12 初の定期考査に向けて
「今日で定期考査3週間前だ。2週間前から勉強を始める生徒が多い。ただ、君たちは今日から始めるんだぞ」
帰りのホームルームの時間。
いつもは事務的に一言二言を告げて終わる担任が、この日に限って、妙に教師らしい語り口で長々と語っていた。
勉強するのは俺たちなのに、どうしてそんなに偉そうなのか、そう思わなくもない。
けれど、その理由は明白だった。
「古典だけは絶対に勉強しろ。小林先生が副担任をしている自らのクラスで、点数が低いなんてことは、あってはならない!」
今日は珍しく、彼女がホームルームに顔を出していた。
そのためか、担任はやけに張り切っていて、別人みたく熱血教師へと変貌をとげていた。普段のテンションとの差が激しすぎて、聞いているこちらが気まずくなるほどだ。表情も明るいし、肌も心なしか艶やかだ。
対する副担任はというと、どこか困ったような、それでいて達観したような微妙な表情を浮かべていた。
目元は笑っておらず、口角だけが形だけ持ち上がっている。失笑と呼ぶには優しすぎて、苦笑と呼ぶには温度がない、そんな曖昧な表情だった。
担任の気持ちは、わからなくもない。
人は誰しも、誰かの前では少し違う自分になるものだ。
そういう不器用な感情の演じ方もまた、人間らしさなのかもしれない。
「いいかお前ら、古典の平均点は絶対、俺たちのクラスが一番とるぞ!!」
ホームルームが終わるや否や、野球部の上田が勢いよく立ち上がり、声を張り上げた。
担任に何か吹き込まれたか、あるいは単に乗せられただけか、古典への士気をさらに高めようとしているようだった。
教室を見回すと、頷く生徒もいれば、目をぎらつかせる者もいた。中にはすでに古典の教科書を取り出し、真剣な顔でページをめくり始めている者までいる。
みんな、本気らしい。
そして俺も、そのうちの1人だ。
煽りも煽られもしない。
ただ、やるときはは、やろうと思う。
ホームルームが終わると同時に、鞄を持って教室を出た。向かう先は図書室。
一階には自習室として開放されている教室もあるが、あそこはいつも混んでいる。
机と机の間は狭く、空気はこもりがちで、みんながマナーを守るわけでもない。
何度か使ってみたが、酷い目にあった。
あんな環境じゃ集中できない。
その点、図書室は穴場だった。
人の出入りは少なく、利用者もせいぜい2、3人。静かで空気も澄んでいて、なんというか、気が楽だった。
俺は余裕をもって行動したい性格だ。
ギリギリになって焦るような状況はできれば避けたい。だから、担任に言われなくても、3週間前から勉強を始めるつもりでいた。
学校では、苦手教科に集中しようと思っている。
家に帰ればどうせダラける。ましてや、苦手科目に取り組む気力なんて湧かないのは、自分が一番わかっている。
図書室の奥、窓際の席に腰を下ろし、数学の教科書を開いた。
目を通していたのは応用問題のページ。授業中に挑戦したものの、ちんぷんかんだった問題。
…いくら読んでも意味が入ってこない。式は複雑で、そもそも問題文も何を求めているのかわかりづらい。
5分ほど、ねばりながら考えていたが、何もわからない。ただ、無力感だけが濃くなっていく。
「……古典でもやろうかな」
思考なんてそんなものだ。自然と楽なほうへ、楽なほうへと流れていく。
バッグにそっと手を伸ばし、古典の教科書を引き寄せようとした、そのときだった。
「隣、座ってもいい?」
一筋の声が、耳をかすめた。
反射的に背筋がこわばり、呼吸が詰まった。何かが、胸の奥で微かに跳ねた。
この感覚は、初めてだった。
体に戦慄が走るとは、こういった感覚なのかもしれない。
「…」
図書室にはまだ、空席がいくつもあった。というか、俺しかいない。
それなのに、わざわざ隣を選んでくるということは、顔見知りの関係なんだろう。
けれど咄嗟には反応できず、机の上からゆっくりと顔を上げ、戦慄を与えた誰かに向き合う。
見上げた先にいたのは、自分の想像していた顔とはまるっきりちがう女性だった。
「すいません、知り合いとか……じゃないですよね?」
「えー、いつも一緒にいるじゃん。さっきだって一緒にノート配ったよね」
「杉原さん……?」
「うん」
やはり思い浮かんでいた通りだった。
杉原真由。
同じクラスで、俺の斜め後ろの席に座っている女子生徒。
世界史の教科員を一緒に担当していて、その関係で多少の会話を交わすことはあったが、それ以外で話したことはほとんどない。
クラスでも目立たず、誰かとつるむこともなく、常にひとりでいるタイプ。
制服はきっちり着こなし、メイクもしていない。成績も生活態度も申し分なく、いわゆる〝模範的な生徒〟…。少なくとも、俺の中ではそうだった。
「だいぶ無理してない?」
「いや、これが本当の私」
そう言って微笑む杉原さんの姿は、これまでの印象をあっさりと覆した。
もともと大きめの目は、切れ長というより丸みを帯びた形で、やや下がり気味の目尻が柔らかさを添えている。そこに黒のアイラインが細く引かれ、まつげはマスカラで一本一本が長く際立ち、普段より数段くっきりとした印象を与えていた。下まぶたには控えめなラメが散りばめられ、瞬きのたびにほのかな光がきらめく。
鼻筋はすっきりと通っているが主張しすぎず、顔全体のバランスを整えるように中央で静かに収まっている。頬骨は高くなく、ふっくらとした輪郭を形作り、そこに淡いチークが差されて血色を自然に引き出していた。
唇は厚すぎず薄すぎず、丸みのある形。透明感のあるグロスが塗られていて、柔らかい光沢が視線を引き寄せる。肌全体は下地で整えられており、均一な明るさを帯びている。
杉原さんは普段マスクをしていることが多く、じっくりその下の顔を見るのは、初めてかもしれない。濃すぎることも薄すぎることもないメイクだが、全体を通して調和されているし、何より本人の持つ顔のポテンシャルを最大限に引き出せている。
「そ、そうなんだ……」
こればかりは認識の範疇を超えている。
見るからに別人なのだから。
これが、杉原さんの〝本当の姿〟。
カーテンの隙間から、午後4時過ぎのの西陽が図書室の一角に差し込んでくる。
淡く揺れる光が、彼女の横顔に柔らかく当たり、反射するかのように白く滑らかな肌がほのかに輝く。
「動揺しすぎ!」
声に気づいたときには、杉原さんは既に隣に座っていた。
許可を取る素振りもなく、自然な流れで間合いを詰めてくる。
ふわりと香る甘やかなフレグランス。
その香りは、ただ鼻腔をくすぐるだけではなく、思考のまで到達し、頭の中が上手く整理できない。
「どうして変装を?」
「……あまり目立ちたくなくて。この姿で毎日過ごしたら、きっと騒がしく日々を送ることになるじゃん。そんな中にいる疲れるじゃん」
「そっか……」
その言葉には、妙に実感がこもっていた。
自分もまた、人目を避けるように日々を過ごしているから、なんとなく気持ちはわかる。
「逆に聞くけど、どうして変装を?」
「……なんのこと?」
「さすがに、それは無理があるよ。
同じことしてる人間が、こんな近くにいて気づかないと思ってる?」
そう言いながら、杉原さんは俺の眼鏡にそっと手を伸ばそうとする。
白く透き通るような腕が視界の端で動く。細く、頼りなげで、簡単に壊れてしまいそうな華奢なライン。
「一旦、落ち着いて」
面倒なことになりそうな予感がして、軽くその手を払った。
力はほとんど込めていない。
「別にいいじゃん。じゃあ、普段はどんなメイクしてるの?」
…完全に見抜かれている。
メイクというのは時間とともにどうしても崩れていく。朝に仕込んだものも、夕方にはどこか綻びが出る。それを、これだけ近い距離でじっと見られたのなら、隠し通せるはずもない。