15 dーday (1)
彼とは、駅で待ち合わせた。
LINEでやりとりしている内に、最寄りの駅が同じことがわかり、それならと、自然に集合場所が決まった。駅まわりの勉強場所については、自分がときどき利用していたから、当日の混み具合を見て、向かう場所は決めることになった。
「なんか、物足りない気もするけど……
これくらいでいっか」
鏡に映る自分は、どこか物足りなく見えた。
前に彼と会ったときの印象から、少なくとも学校の状態での彼は、周囲の視線に多少敏感なタイプだと気づいた。
メイクは全体的に控えめ。ベージュ系の肌なじみのよい色でまとめ、血色感も最小限に。服装も、淡い色のカーディガンとタイトめな黒のパンツという、目立ちすぎない組み合わせにした。
落ち着いた印象にはなったけれど、わたし自身の基準としては、物足りない…
でも、認識の中での彼の視点に立てば、これがベスト。
「14:00」
待ち合わせの時間、ぴったり。
自然と口元が引き締まる。
待ち合わせでこんなにも緊張したことが今まで会ったか。
「ごめん、ちょっと遅くなった」
後ろから声がかかる。
反射的に振り返ったその瞬間、何もかもが止まった。
視線も、体の動きも、私に流れる時間も。
止まらざる得なかった。
なぜなら、そこに立っていたのは、私の知る彼ではなかったから。
薄陽が差す空の下、淡く光を含んだアイスグレーのカーディガン。その下には深い黒のワイドパンツ。そのシルエットは、ゆったりとしているが、不思議とどこか洗練されて見える。
足元の白いスニーカーも、ごく普通のデザインなのに、どこかバランスがよく見える。全体に無駄がなく、抜けすぎてもいない。
けれど何より目を奪われたのは、その顔だった。
「ごめん、驚くよね。学校に行くときは目立ちたくないから、肌のトーンを落としてて。本当の肌色はこんな感じ」
白く、透けるような肌。
陶器のように滑らかで、繊細な光をまとっているようだった。
女子の中でも色白な部類に入る私と並んでも、遜色ない透明感。
メイクも繊細だった。ベースは薄く整えられ、まぶたにはラメの入らない、柔らかなブラウンの影が差していた。瞳の下にさりげなく仕込まれた、くすみピンクのニュアンスが儚げな印象を与えている。
輪郭に沿った髪の毛も、整えているのか無造作なのか判別しづらい絶妙なバランスで、いつものぺたんとした髪とはまるで別物だった。
「前に図書室で勉強したとき、見たいって言ってたから。
それに、誘ったのは俺だし……変なら、今からでも落としてくるけど」
その言葉に、私は慌てて首を振った。
「変じゃないよ。そのままで、いいよ」
手鏡でメイクの崩れを確認していたことも、彼の姿を見た瞬間にすっかり忘れていた。目を逸らすことができず、無意識に彼の顔を追ってしまう。
これが彼の、本当の姿。
顎のラインはすっきりとしていて、頬骨の位置も高い。
横顔の輪郭が浮き立つように整っており、顔周りを縁取る髪の流れも自然で、それでいてどこか計算されたような美しさがあった。
彼は、自分に何が似合うのかを知っている。あくまでさりげなく、それでいて確実に印象を残す。そのセンスが、彼の一挙手一投足ににじんでいた。
「行こっか。ここら辺の自習スペースはちょっと見てきたけどテスト前で混んでた。ちょっと歩くけど図書館にしよう」
「うん」
駅前の通りから少し外れた並木道が続いていた。
やわらかい木漏れ日が地面に模様を落とし、歩くにはちょうどいい気候だった。
「ごめん、急に誘っちゃって」
図書館までの道すがら、並んで歩いていた彼がふと足を緩め、小さな声で切り出した。 その声は風の音にまぎれるように低く、けれど確かに、迷いの色が混ざっていた。
「いいけど……どうしたの、急に」
彼の歩調を合わせながら、少しだけ顔を傾けて彼のほうを見た。
「ちょっと精神的にきつくて。1人じゃ勉強も手につかない状況で……。
杉原さん以外に、誘える人なんていなかった」
彼は地面に視線を落としたまま、ぽつりとつぶやいた。
長めの前髪が顔の輪郭に沿って流れ、横顔に影を落としている。
「真由って呼んで。私は裕斗って呼ぶから。せっかく2人で勉強するのに、苗字呼びは……なんかいやだ」
照れくさく目をそらしながら言うと、彼は短く頷いた。
「……わかった」
「え、」
「なに?」
「なんでもない」
あっさりと受け入れられて、拍子抜けする。
いつもならもう少し間があってもおかしくない。
それに塩対応がデフォルトの彼が、こんなふうに素直に返すなんて。
やっぱり、今日は少しおかしい。
てか、受け入れられると思ってなかったから、どうしよう…
「と、友達とか……いなかったの?中学時代の」
慌てて口にして、自分の言葉がきつすぎたかもしれないと気づく。
けれど、彼は眉一つ動かさず、淡々と応えた。
「中学は東京の中学だった……。先月、こっちに引っ越してきて、今は一人暮らししてる」
「そ、そうなんだ……」
思いがけない言葉に、頭の中にいくつもの疑問が浮かんだ。
けれどそれ以上を尋ねるには、言葉が追いつかなかった。
彼は会うたびに、何かしら小さな衝撃を与えてくる。しかもいつも、それは私の想像の少し先を行くような、どこか距離を感じさせる事実ばかり。
「驚いた?」
「……そりゃ、驚くわ。で、こっちに来たのはどうして?ご両親の実家があるとか?」
「色々あってここに来た。
全然知らない土地で、受験で初めて来た」
「そうなんだ……」
彼の声が、ほんのわずかに乾いて聞こえた。
足元の歩幅もわずかに鈍って、視線は舗道の石畳に落ちていた。
触れてはいけない場所に、踏み込んでしまったのかもしれない。
考えてみれば、
彼はいつも1人でいる。誰かと話す姿も、笑う様子も見たことがない。
それはきっと、彼のまとっている空気が、周囲を遠ざけているから。
そして今、その雰囲気はさらに濃くなっていた。
整った顔立ちも、落ち着いた服装も、どこか近寄りがたさを増しているように感じる。
暗くて、乾いていて、それでいてどこか繊細で脆い。
仮面の奥に、こんな顔を隠していたなんて。
「生きていることが辛い」
何度もそう思ったことのある私は、わかってしまう。彼が、似た種類の人間だということが。
ただでさえ、何もかも1人で抱え込んでしまいそうな彼が、一人暮らしなんてしていたら…
「1人でいることが、耐えられなかった……
どうにかなっちゃいそうで」
歩き続ける足を止めることなく、彼はぽつりと呟いた。
その声は弱々しく、けれど、言葉にするには充分なほど切実だった。
そりゃ、そうなるよ。
心の中で浮かんだ言葉は、けれど、喉を通ることはなかった。
「……大丈夫。今日は私が隣にいるから。一緒に頑張ろう」
「ありがとう」
彼がほんの少しだけ目を伏せ、頬にかかる前髪がふわりと揺れた。
その横顔を、少しだけ遠慮がちに見つめる。
彼が生きている世界は、いつもマイナスの温度を帯びている。
だからせめて今日という日だけでも、
私といるこの時間だけでも、
ほんの少しでも、その温度をゼロに近づけられたらいいと思う。
「こんな所に図書館があるんだ」
話しているうちに、図書館を前にしていた。
「ここ、結構おすすめだよ。広いし、蔵書の数も多いし、何より綺麗」
エントランスの自動ドアが静かに開き、ひんやりとした空気が足元を抜けていく。
建物は古めながらも、清潔に保たれていて、1階と2階には本棚が並び、所々に自習する場所が点在する。
階段を上がるあいだ、彼は何も言わずに歩いていた。
手すりにそっと指先を添え、軽い足取りで一段ずつ登っていく。
カーディガンの袖がわずかに揺れ、その柔らかな素材が光を反射する。
自習室スペースは予想通り空いて、駅から少し距離があるせいか、利用者はまばらで、席の間隔も広く取られている。
空気は静かで、ぴんと張ったような落ち着きがあった。
「ん??」
ふと視線を巡らせると、見覚えのある後ろ姿がいくつか目に入った。
まさか…そうだ、間違いない!同じクラスの女子たちだ。
言葉を交わしたことはないが、制服姿や声で判断がつく。
ばれるかもしれない、そんな思いが頭をかすめる。
「そこ、空いてるから座ろ」
「あ、うん」
気にする素振りもなく、彼は奥にある長机の一角を指さした。
静かに椅子を引く所作は落ち着いていて、迷いがなかった。
彼は気づいていないのだろうか。
あるいは、気づいたうえで気にしていないのか。
わからないまま、隣の椅子に静かに腰を下ろした。
「集中できそう?」
「わからない。でも、こうやって真由と一緒にいると、そうでない時間よりも楽」
ボールペンを指先でくるりと回しながら、彼はぽつりとつぶやいた。
「……まぁ、それは当然だよ。楽になってもらえなかったら、相当な欲張りさんだよ」
照れくささを隠すように少し早口になった自分の声が、机の上にさらりと落ちる。〝真由〟彼の口から下の名前で呼ばれるなんて…心の準備が。
それに。いつもの自分なら、なんて事ない一言が、どうしてか彼を前にすると一喜一憂につながる。
でも…。彼は、副担任の小林先生に恋をしている。
もしあの先生が、今の彼に会ったとしたらどんな顔をするのだろう。
驚いて、言葉を失って、それでも笑うのだろうか。それとも…。
「勉強してて辛くなったら、いつでも声かけてね」
そう告げると、彼はほんの少しだけ視線を上げて、静かにうなずいた。
「ありがとう」
それ以上、互いに言葉を交わすことはなかった。
教科書を開き、ノートを広げる。
カリカリという筆記音と、ページをめくる控えめな音だけが、静かに机の上に流れていた。
私は、一度集中してしまえば、周りのことが気にならなくなるタイプだ。
だから、さっきまで意識の多くを占めていた彼への気持ちも、徐々に学習内容のなかへと消えていった。
20~30分経った頃だろうか、不意に強い眠気が襲ってきた。
昨晩は、彼からの連絡がきっかけでなかなか寝つけず、浅い眠りを何度も繰り返していた。ようやく眠れたと思えば、すぐにまた夢の中へ引き戻されるような夜で、目覚めたときの感覚は重かった。
彼と一緒にいると緊張する。けれど同時に、不思議と落ち着きもする。
矛盾しているようだけど、それはたぶん、どこか似ているからかもしれない。
抗えない眠気に身を委ね、机に肘をつき、頬を乗せるようにして静かに目を閉じた。