17 悪霊の憑依 (1)
1週間半ぶりの再会だった。
出張中は思いのほか仕事が立て込み、彼とはほとんど連絡が取れなかった。
いや、正直に言うなら、意図して控えていたという方が正しいのかもしれない。
頻繁に連絡をすれば、煩わしいと思われるかもしれない。
彼の年齢を考えれば、もしくすると私はおばさんとして認識されているかもしれない。だとしたら、絶対に面倒に感じられている。
心のどこかで遠慮している部分があったし、
何より、いつも隣にいるからこそ、こういうときくらいは彼自身の時間を過ごしてほしいという気持ちもあった。
この機会に、彼が私以外の誰かと繋がるきっかけにもなるかもしれない。
何かあれば、彼のほうから連絡が来るはず、そんな楽観的な期待があったのも事実だ。
出張先は観光地としても知られる街で、気づけばお土産を買いすぎていた。
「どれだけ買ってるの」と同僚にからかわれたほど、つい手が伸びてしまっていた。でも、そんな時間を味わえるのも、彼と出会い、良好な関係を築けているからで、本当に色々な恩恵を享受しているなと感じる。
夕方、彼の部屋を訪ねる。
日が落ちかけて、空がうっすらと色を変え始めていた。
アパートの外廊下にはまだわずかに暑さが残っていて、コンクリートの壁に手をかざすと、じんわりと熱を感じた。
扉の前に立ち、軽くノックをする。
1週間会わなかっただけなのに、その手は微かに震えた。
しばらくして、内側から鍵の外れる音がした。
続けて、ゆっくりとドアが開く。
「裕斗君、お土産持ってきたよ」
われんばかりの声が自然と出たのに…
「……ありがとうございます」
返ってきたのは、わずかに掠れた声だった。表情もどこか浮かない。
「……大丈夫? なにか、あった?」
問いかけた瞬間、胸の奥に小さなざわめきが走る。
1週間ぶりに見る彼は、私の知っている彼とは明らかに違っていた。
頬はこけ、顔色は青白く、目の下には薄い影が滲んでいる。
前髪は伸びたまま乱れていて、その隙間から覗く瞳は焦点が合っておらず、虚ろだった。髪は寝ぐせが残ったままくしゃくしゃで、白いシャツの襟はくたびれ、袖口もだらしなく伸びていた。
もともと整った顔立ちのはずなのに、レンズの曇った眼鏡と疲労の色がそれを覆い隠していた。
それでも背筋はすらりとしていて、服の乱れすら魅力に変えてしまうスタイルの良さには、ため息がでそうになる。
世間一般の女の子が見たら、きっと〝ダメ男〟と一言で片付けられてしまう状態。
でも、そんな彼を見るのは、私にとって初めてだった。
「……いえ、大丈夫です」
かすれた声のまま、視線をそらす。
「ちょっと、部屋見せて」
「え、あ……ちょっと」
返事を最後まで聞かず、私は扉の隙間からそっと一歩踏み込んだ。
彼の部屋から、かすかな異臭がしたからだ。
どちらにしたって、放っておけるわけない。
「……だいぶ、乱れてるね」
部屋の中を見ただけで、生活のリズムが完全に崩れてしまっていることが見てとれた。
床には、脱ぎ捨てられた衣服が折り重なるように散らばり、使いかけのタオルや靴下が椅子の背に掛けられたままになっている。
隅には、空になったペットボトルやコンビニの袋が無造作に押しやられていて、1週間の彼の生活が見えてくる。
この部屋には何度か入ったことがあった。
そのときは、彼らしくきちんと整えられていて、どこか緊張感すらあったというのに…。
「……何があったか話してもらう前に、一旦片付けようか」
埃の匂いと、生活臭の入り交じった空気が、微かに肌にまとわりつく。
一旦、窓を開けて、換気されていない空気を外に逃がす。
「……はい」
彼は小さく頷く。
「ゴミの分別は私がやるから、裕斗君は洗濯を回して。あとは、できる限り整理整頓してくれる?」
「わかりました」
短い返事のあと、彼はすぐに行動を始めた。
洗濯機の蓋を開け、衣類を抱えて浴室前へ向かう。
次に部屋へ戻り、脱ぎっぱなしになっていた服やタオルを手早く拾い集め、床の上を少しずつ片付けていく。その姿は、さっきまでの虚ろさが嘘のように、動きに芯があり、目つきにもほんのわずかだが意志が戻っていた。
やれば、できる。
まだ本調子とは言えないけれど、それでも彼の動きは、テキパキとしていた。
彼に負けじと、私はビニール袋を両手に、床の隅に溜まったペットボトルや包装紙をひとつずつ分別していく。
少しづつだが、湿った空気がゆっくりと入れ替わり、部屋のこもった匂いも少しずつ薄れていく。
すべての片付けを終えたあと、そのまま彼を自宅へ連れていき、一緒に夕食を食べることにした。
テーブルの上には、炒め物と味噌汁、それから炊きたてのご飯を並べる。
食卓のオレンジ色の灯りの下、ようやく彼の表情に、わずかな柔らかさが戻っていた。
「一人だと、何も食べる気にならなかったけど……結衣さんといると、食べられます」
彼はぽつりとつぶやき、箸をゆっくりと動かす。
「いっぱい食べな。育ち盛りなのに、こんなに痩せちゃって……」
言いながらも、胸の奥が少し痛んだ。
たぶん、ここ数日、まともな食事をしていなかったのだろう。
食べる量は少なく、いつもより格段にゆっくりだった。
こんな姿を見せられては、誰だって過保護になってしまう…
思わず、手が彼の髪の方へと向かいたがるも、なんとか制御する。
静かな時間が流れるなか、私は声を落として尋ねた。
「……何があったの? 言える範囲でいいから、教えてほしい」
彼はしばらく俯いたままだったが、やがてぽつりと口を開いた。
「定期考査が近くて、本当は試験勉強をしないといけないはずなのに……まったく手につかなくて。何もしたくないんです。ただ、気づけばスマフォをスクロールしてる。それだけで、自然と時間が流れてくれるから……」
その声音は、どこまでも弱々しく、それでいて淡々としていた。
「……依存して、病んじゃったんだね」
「……そんな感じです」
「前から、ちょっと心配してた。裕斗君、性格的に、何かに依存しやすそうだから」
「……はい」
彼は小さく頷いた。
目元に影を落としたまま、それでも、私の言葉にはしっかりと耳を傾けている。
「スマホは〝微毒〟だからね。適切に使えば体に害はない。でも、使い方や時間を間違えれば……心を、蝕んでいく」
彼の表情には、隠しきれない迷いや疲労の色が浮かんでいる。
「明日から、定期考査が終わるまでの間、毎日、私の部屋に来なさい。一緒にご飯、食べるの」
「……はい」
その素直な返事に、胸の奥に少しだけ安堵が広がった。
「睡眠、運動、人との関わり。この3つを欠かすと、人は簡単に病んじゃう。……どれが欠けてる?」
「……全部です」
その一言に、思わず苦笑が漏れた。
「……まぁ、そうだよね。
でも、人との関わりは、私がいるから大丈夫。寝られないなら、一緒の部屋で寝よう。運動できないなら、私と一緒に夜、走りに行こうか」
「……そこまでは、大丈夫です」
そう言って、彼はようやく少しだけ目を細めた。
その表情がどこか無防備で、ほんの少しだけ憎らしくて、思わず拳を握って、
コツン、と、彼の額を小突いた。
「結衣さんに……お願いがあるんです」
と、ぽつりとつぶやく。
私は小さく頷く。
「何? なんでも言ってみな」
彼は少し躊躇したあと、視線をそらしながら口を開いた。