16 d-day (2)
どれくらい眠っていたのだろうか。
ぼんやりと意識が浮かび上がってくる。
重たいまぶたをゆっくり持ち上げると、視界のすぐ前に、彼の顔があった。
瞬間的に意識は鮮明になり、そのまま一度息が止まる。
驚いて体を起こそうとしたけれど、動けなかった。あまりにも近く、あまりにも静かで。彼は、私の方に顔を向けたまま、眠っている。
すぐ横で見つめ合える距離。
こんなにも近くで彼の顔をまじまじと見れる時間は、今後ないかもしれない。
だが、近すぎて若干後退する。
これは心臓に悪い。
毛穴ひとつ見当たらないほど滑らかで、決める細かい肌。光の角度で淡く艶めきさえ感じさせる。ため息が出そうになるほど整っていて、触れたら壊れてしまいそうなほど、繊細だった。
失礼を承知で言うのなら、「儚い」という言葉が、彼ほど似合う人はいないのではないかと思う。
まるで、何かを1人で背負って帰っていく、どこかの使徒のような、そんな面影。
私はただ、じっと眺めていた。彼の平行線上に、同じ高さで。
本当に、同い年なのだろうか。
どんな人生を生きてきたのだろう。
寝ているのに、溢れている雰囲気と静けさは、育った環境のせいなのか。
それとも、背負ってきた痛みの深さがそうさせたのか。
気がつけば、彼の頬にそっと手を伸ばしていた。
「これくらい……いいよね」
触れた指先に伝わってきたのは、ほんのりとした冷たさと、淡くやわらかな感触。
その体温を確かめるように、なぞるわけでもなく、ただ静かに触れていた。
知りたい。
彼についてもっと知りたい。
こんなにも、誰かのことを知りたいと思ったのは、たぶん、初めてだった。
「あ……」
小さな息とともに、彼のまぶたがゆっくりと持ち上がった。
焦点の合わない目が、しばらく空をさまようように揺れ、やがて私を捉える。
「……起きた?」
「うん」
短くそう返しながら、彼はゆっくりと体を起こした。
細い腕を軽く伸ばし、背中を丸めるようにストレッチする。
その仕草すらも、どこか繊細に見えて、思わず目が離せなくなる。
机の上には、開いたままのノートと、シャーペン。
まだ完全には現実に戻りきっていない彼の姿に、心のどこかがじんわりと温かくなっていた。
「疲れてそうに見えたから、起こさなかった」
「ありがとう。ここんところ全然寝れなくて」
私は額に残る微かな熱を手の甲でそっと拭い、小さく息をついた。
「それなら、よかった」
「少し、疲れが取れた気がする」
「私は勉強するけど、裕斗はもう少し寝てた方がいいと思うよ」
これ以上、彼の顔を見ていては心臓がもたない。
視線をノートへ戻し、ただ印刷された文字列を追いかける。意味なんて、頭に入ってこないのに。
「……俺も、勉強しなきゃ」
そう言って、彼はリュックの中からワークを取り出し、無言でページをめくった。
少し乱れた髪を指先で払う仕草が、どこか眠たげで、それでも真面目に取り組もうとする意思が垣間見えた。
そこから閉館時間まで、時おり机に突っ伏しそうになりながらも、彼は黙々とペンを動かしていた。
「まもなく、閉館時間となります。利用者の方は、退出をお願いします」
館内アナウンスを聞いて、2人して頭を上げる。
「もう、そんな時間か」
「全然、気づかなかった。それだけ、集中してたってことだね」
外はすっかり暗くなっていて、窓に映る自分たちの姿がぼんやりと浮かんでいた。
途中で何度か小さな会話を交わしながらも、ほとんどは黙って机に向かっていた。
その沈黙すら、不思議と心地よかった。
周りに目を配れば、自分たち以外には誰もいない。
同じクラスの女子たちも、いつの間にか帰っていた。
一旦、図書館を後にする。
なんか新鮮な気持ち。誰かと勉強することなんていつぶりだろう。
勉強するときは予備校か、自宅で机に向かう。友達は、せっかく会うなら、楽しいことをしたいと考える子しかいない。なんか、私、青春してるかも。
「真由の家は、ここから遠い?」
図書館を出てからの帰り道。
歩幅を合わせながら並ぶ彼が、ふと口を開いた。
「え、あ、うん。歩いて……20分くらいかな」
「家まで送るよ」
「いいよ、わざわざ。そんなの、悪いし」
「いや、送る。暗くて危ないし、今日誘ったのは俺だから。
これくらいは、させて」
時計を見ると、短針はすでに夜の8時をまわっていた。
風は少し冷たくなり、駅前の灯りもまばらに揺れている。
「……じゃあ、お願い」
申し出を断るのは、少し申し訳なく感じた。
それに、たぶん彼は絶対についてくる、そんな人なのだと思った。
「裕斗の家は、ここから近いの?」
「うん、あのマンション」
そう言って彼が指さした先には、大きなマンションがそびえていた。
距離はあるものの、その輪郭ははっきりと見える。暗がりの中でも、くっきりと存在感を放っていた。
「けっこう住みやすそうなマンションだね」
「……今は、あまり帰りたくないかな。帰る場所はあそこしかないんだけど」
「私の家に来たいってこと?」
「そういう訳ではない」
「いて」
反射的に、軽くグーパンチを繰り出していた。
手の甲が、彼の腕に軽く当たると、彼はカウンターを食らったかのように、わざとらしく肩をすくめた。
その顔には、困ったような、それでいてどこか笑っているような表情が浮かんでいた。
初めて見るその表情が、妙に印象に残った。
感情を引き出せたような気がして、頬がふっとゆるむ。
その流れで、ずっと気になっていたことを、自然に口にすることができた。
「ねぇ、東京から越してきたんでしょ? 田舎と都会の違いって、何があると思った?」
「……街灯の数が、圧倒的に違うかな。ここはとにかく夜が暗い、心配になるくらいには。少なくとも、俺の住んでた生活圏は、こんな暗さと隣り合わせではなかったかな」
「そうなんだ」
言われてみれば、暗いかもしれないけど…
都会の夜を意識して見たことがないから、比較のしようもない。
でも彼の言葉を聞いてから、急に、暗さが強まって見えた。
「他には?」
「東京は良くも悪くも、人が多い。人が多ければ、その分だけ、他人に興味を持つ機会が減る。逆に少なければ、そのぶん目が向くことが増える。
東京の人には、〝暇〟っていう感覚があまりないから、他人に興味が生まれない。
みんな生きるので精一杯だから。
それが健全かどうかはわからない。でも、そっちの方が楽っていう人も、多いのかもしれない。……まぁ、あとは静かさも違う。ここはどこまでも静か」
「私は、そっちの方がいいかな~。裕斗は、どっちがいい?」
「今は……わからない。時間が経ってから、わかることだと思う」
「そっかぁ~。……あ、ここ。私の家」
駅からの道のりは、思ったよりも短く感じた。
1人で歩いたときは、あんなにも長く感じた道だったのに。
彼と並んで歩いた帰り道は、まるで時間が圧縮されたかのように、あっという間に終わってしまった。
「今日は、本当にありがとう」
玄関の前で立ち止まり、私は彼の方へと向き直る。
昼に見た彼も似合っていたが、おそらく彼は夜が似合うんだと思う。
夜の暗さに彼は馴染んでいる、この暗さが彼の雰囲気に合って、内側から何かを引き出しているようだ。
「辛くなったら、いつでも頼って。1人で抱え込まないで。……信用しろとは言わないけど、私は変わらずここにいる。裕斗から離れることは、ないから」
「ありがとう」
どうしてこんな言葉が出てきたのか、自分でもわからなかった。
誰かに言われることはあっても、自分の口から伝えたのは、たぶん初めてだ。
でも、自然に出た。まるでそこに引力が発生しているかのように、彼へと吸い寄せられて。
彼が誰かを頼るのは、本当に限界まで追い詰められたときだけ。
ちょっとやそっとのことじゃ、彼は人に弱さを見せたりしない。
だからこそ、彼が私を頼ってくれたときは、なんでもしてあげたいと思った。
「じゃあ」
「うん」
彼は、私が家の扉を閉めるまで、その場を離れなかった。
この先、私はきっと一生、お母さんの支配のもとに生きていくのだろう。
普通に生きていては、幸せになんてなれない。だから、高校生活に期待しないようにしていた。希望を抱かない方が、長い目で見れば、自分を守ることにつながると思っていたから。
だけど今。
もし未来の私が、人生を振り返ったとき、「高校生のときが一番輝いていた」と、
思える時間をこれから過ごせるのなら。
たとえそれがほんの一瞬でも、私はその時間を味わいたい、その時間に満たされたい。
私の花様年華。人生で一番輝いている時間は、高校生だった。そう思える日々が、これから待っているのなら…。
たとえ短絡的で、未熟だとしても、それほどまでに、彼の存在は鮮烈だった。
もしかしたら私は、灰色の列車に乗って、お母さんが描いた世界の終わりへと、ゆっくり、向かっているのかもしれない。
でも、お母さんが描く人生を私が進んだとして、そんな世界に生きる価値なんて、あるのだろうか。
「お母さん。お母さんにとって、お父さんは希望だったの?」
どうして私を産んだの。
自分の人生で果たせなかったことを、どうして私に背負わせるの。
どうして私を、所有物みたいに管理しようとするの。
彼次第だ。
私の人生を、誰かに委ねたいと思ったのは、これが初めてだった。
生まれて初めて出会った〝真の希望〟あるいはそれ以上の〝絶望〟。
真実であり、嘘偽りかもしれない。愛であり憎しみで、敵であり友で、天国であり地獄で、誇りであり恥。
ほんの少し前まで隣にいた彼が、本物だったのか、それとも仮面だったのか、それすら、まだわからない。
でも、それでも。
私は彼の背中を目で追ってしまうのだ。
出会ってしまったのだ。
生きていく意味なんて、まだよくわからない。
それでも、ほんの少しだけ、背中が軽くなった気がした。
真暗な影の世界は恐ろしかったけど、白昼のような色とりどりの世界は、幾分か呼吸がしやすい、そんな感覚と、涙だけが残った。