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  作者: Salt
16/27

16 d-day (2)


 どれくらい眠っていたのだろうか。


 ぼんやりと意識が浮かび上がってくる。

重たいまぶたをゆっくり持ち上げると、視界のすぐ前に、彼の顔があった。


 瞬間的に意識は鮮明になり、そのまま一度息が止まる。


 驚いて体を起こそうとしたけれど、動けなかった。あまりにも近く、あまりにも静かで。彼は、私の方に顔を向けたまま、眠っている。


 すぐ横で見つめ合える距離。

 こんなにも近くで彼の顔をまじまじと見れる時間は、今後ないかもしれない。


 だが、近すぎて若干後退する。

 これは心臓に悪い。


 毛穴ひとつ見当たらないほど滑らかで、決める細かい肌。光の角度で淡く艶めきさえ感じさせる。ため息が出そうになるほど整っていて、触れたら壊れてしまいそうなほど、繊細だった。


 失礼を承知で言うのなら、「儚い」という言葉が、彼ほど似合う人はいないのではないかと思う。


 まるで、何かを1人で背負って帰っていく、どこかの使徒のような、そんな面影。


 私はただ、じっと眺めていた。彼の平行線上に、同じ高さで。


 本当に、同い年なのだろうか。

 どんな人生を生きてきたのだろう。

 寝ているのに、溢れている雰囲気と静けさは、育った環境のせいなのか。

 それとも、背負ってきた痛みの深さがそうさせたのか。


 気がつけば、彼の頬にそっと手を伸ばしていた。


「これくらい……いいよね」


 触れた指先に伝わってきたのは、ほんのりとした冷たさと、淡くやわらかな感触。

 その体温を確かめるように、なぞるわけでもなく、ただ静かに触れていた。


 知りたい。

 彼についてもっと知りたい。


 こんなにも、誰かのことを知りたいと思ったのは、たぶん、初めてだった。


「あ……」

 小さな息とともに、彼のまぶたがゆっくりと持ち上がった。

 焦点の合わない目が、しばらく空をさまようように揺れ、やがて私を捉える。


「……起きた?」


「うん」


 短くそう返しながら、彼はゆっくりと体を起こした。

 細い腕を軽く伸ばし、背中を丸めるようにストレッチする。

 その仕草すらも、どこか繊細に見えて、思わず目が離せなくなる。


 机の上には、開いたままのノートと、シャーペン。

 まだ完全には現実に戻りきっていない彼の姿に、心のどこかがじんわりと温かくなっていた。


「疲れてそうに見えたから、起こさなかった」


「ありがとう。ここんところ全然寝れなくて」


 私は額に残る微かな熱を手の甲でそっと拭い、小さく息をついた。


「それなら、よかった」


「少し、疲れが取れた気がする」


「私は勉強するけど、裕斗はもう少し寝てた方がいいと思うよ」


 これ以上、彼の顔を見ていては心臓がもたない。

 視線をノートへ戻し、ただ印刷された文字列を追いかける。意味なんて、頭に入ってこないのに。


「……俺も、勉強しなきゃ」


 そう言って、彼はリュックの中からワークを取り出し、無言でページをめくった。

 少し乱れた髪を指先で払う仕草が、どこか眠たげで、それでも真面目に取り組もうとする意思が垣間見えた。


 そこから閉館時間まで、時おり机に突っ伏しそうになりながらも、彼は黙々とペンを動かしていた。



「まもなく、閉館時間となります。利用者の方は、退出をお願いします」


 館内アナウンスを聞いて、2人して頭を上げる。


「もう、そんな時間か」


「全然、気づかなかった。それだけ、集中してたってことだね」

 

 外はすっかり暗くなっていて、窓に映る自分たちの姿がぼんやりと浮かんでいた。


 途中で何度か小さな会話を交わしながらも、ほとんどは黙って机に向かっていた。

 その沈黙すら、不思議と心地よかった。


 周りに目を配れば、自分たち以外には誰もいない。

 同じクラスの女子たちも、いつの間にか帰っていた。


 一旦、図書館を後にする。

 なんか新鮮な気持ち。誰かと勉強することなんていつぶりだろう。

 勉強するときは予備校か、自宅で机に向かう。友達は、せっかく会うなら、楽しいことをしたいと考える子しかいない。なんか、私、青春してるかも。


「真由の家は、ここから遠い?」


 図書館を出てからの帰り道。

 歩幅を合わせながら並ぶ彼が、ふと口を開いた。


「え、あ、うん。歩いて……20分くらいかな」


「家まで送るよ」


「いいよ、わざわざ。そんなの、悪いし」


「いや、送る。暗くて危ないし、今日誘ったのは俺だから。

これくらいは、させて」


 時計を見ると、短針はすでに夜の8時をまわっていた。

 風は少し冷たくなり、駅前の灯りもまばらに揺れている。


「……じゃあ、お願い」


 申し出を断るのは、少し申し訳なく感じた。

 それに、たぶん彼は絶対についてくる、そんな人なのだと思った。


「裕斗の家は、ここから近いの?」


「うん、あのマンション」


 そう言って彼が指さした先には、大きなマンションがそびえていた。

 距離はあるものの、その輪郭ははっきりと見える。暗がりの中でも、くっきりと存在感を放っていた。


「けっこう住みやすそうなマンションだね」


「……今は、あまり帰りたくないかな。帰る場所はあそこしかないんだけど」


「私の家に来たいってこと?」


「そういう訳ではない」


「いて」


 反射的に、軽くグーパンチを繰り出していた。

 手の甲が、彼の腕に軽く当たると、彼はカウンターを食らったかのように、わざとらしく肩をすくめた。


 その顔には、困ったような、それでいてどこか笑っているような表情が浮かんでいた。

 初めて見るその表情が、妙に印象に残った。

 感情を引き出せたような気がして、頬がふっとゆるむ。


 その流れで、ずっと気になっていたことを、自然に口にすることができた。


「ねぇ、東京から越してきたんでしょ? 田舎と都会の違いって、何があると思った?」


「……街灯の数が、圧倒的に違うかな。ここはとにかく夜が暗い、心配になるくらいには。少なくとも、俺の住んでた生活圏は、こんな暗さと隣り合わせではなかったかな」


「そうなんだ」

 

 言われてみれば、暗いかもしれないけど…

 都会の夜を意識して見たことがないから、比較のしようもない。

 でも彼の言葉を聞いてから、急に、暗さが強まって見えた。


「他には?」


「東京は良くも悪くも、人が多い。人が多ければ、その分だけ、他人に興味を持つ機会が減る。逆に少なければ、そのぶん目が向くことが増える。

東京の人には、〝暇〟っていう感覚があまりないから、他人に興味が生まれない。

みんな生きるので精一杯だから。

それが健全かどうかはわからない。でも、そっちの方が楽っていう人も、多いのかもしれない。……まぁ、あとは静かさも違う。ここはどこまでも静か」


「私は、そっちの方がいいかな~。裕斗は、どっちがいい?」


「今は……わからない。時間が経ってから、わかることだと思う」


「そっかぁ~。……あ、ここ。私の家」


 駅からの道のりは、思ったよりも短く感じた。

 1人で歩いたときは、あんなにも長く感じた道だったのに。

 彼と並んで歩いた帰り道は、まるで時間が圧縮されたかのように、あっという間に終わってしまった。


「今日は、本当にありがとう」


 玄関の前で立ち止まり、私は彼の方へと向き直る。


 昼に見た彼も似合っていたが、おそらく彼は夜が似合うんだと思う。

 夜の暗さに彼は馴染んでいる、この暗さが彼の雰囲気に合って、内側から何かを引き出しているようだ。


「辛くなったら、いつでも頼って。1人で抱え込まないで。……信用しろとは言わないけど、私は変わらずここにいる。裕斗から離れることは、ないから」


「ありがとう」


 どうしてこんな言葉が出てきたのか、自分でもわからなかった。

 誰かに言われることはあっても、自分の口から伝えたのは、たぶん初めてだ。


 でも、自然に出た。まるでそこに引力が発生しているかのように、彼へと吸い寄せられて。


 彼が誰かを頼るのは、本当に限界まで追い詰められたときだけ。

 ちょっとやそっとのことじゃ、彼は人に弱さを見せたりしない。

 だからこそ、彼が私を頼ってくれたときは、なんでもしてあげたいと思った。


「じゃあ」


「うん」


 彼は、私が家の扉を閉めるまで、その場を離れなかった。


 


 この先、私はきっと一生、お母さんの支配のもとに生きていくのだろう。

 普通に生きていては、幸せになんてなれない。だから、高校生活に期待しないようにしていた。希望を抱かない方が、長い目で見れば、自分を守ることにつながると思っていたから。


 だけど今。


 もし未来の私が、人生を振り返ったとき、「高校生のときが一番輝いていた」と、

思える時間をこれから過ごせるのなら。

 たとえそれがほんの一瞬でも、私はその時間を味わいたい、その時間に満たされたい。


 私の花様年華。人生で一番輝いている時間は、高校生だった。そう思える日々が、これから待っているのなら…。

 たとえ短絡的で、未熟だとしても、それほどまでに、彼の存在は鮮烈だった。


 もしかしたら私は、灰色の列車に乗って、お母さんが描いた世界の終わりへと、ゆっくり、向かっているのかもしれない。

 でも、お母さんが描く人生を私が進んだとして、そんな世界に生きる価値なんて、あるのだろうか。


 

「お母さん。お母さんにとって、お父さんは希望だったの?」


 どうして私を産んだの。

 自分の人生で果たせなかったことを、どうして私に背負わせるの。

 どうして私を、所有物みたいに管理しようとするの。



 彼次第だ。

 私の人生を、誰かに委ねたいと思ったのは、これが初めてだった。


 生まれて初めて出会った〝真の希望〟あるいはそれ以上の〝絶望〟。

 真実であり、嘘偽りかもしれない。愛であり憎しみで、敵であり友で、天国であり地獄で、誇りであり恥。

 ほんの少し前まで隣にいた彼が、本物だったのか、それとも仮面だったのか、それすら、まだわからない。


 でも、それでも。


 私は彼の背中を目で追ってしまうのだ。

 出会ってしまったのだ。


 生きていく意味なんて、まだよくわからない。

 それでも、ほんの少しだけ、背中が軽くなった気がした。


 真暗な影の世界は恐ろしかったけど、白昼のような色とりどりの世界は、幾分か呼吸がしやすい、そんな感覚と、涙だけが残った。


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