18 悪霊の憑依 (2)
「……しばらくの間、お互いが家にいる時間だけでいいので、スマホを預かっておいてほしいんです。近くにあると、衝動的に触っちゃいそうで……」
「全然いいけど?」
即答すると、彼の肩がほんのわずかに緩んだように見えた。
張り詰めていた空気が、ふっとほぐれる。
たったそれだけのことを言うのに、彼はかなり神妙な面持ちになっていた。
それは、彼がスマフォ一台に抱く恐怖を物語り、また自尊心の問題もあるかもしれない。それでも、私はどこか嬉しくもあった。
それは、スマフォを預けてもいいと、思われるくらいには私を信用してくれていることの、証明だから。
「正直、自分の手に負えないんです。
あんな小さな機械に、自分の行動が支配されてるなんて……」
その言葉には、諦めとも自己嫌悪ともつかない無力感が滲んでいた。
部屋の空気が、一瞬静かに冷えた気がした。
「……お願いします」
「おけ、じゃあ貸して。今、預かるね」
「はい……」
彼は素直に頷き、ポケットからスマフォを取り出すと、そっと私の方へ差し出した。
両手で受け取り、その小さな〝呪具〟をテーブルの上に静かに置いた。
「結衣さんを前にしたら、ちゃんと振る舞わないといけないって思ったのか、それまで続いてた呪いみたいなのが消えて、自分を取り戻せました。意思って不思議なものですね、でも眠くなってきました……」
そう言いながら、彼はまぶたを軽く閉じた。薄暗い室内灯に照らされた横顔に、長い睫毛の影が落ち、呼吸はゆるやかになる。
「そっか。一緒に寝る?」
茶化すように言うと、彼はすぐに目を開け、真顔で応じた。
「彼氏と寝てください」
「……いないわ!」
思わず軽く拳を握って、再びその額をコツンと小突く。
鈍い音が部屋に響き、彼は少し目を細めて、首をすくめた。わざとらしく痛がるでもなく、子どもっぽい仕草に、胸の奥をじわりと掴まれる。
「もしかしてだけど、本当にいると思ってたの?」
「なんとなくそんな気が…」
「え…どうして、ちょっとショックかも」
あ…ショックって口にしちゃった、どうしよ。
胸の奥がすとんと落ちていくような、気持ちの急降下。想像以上にきつい。
「だって普通に考えて、結衣さんくらい綺麗で、スタイルよくて、それでいて家事とか、本当に美味しい料理作る人を、男の人が見逃すわけないですもん…」
彼はどこか食い下がるように口にするも、その言葉に力はなく、むしろ自分を納得させるように聞こえた。
「いたら、こんなことしてないでしょ」
「そうですよね。だから、ずっとどうなんだろうって思ってました」
「仮にいたとしたら、私は浮気してて、裕斗君は浮気相手ってことになるけど、浮気は是認するタイプなの?」
口にした瞬間、自分でも驚く。
こんな問いかけ、15歳に投げることじゃない。
「……自分は、浮気は駄目だと思います。
実際、家は父の浮気で家庭内崩壊しましたし…もちろん浮気だけが、原因ではないですけど。あ、それは不倫か。まぁいいや。でも父の浮気は流行り病みたいなもんなんで、何回もありましたけど、少なくとも子供の発育には、いい影響を与えないみたいです。
だから元々は、子供がいる家庭だけは駄目だと思ってたんです。でも、去年自分も当時付き合ってた彼女に浮気されて…あぁこれは駄目だなって思いました。された側は、最悪トラウマにまで発展して、後の人生で苦労することになるかもしれない」
「そんなことがあったのに、私とは浮気関係になっていいんだ」
私は今とてもひどいことをしている。でも、彼の答えが聞きたい。
風俗を浮気と見なすなら、既婚男性の半数以上が浮気しているという現実を、彼は既に知っている。人の心の移ろいやすさを、愛は不純がないと保てないことを知っている。
純粋な愛に巡り会える人なんて、一握りの砂金にも満たないことを知っている。
ていうか、彼と付き合えて、浮気できるなんて、元カノはどんだけすごい子なんだ。
「駄目だってわかってたけど、自分には結衣さんが必要だったんです。俺は未熟者だから、結衣さんがいないと生活を営めないんです。だから…、もし彼氏がいて、ばれたなら、土下座でも何でもする覚悟でした。もし、人生を壊したなら、自分が命かけて償います。どうせ、天井の見えてる人生ですから…」
その言葉に胸が締め付けられる。
考えるより早く体が動き、私は椅子から立ち上がっていた。
振り返る隙を与えず、背中へと両腕を回し、力いっぱい抱きしめる。
彼の体は大きく、広いはずなのに、私の腕にすっぽりと収まってしまうように思えた。
こうでもしないと、今の彼を繋ぎ止められない、そう思った。
「もう、ほんと裕斗君は私がいないと駄目だね」
「…すいません」
「大丈夫、どうしようもなくなったら、私に頼って。私は裕斗君の力になるよ。
あ、でもその代わりに、今度、買い物付き合って。爆買いしたいんだけど、荷物持ちがいなくてね」
「どこに?」
「決めてないけど、そのときになったら決める!」
「……わかりました」
「頼んだからね…、言質とったからね」
彼は小さく頷く。その姿に安心し、私はそっと腕を解いた。彼は静かに立ち上がり、背を向ける。背後からの光を浴びて、その輪郭が一瞬だけ浮かび上がる。
だが、扉へ向かうにつれ、灯りの届かない影に吸い込まれていく。
その背中が消えてしまいそうで、思わず声を上げた。
「裕斗君!!」
咄嗟に、私は彼の名前を呼んでいた。
「いい? おかしくならないために、おかしくなるの。それは鉄則だからね」
柔らかく笑いながらそう告げると、彼は少しだけ眉をひそめた。
「どういうことですか?」
「それは裕斗君が、自分で考えるの。……大丈夫、裕斗君ならわかるはず。
自分を見つめ直せば、もう答えは近くにあるから。逃さないでね、掴み取るの」
しばらくの沈黙が流れる。
彼の視線は床に落ちていたが、その表情からは、言葉のひとつひとつを心の奥で受け止めようとしているのが伝わった。
大丈夫。彼なら理解してくれる。
それは決して楽観ではなかった。
どこか、悲劇的な運命を背負って生まれてきたような彼だからこそ、きっと辿り着ける。時間はかかっても、自分の足で。
……今回のことは、私にも非がある。
「何かあれば、きっと彼の方から連絡してくれる」、そんなふうに楽観的に構えていた。
でも、彼は、自分から助けを求められるタイプじゃなかった。
何かを頼るとき、そこには決まって罪悪感がつきまとうのだろう。
その脆さは、見た目には出ない。
けれど、彼の纏う雰囲気には、危うさが常に滲んでいた。
まるでトランプで組み上げられた塔のように、ほんのわずかな衝撃で一気に崩れてしまいそうな、そんな不安定さ。
いくら建て直しても、またすぐに傾いてしまう。……わかっていたつもりでいたけど、実際に体感すると、その深刻さは比べものにならなかった。
……だからこそ、彼が自らスマートフォンを預けてきたのが、私はとても嬉しかった。
それは、確かな信頼の証だった。
少なくとも、信頼していない相手に、そんな大事なものは預けられない。
彼には、きっと誰かの支えが必要だ。
管理とまではいかない。けれど、そばにいる人間として、もっと手を伸ばしてあげなければ。
それに……彼に言われた言葉を思い出すたび、どうしても母性本能がくすぐられる。
いや、それ以上に――ひとりの女性として、嬉しい。相手が15歳だというのに。
……せめて、あの意地悪な態度だけは直さないと。
「時間」は、多くのことを教えてくれる。
物理的な時間も、感情が流れる時間も、人にとっては等しく恩恵になる。
たとえば、誰かが自分にとってどういう存在なのか。それを明確にしてくれるのも、また時間だ。
……出張先でも、彼のことを何度も考えた。
今日帰ってきてからも、彼と会って数時間のあいだに、何度も何度も、思い返している。
数日会わなかっただけで、こんなに寂しいなんて。
彼のことが、放っておけない。
気づけば、私の生活の中で、彼はもう不可欠な存在になっていた。
一人暮らしの私にとって、彼は、弟であり、友達であり、アイドルであり、ときにはペットのように感じることもある。
でも、そのどれにも収まりきらない、かけがえのない存在だ。
……私も、そろそろ寝よう。
そう思いながらベッドに腰を下ろしたとき、テーブルの上に置いたスマートフォンが静かに光った。
ちらりと、画面をのぞき込む。
「杉原真由」。
通知の送り主には、見知らぬ名前だ。
一体誰……?
画面をタップする手を、反射的に止める。
メッセージの内容を見ることはできない。いや、見ようともしなかった。
彼の身内だろうか。それとも、東京時代の友人か。あるいは、いま通っている学校のクラスメイト?
……どんな可能性も考えられる。
喜ばしいことだ。
彼に連絡をくれる人がいる。彼のことを見てくれている人が、少なくとも、もう一人いる。
それなのに。
なぜだろう。
胸の奥に、言いようのない違和感が残っている。
杉原真由、
いったい、どんな人なんだろう。