13 万感
「メイクなんてしてないよ」
「素直になりなって。嘘つき少年はモテないよ~」
軽やかに、でもどこか探るような口調で、杉原さんは小さく笑った。
その笑みは、いたずらっぽくもあり、こちらの反応を試すようでもある。
「目の周りの色素沈着とか、時間が経って浮いてきたコンシーラーは、どう言い訳する?」
「それは…」
予想以上に、鋭い指摘。
無駄に観察力が高い…。
それはそうか。
杉原さんのメイクをよく観察してみるとわかるが、それは綺麗に調和の取れた1つの作品だった。
これだけの完成度なら、メイクに対する知識も理解度も相当なレベルだ。
「ごめん。……誰にも言わないで。詳しいことは話せないけど、杉原さんと似たような感じ」
「そっか~、まぁいいや。今度、メイクした姿見せてくれるなら、それで許す」
「……わかった」
面倒な相手に目をつけられたか気が…。
状況を整理しようにも、どこからどう片付けていいのかわからない。
一旦は向き合うしかない。
「私のこの姿、どう?」
また面倒な質問。
「自分でもわかってるでしょ。わざわざ言わせる?」
言った後で、冷たい言い方をしてしまった事に気づく。
こういうとき、どう反応するのが正解なのか。杉原さんくらい顔が整っている人が、自ら言わせた可愛いに、本人は満足できるのだろうか。
「つまらない男……。まぁいいや。これからよろしくね」
「よろしくって?」
「似た者同士、仲良くしようってこと」
反応を見透かしていてのか、ひるむ様子は一切みられない。
かと思えば、カバンの中から教科書を取り出す。
「別に邪魔しに来たわけじゃないよ。私も勉強しに来たんだもん」
どこまでも透き通るような髪を、指先でさらりとすくいながら、杉原さんは耳元を整え、静かに教科書を広げた。
右手に握ったペンは細身で、軸の金属が照明を受けてわずかに光を返す。
前髪の影に隠れていた輪郭が、髪の動きにあわせてふと露わになる。
小さな骨格に、配置よく整ったパーツがおさめられている。
これは隠したくもなる…。
そして。
杉原さん以上に、自分自身にも驚いている。
いつの間に、顔の細部にまで注目して、それを分析できるほどの審美眼を身につけていた……。
メイクについてもそうだが、わざわざ意識して観察しているつもりはないのに、自然と目が拾ってしまう。
「なに、勉強しないの?」
「あ、うん。ぼうっとしてた」
でも、仕方ないのかもしれない。
環境の中で自然と身についてしまった感覚なのだから。
杉原さんの行動は、どこまでも読めない。
けれど、一度ノートに視線を落とし、静かにペンを動かし始めると、自分の世界に入って、集中し始めた。
自分も気を取り直し、目の前に開かれたままの数学の教科書に視線を落とす。
そして、そのときになって、古典の教科書をまだカバンから取り出していないことに気づいた。
「数学で苦戦してるの?」
戸惑っているのを察したのか、杉原さんがふっと身を乗り出してきた。
椅子が小さくきしむ音とともに、彼女の肩がわずかに近づく。
そして次の瞬間、杉原さんの視線が、俺の教科書へと滑り込んでくる。
慌てて手を伸ばして隠そうとしたが、すでに遅かった。
彼女は軽やかな手つきで教科書を引き寄せ、ページに目を通す。
「裕斗君って、数学苦手でしょ。授業のとき、いつも〝理解不能〟って顔してるよ」
斜め後ろの席から、そこまで見られていたとは思わなかった。
けれど否定はできない。たしかに、あの授業はさっぱりだ。
「私、こう見えても数学はそれなりに得意なの。私に任せて。どこでつまずいたの?」
~~~゛10分後゛~~~
杉原さんの説明は、わかりやすかった。
俺がどこでつまずいているのかをすぐに見抜き、その箇所に重点を置いて言葉を重ねてくれる。 教科書の端にさらさらと書かれる数字や図式も整っていて、視覚的にも理解しやすい。
曖昧だった部分が、少しずつ繋がっていくのがわかった。
才色兼備、そんな言葉がふと浮かぶ。
「説明してて思ったけど、裕斗君ってさ、たぶん、真面目にやればできるタイプだよ。まぁ、それ以上に因数分解は理解してて安心した」
「さすがにそれくらいは…
助かった、ありがとう」
そう言うと、杉原さんは何かを思い出したように、ぱちんと軽く指を鳴らした。
「じゃあ眼鏡とって、その長い髪あげてみて」
「……いつかね」
即答は避け、ほんの少し間を置いて返した。照明の反射を避けるように視線を落とすと、彼女は口元をすぼめて肩をすくめた。
「けち」
その一言には怒気も皮肉もなかった。
「でも、〝いつか〟ってことは未来に、2人で会うことが約束されたね」
そしてそのまま、彼女は再びノートに視線を落とす。
「…」
頭の回転が速く、異様に賢い。
それからは、互いに口を閉ざし、それぞれの教科書に集中した。
そばにいるのに干渉しすぎない、自分にとって心地のよい距離感。
杉原さんがどこまで関心を持っているのか、正直まだよくわからない。
ただ、今この時間においては、近すぎず遠すぎない、ちょうどいい関係に思えた。
それにしても、「本来の自分を偽る行為」、そんなことをしている人が、身近に2人もいるなんて。
結衣さん。そして杉原さん。
俺は結衣さんを見たのをきっかけに始めた。
どこか自分と似た感覚を持っている人とは、理解し合える可能性があるのかもしれない。
実際、結衣さんは俺のことをよくわかってくれていると感じている。
杉原さんとも、少しずつなら…。
…いや、それでいいのか?
そんな簡単に人を信じて、期待して……。
そんな簡単に過去に目を瞑れるものだろうか。
忘れて、生きていけるのか。
時間の感覚がぼやけていたが、時計を確認すると、1時間ほどが経っていた。
「私、そろそろ帰るね。このあと予備校があるから」
閉じかけた教科書をバッグにしまいながら、杉原さんが静かに告げる。
「そっか。そのまま行くの?」
杉原さんは思わず吹き出しそうになりながら、眉を下げた。
「まさか。いつもの姿に戻すよ」
「……そっか。杉原さんも大変そうだね」
「この姿で予備校なんて行ったら、間違いなく浮くよ。それに、お母さんにも怒られちゃうし」
そう言って、ほんのわずか、寂しそうに目を伏せる。
けれど次の瞬間には、またおどけたような笑みを浮かべて、こちらに顔を向けた。
「でもまあ、裕斗君には負けるかな」
その言葉に、苦笑いしか返せなかった。
短い時間だったが、杉原さんは好き勝手に振る舞っているようでいて、どこかで常に空気を読んでいた。
だからこそ、俺も自分なりの誠意を返すべきだと感じた。
「……俺とはあまり関わらない方がいい」
ぽつりと漏らしたその言葉に、杉原さんはふっと眉を上げた。
けれど、反論するでも、驚くでもなく、ただ小さく笑って応じた。
「それを決めるのは、私。
でもな~、裕斗君は、私と関わりを持ちたがるよ」
「どうしてそう思うの?」
「だって、私ってかわいいでしょ。
私がいつもの姿で隣に座ったら、裕斗君はきっと避けてたと思う。でも、本当の姿だったから、裕斗君はその場にとどまった。自分の性格的にどう思う? この姿じゃない私が、いきなり隣に来て、ぐいぐい来られたらどう反応する?
少なからず、この姿の私となら一緒にいてもいい、裕斗君はそう認識したんだよ。自分を責めないでね、同じようなことは幾度となく経験してる。裕斗君だけじゃなくて、みんなそうなの。そんなものなの」
何も言葉が出てこない。
「まぁ、なんかあったらいつでも連絡して」
そう言い残して、返事を待つことなく杉原さんは立ち上がった。
椅子がわずかに軋み、細身の肩にカバンを掛けると、一言も声を発さずに静かに歩き去っていった。
取り残されたのか、それとも解放されたのか。
杉原さんは予備校へ向かった。
先程まで杉原さんの言動を途切れ途切れに観察していたが、自分の未熟さを痛感した。
杉原さんにしろ、結衣さんにしろどこか似た雰囲気がある。
そして多くのことに秀でていて、自分にとって都合の悪い部分を見透かしてくる。
なにが違うのか?
環境のせいなのかだろうか。
あるいは、氷のように澄み渡った、病的な神経の世界が関係しているのだろうか。
あるいは…。
「やめだ」
いくら挙げたところで甘えであって、言い訳にすぎない。
…今からでも取り戻せるのか。
さきほどまで差し込んでいた西陽はすっかり姿を消し、窓の外は漆黒に沈んでいる。街の灯りが遠くにまたたき、校舎のガラス越しに、静かに滲んで見えた。
「……そろそろ帰るか」
俺も荷物をまとめて、ゆっくりと帰路についた。