第5話
目が覚めた瞬間、スマホが震えた。
夢の底から、意識がゆっくりと浮上する。
枕元に置いたスマホの画面が光っている。
――おはよう。
差出人は、小坪美和。
その名前を見た瞬間、昨日のすべてが現実だったことを思い出す。
見えない同居人。死んだはずなのに、存在している少女。
続けて、もう一度震える。
――ちゃんと起きてる?
数秒、画面を見つめたまま止まる。
返事をする必要はない。無視することだってできる。
それでも――
「安心しろ、起きてるよ」
ぶっきらぼうに口に出した。
少し遅れて、スマホが震える。
――よかった。
――勝手に部屋うろうろしてごめんね。
思わず、顔を上げる。
机。カーテン。壁。閉じたドア。
全部、いつも通りだ。
それでも――“誰かがいる”
そうとしか言いようのない気配だけが、この部屋の空気に溶けている。
「……別にいいよ」
制服を掴みながら答える。
「どうせ見えないし」
すぐにスマホが震えた。
――聞こえてるよ、それ。
口元がわずかに緩む。
「悪い」
短く言った。声だけの会話。姿のない同居人。
それなのに――
一人じゃない朝だった。
そして、思い出す。昨日の夜のことを。
⸻
部室を出たあと、美和はしばらく何も言わなかった。
夕焼けに染まった帰り道を、ただ歩く。
やがて、スマホが震えた。
――ねえ。
短い呼びかけ。
――私、行く場所ないんだよね。
足が止まる。
その言葉の意味は、考えるまでもなかった。
存在が消えた人間に、帰る場所なんて残っていない。
「……家、来るか?」
自分でも驚くほど自然に口にしていた。
沈黙。
数秒。
――いいの?
「嫌なら言わない」
また、少しの間。
――じゃあ、お言葉に甘えます。
それで決まった。
見えない誰かを連れて帰る。
普通なら、あり得ない。
けれど昨日から、普通はもう、普通じゃなかった。
⸻
「で、何してる」
現在に戻る。
ネクタイを締めながら、空間に向かって聞く。
スマホが震える。
――部屋、見てる。
「面白いもんでもあるか?」
少しの間。
――裕翔の部屋、思ったより普通。
「褒め言葉として受け取っとく」
鏡を見る。映っているのは、自分一人だけ。
それなのに、確かに“誰かと共有している空間”だった。
「僕は学校に行く」
カバンを持ち上げる。
「美和はどうする」
少しの沈黙。
――家、行ってみる。
――何か分かるかもしれない。
「……そうだな」
それが一番自然だった。
ドアに手をかける。
振り返っても、誰もいない。
それでも――
「放課後、部室で」
少し間を置く。
「待ってる」
返事は来なかった。
けれど、この部屋の空気が、ほんの少しだけ揺れた気がした。
それで、十分だった。
⸻
登校中の景色は、いつもと変わらない。
信号。通り過ぎる車。歩いている人たち。
誰もが、当たり前の世界を生きている。
その裏側で、何かが壊れていることなんて知らずに。
教室に入ると、白神がいた。
「おはよ、裕翔」
「ああ」
席に座る。
「なんか疲れてる?」
「平常運転だ」
白神は少し笑った。
「相変わらずだな」
それ以上は聞いてこなかった。
それが、ありがたかった。
授業は始まり、終わる。
教師の声も、黒板の文字も、頭の表面を滑るだけだった。
スマホは震えない。
それが逆に、落ち着かなかった。
そして、放課後。
僕は、相談部へ向かった。
⸻
扉を開けると、白浜先輩はすでに来ていた。
机の上にはノート。
びっしりと文字が並んでいる。
「お疲れ様です……」
「お疲れ様です」
席に座る。
先輩は、ノートをこちらに向けた。
「調べて…みました」
そこには、新聞記事の書き写しが並んでいた。
事故。病気。事件。
けれど。
「死亡記事が……ひとつもありません」
「……は?」
「事故は起きています。でも……」
先輩は続けた。
「“死”という結果だけが、存在していないんです」
そのとき、スマホが震えた。
――裕翔。
――家、行ってみた。
――誰も、私に気づかなかった。
息が詰まる。
――それどころか。
――私の部屋、最初からなかったみたいになってた。
先輩も画面を見ている。
「……確認しましょう」
先輩は言った。
「実際に、世界を」
駅前。
人が行き交う。
笑い声、足音、会話。
全てが普通だ。
電子掲示板にニュースが流れる。
「本日、都内で交通事故ーー」
映像には横転した車、窓ガラスもバキバキに割れている。どう見ても、無事では済まない。
けれど、その先が、ない。
結果が、語られない。
そこで映像が切り替わる。
「...見ましたか」
先輩が言う。
「あの事故......普通なら......」
言葉を選ぶように、続ける。
「誰かが亡くなっていても、おかしくありません」
亡くなる。
その言葉が、現実味を持たない。
「ですが......」
先輩は言った。
「"死"という結果だけが、存在していないんです」
理解してしまった。
理解したくなかったのに。
周囲を見る。人がいる。世界がある。
けれど―――
何かが決定的に欠けている。
「クソッ」
そう小さく吐き出した途端、僕は走り出した。
まるで光より早いかのように。
「あっ…色葉坂くん……」
先輩の普段より少し大きい声も、あっという間に空気に溶けてしまった。
慣れ親しんだ道を真っ直ぐに走り、最短距離で近くの寺に向かう。
こんなの、信じられるかよ。
論理的に考えれば理解できるかもしれない。
だが、この瞬間は感情が支配していた。
肺が痛い。呼吸が辛い。胸が苦しい。
この痛みはどこから来るものなのか。
信じられない困惑か。
それとも受け入れたくない拒絶か。
はたまた事実から逃げ出したい恐怖か。
もしくは、その全てかもしれない。
無意識に走るうちに寺が見えてきた。
頼む―――
そう心の中で祈りながら角を曲がり、長い階段を走り抜ける。
夕日に背中を照らされながら駆け上がったその先には、絶望が待っていた。
「ない」
そこには、僕が期待していた結果が無かった。
墓が、丸ごと消えていたのだ。
走り疲れた足は、ぐったりと気力を失い、僕は膝から崩れ落ちた。
酸欠で目の前が暗くなる。かつてないほど苦しい。
だが、突然右手が光り出し、視界が開ける。
通知だ。おそらく美和だろう。
ほとんど握る力も残っていない手で画面を見ると、大量のメールが届いていた。
――やっと追いついた。
――急に走り出して、先輩がびっくりして佇んじゃってるよ。
そうだ。先輩、すみません。後で何か奢らせていただきます。
――ほら早く、先輩の所に戻るよ。
「あぁ、わかっている」
そう言葉にすることは簡単だが、実際に歩けるかどうか不安なぐらいだ。
まるで生まれたての小鹿だな。今の僕は。
長い階段を下り、意識がはっきりしない頭で元来た道を辿る。
あ、先輩だ。
横断歩道の奥に、僕のリュックを抱えている先輩が見えた。
もう少し。あと少し。
一歩一歩を踏みしめながら距離を縮めていく。
あともう少し、
この横断歩道を渡りきりさえすれば―――
と思ったのも束の間。
突如、甲高い音が耳を揺さぶり、咄嗟に右を向く。
眩しい光で僕を照らしながら、その大きな物体が僕に迫ってくる。
「嘘…だろ……」
この距離、この速度―――回避不可。間に合わない。
「色葉坂くん!」
先輩の張り詰めた声が耳に届く。
だが、結果は変わらないだろう。
思わず目を瞑る。
そして、その数秒後―――
しかし。
結果は神が味方したのか。
目を開けると、目と鼻の先に鉄の物体が止まっていた。
トラックから高年の運転手が急いで降りて、駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん、怪我はなかったかい。ごめんよ、ついよそ見をしちまってよ」
僕は危うく、よそ見のせいで死にかけたのか。
ほんと、馬鹿馬鹿しいな。
いつもなら何か言い返せるんだろうけど、生憎、今の僕にそんな気力はない。
「あの、もし、ぶつかってたら、どうなってました……僕、死んでましたか……」
震えた口で、相手に投げかける。
「ん? あぁ、ちぃと怪我すると思うな。ところで、死ぬってなんだ? 若者の流行りにはついて行くのが大変だなぁ」
―――その言葉を聞いた瞬間、何かが、音を立てて切れた。
「怪我で済むわけがないだろ……」
喉の奥から、声が漏れる。
「あの速度でぶつかってたら、どうなってたか分かるだろ……」
拳が震える。
「死んでたんだぞ……!」
気づけば、叫んでいた。
「流行りだなんて寝ぼけたこと言ってんじゃねぇよ!」
呼吸が乱れる。胸が痛い。視界が揺れる。
そのときだった。
「――色葉坂くん!」
先輩の声。
次の瞬間、白浜先輩は、走ってきた勢いのまま、正面から僕を抱きしめた。
両腕で、僕の頭を包み込むように。
そして、そのまま僕の顔を、自分の肩口へと強く押し寄せる。
逃がさないように、ここにいろと、命じるみたいに。
「……っ」
先輩の体温が伝わる。
柔らかい感触、細い腕、震えているのが分かる。
「色葉坂くんの……ばか……」
途切れ途切れの声。
「ばか……ばか……」
言い慣れていない言葉。
それでも、必死に絞り出している。
「……死んじゃうかと……思ったんですよ……」
声が、震えていた。
その瞬間、張り詰めていた何かが、崩れた。
気づけば、僕は、先輩の制服を掴んでいた。
「……っ」
声にならない。
呼吸が乱れ、視界が歪み、涙が溢れ、止まらなかった。
「……怖かった……」
自分でも、何が怖かったのか分からない。
死ぬことか、死ねないことか、それとも世界が壊れていることか。
それとも―――
一人になることか。
先輩は、何も言わなかった。
ただ。
僕の頭を抱きしめたまま。
静かに、そこにいてくれた。
⸻
僕たちは、しばらく何も話さずに歩いていた。
夕焼けが街を包み込み、すべての輪郭を曖昧にしていく。
さっきまでの出来事が、現実だったのか、それとも悪い夢だったのか、分からなくなるほどに。
それでも、隣にいる先輩の体温だけが、確かだった。
握っている手は、細くて、少しだけ冷たい。
けれど―――離そうとは思わなかった。
気づけば、足は駅前へと向かっていた。
相談部とは反対方向。無意識だった。
理由は、考えなくても分かっていた。
あの喫茶店だ。
三日前。先輩と、初めて二人で話した場所。
ガラス張りの扉の前で、足を止める。
先輩も気づいたのか、小さくこちらを見る。
「あの……ここ……」
「少し、休みましょう」
それだけ言って、扉を押した。
カラン、と小さなベルが鳴る。
店内は、相変わらず静かだった。
夕方のこの時間は客も少なく、奥の席が空いていた。
僕たちは、向かい合って座る。
先輩はまだ、どこか落ち着かない様子だった。
両手を膝の上に置き、指先が微かに動いている。
「……」
沈黙。
けれど、不快ではなかった。
やがて、先輩が小さく口を開いた。
「……すみません」
「何がですか」
「さっき……急に……抱きついたりして……」
思い出したのか、先輩の顔がまた赤くなる。
「……嫌、でしたか……?」
その声は、今にも消えてしまいそうだった。
僕は、少しだけ考えてから答えた。
「……いいえ」
先輩が、顔を上げる。
「助かりました」
それは、本心だった。あのまま一人だったら。
墓が消えている現実を、一人で受け止めていたら。
多分―――壊れていた。
先輩がいたから、戻ってこれた。
「……そう、ですか……」
先輩は小さく息を吐いた。
それは、少しだけ、安心したように見えた。
そのとき、スマホが震えた。画面を見る。
――大丈夫?
美和だ。
――先輩、まだ震えてるよ
思わず、先輩を見る。
先輩は、何事もなかったように座っている。
けれど、美和には分かるらしい。
――色葉坂くんも
――さっき、泣いてた
指が止まる。
――でも
――ちゃんと戻ってきてくれてよかった
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「……小坪さん、ですか?」
先輩が聞いた。
「はい」
「……なんて言ってますか?」
少し考えてから、答える。
「無事でよかった、って」
先輩は、ゆっくり頷いた。
「……絶対に」
先輩が言う。
「絶対に、元に戻す方法を探しましょう」
その声は、震えていなかった。
「相談部、ですから」
その言葉を聞いた瞬間、初めて、実感した。
これは本当に、ただの部活なんかじゃない。
世界の歪みに触れてしまった、僕たちの最初の仕事だった。
スマホが、もう一度震える。
――よろしくね
短い一文。
僕は、小さく息を吐いた。
目の前には、白浜先輩。見えない場所には、小坪美和。そして、死ねない世界。日常は、もう戻らない。
けれど、悪くないと思った。
コーヒーの湯気が、静かに揺れていた。




