端から告白して、その度に断られたりはぐらかされたりしていた。 ダメ元での告白だし、フラれてもいちいち落ち込まなかっ た。だけど、最後の面食い告白は、そうじゃなかった。
蝉時雨が降り注ぐ夏休み前の放課後。部活が始まる前、私は人気のない体育館の裏手でユニフォーム姿のバスケ部 の先輩を呼びだし、好きです! 付き合ってください! といつも通り告白した。これで五人目の告白。きっと今回もフラれるだろう。私は恥ずかしくて沸騰しそうな顔のまま、歯を食い縛って真っ直ぐ先輩を見詰めた。
「あのさ」
淡い口調で切り出す先輩。やっぱりダメだったか。しょうがない、また新たな恋をしよう。
「はい」
返事をしてすぐ、私は俯いた。
「お前、一体なんなの?」
「へ?」
先輩が何を言いたいのか解らないけど、寒気がして、すごく、すごくイヤな感じがした。
「片っ端から告って回ってさ、要するにヤりたいの? だったらその望み、叶えてやるよ」
「えっ!? いや、その、そういうんじゃなくて……」
「あ? ヤりたいんじゃないならなんなんだよ? 男からかって遊んでるわけ?」
「きゃっ!」
先輩は正面から平手で私の左肩を体育館の外壁に乱暴に押し付け、Tシャツ越しに胸を鷲掴みにした後、ジャージズボン越しに脚やお尻をむしり取るように強くさすり始めた 。
「痛いっ! ひゃっ、やめて、やめてくださいっ……」
恐怖で声は掠れ、全身が震え、崩れ堕ちそうになる。右手で先輩の胸を押して退けようとしても、全く動かない。 右手から伝わる先輩の鼓動と頭上に降りかかる生温かくて 荒い息が恐怖心を増幅させ、私の鼓動や息は恐怖で荒ぶる 。
「静かにしろよ、誰か来るかもしんねぇだろ?」
助けて、誰か助けて! ヒタッチやクラスメイト、姉貴の顔が脳裏に浮かぶけど、こんな所、ほぼ誰も通らない。バカだ、私、バカだ。きっと罰が当たったんだ。
コイツの言う通り、イケメンって理由だけで片っ端から告白して、中身なんか全然見なかったから悪いヤツに引っ掛かって。
ハジメテは、心から好きな人が良かったな。いまさら気付いたって、もう遅いや。私はずっと、今日この出来事を背負って生きていかなきゃいけないんだ。
こんなんじゃ、死んでも姉貴に合わす顔がないよ。ごめんね、私、姉貴の死を無駄にしちゃったみたい。
気力の尽きた私は、大人しくその場に崩れ堕ち、目を閉じた。
「ううっ」
先輩は無抵抗な私の腹を殴り、呻き声を上げ、蹲ると今度は頬を押さえ付け外壁に衝撃。脳震盪を起こしたのか、後頭部と腹の激しい痛みとともに意識が朦朧としてきた。その間も何度も何度も殴られ蹴られた。
痛いよお、痛いよお、もうイケメンなんて理由だけで告白なんかしないから、お願い、もうやめてよ……。
もしかして私、殺されちゃうのかな? それも悪くないか。天国で姉貴と幸せに暮らせたらいいな。でもだめか。 私、悪い子だから地獄行きだ。
きっと、私がしてきたことの延長線にアイツと同じ末路があるんだ。
しかし、先輩の右手が私の腹に当たり、Tシャツを捲ろうとしたそのとき、奇跡は起きた。
なんだろう、誰かの足音が聞こえる。直後、先輩はやべっ! と慌てて逃げ出した。目を開き、足音のするほうを見ると、一人の男子が駆け寄って来た。彼は右手でセミをつまんでいる。翅は動かないけど脚は動いてる、弱ったアブラセミだ。
「大丈夫?」
「宮下?」
まさか、助けに来てくれたのかな? ヒーローとは程遠いヤツかと思ってたけど、実は強いのかな?
「うん」
「どうしたの? こんな所に来て」
弱った声で、精一杯の言葉を絞り出した。
「セミがさ」
私を助けに来たわけじゃないんだね。そりゃそうか。
「セミ?」
セミを生き埋めにしに来たの? 弱ってるからって、そ んなの可哀想だよ。すごくつらいんだよ?
「うん。渡り廊下でこのセミ拾ったんだけど、踏まれそうだし、かといってその辺の土に置いたらアリに襲われそうだから、どこに置けばいいか迷っちゃって。ていうか、仙石原は大丈夫?」
ああ、宮下って、すごく優しいんだ。どのみちもうすぐ死んじゃうセミなのに、怖い思いをして死ななくていいように、とどめを刺すアリが来ない場所を探してるんだ。私も死ぬときは、このセミみたいに優しくされたいな。
「サンキュー。もう大丈夫。でも、部活には行けないや」
私と宮下は同じ陸上競技部だけど、この二人を含む殆どの部員は気が向かないとサボるのが常態化していた。だから今日も、サボろうと思う。
お礼と欠席の宣言をすると、宮下は立てる? と左手を差し伸べてくれたけど、もう少しこのまま座っていたかっ た私は立てないと言って、宮下を右隣に座らせた。セミを置く場所を探さなきゃいけないから、きっと宮下も部活をサボりたいと思う。
木漏れ日といっしょに降り注ぐ蝉時雨。隣には、穏やかな気持ちでそちらへと旅立てそうなアブラゼミと、それを見守る男の子。さっきまでの恐怖が嘘のように、とても穏やかなな気分だ。
このまま肩に寄り添って眠ってしまいたいけど、なぜだかそれが勿体なくて、私も隣で旅立ちを見守った。
私が宮下を好きになったのは、間違いなくこのときからだ。
お読みいただき誠にありがとうございます!
久しぶりの長いお話となりました。
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