第十二話「触れてはならない基準」
朝の市場は、もう“揺れている状態”が普通になりつつあった。
エルドはその事実を、淡々と受け入れていた。
「ズレは固定化した」
隣のリリアが答える。
「固定……ですか?」
「進行ではない。状態だ」
市場の奥へ向かう。
パンの屋台。
ミアの場所。
そこは、もう“日常”と呼ぶには弱くなっていた。
ミアは立っていた。
だが、その立ち方に少しだけ違和感がある。
まるで、何かを思い出そうとしている途中のように。
「あ、おはようございます……」
声は出る。
しかし、どこか“薄い”。
リクが言う。
「今日も、ちょっと少ない」
ミアはすぐに反応できない。
「え……?」
ルナが小さく言う。
「昨日のが、もうない」
その言葉で、ミアの表情が止まる。
エルドは見る。
(確定している)
リリアが帳簿を開く。
そして息を呑む。
「エルド様……もう数字が意味を持っていません」
エルドは短く言う。
「その段階に入った」
ミアが不安そうに言う。
「どういう意味ですか?」
エルドは少し間を置く。
「記録が現実に追いついていない」
その言葉にミアは黙る。
市場の音が遠くなる。
その時だった。
――ゴォン。
鐘。
だが今回は違う。
音が“外”でも“内”でもない。
“基準そのもの”が揺れる。
ミアが耳を押さえる。
「……っ」
リクが震える声で言う。
「今の、やばい」
ルナも顔を上げる。
エルドは動かない。
ただ見ている。
(ここだ)
リリアが息を呑む。
「エルド様……この音、範囲じゃありません」
エルドは静かに答える。
「構造だ」
ミアが小さく聞く。
「構造って……何の」
エルドは一瞬だけ沈黙する。
そして言う。
「世界の前提だ」
沈黙。
その言葉は、理解より先に恐怖を生む。
リリアが震える声で言う。
「じゃあ……今揺れているのは」
エルドは答える。
「現実そのものだ」
その瞬間、パンの一つが消える。
音もなく。
ただ“そこに無かったことになる”。
ミアが固まる。
「え……?」
リクが叫ぶ。
「今あったよな!?」
ルナが頷く。
だがエルドは静かに言う。
「もう確認できない」
ミアが震える声で言う。
「なんで……こんなことに」
エルドは視線を上げる。
「鳴らしているものがいる」
リリアが息を呑む。
「やはり……」
エルドは続ける。
「ここは“結果”だ」
ミアが聞く。
「じゃあ、どこが原因なんですか」
エルドは少し間を置く。
「上だ」
その一言で空気が変わる。
リクが言う。
「上って、どこ?」
エルドは答える。
「観測できない層」
ミアが小さく笑う。
「それ、もう分からないってことじゃ……」
エルドは即答する。
「違う」
「行く」
沈黙。
リリアが驚く。
「行くって……どこへですか」
エルドは短く言う。
「鐘の発生点だ」
ミアが固まる。
「危ないですよ」
エルドは一瞬だけ止まる。
そして言う。
「今さらだ」
その言葉に、ミアは少しだけ笑う。
「ほんと、変な人ですね」
だがその笑顔は弱い。
エルドは視線を外す。
(これ以上待てない)
リリアが言う。
「準備はどうしますか」
エルドは答える。
「必要ない」
そして歩き出す。
その瞬間。
――ゴォン。
鐘。
今度は、はっきり“呼ばれている”。
ミアが小さく呟く。
「これ……止められるんですか」
エルドは振り返らない。
「止めるのではない」
「触れる」
その言葉を最後に、エルドは市場を離れる
ミアはその背中を見ている。
何かが終わる予感と、始まる予感が同時にそこにあった。




